第29話 聖騎士教会からきた女子騎士①
『絶対なる支配者』と呼ばれていた存在。
ロリコンのキモデブが、九重の手によって無残に殺されてから、すでに数時間が経過していた。
真上には、容赦という概念を忘れたかのような太陽がある。
あまりにも眩しすぎる白光が、逃げ場のない高度から一直線に地上を射抜き、アスファルトをじりじりと焼き続けていた。
時刻は、一日のうちでもっとも暑さが牙を剥く時間帯。
気温は軽く35度を超えているだろう。とはいうものの、それはあくまで数値上の話であって、体感的にはそれ以上――40度近くまで跳ね上がっているのではないかと錯覚させる。
肌に触れる空気は熱を孕み、呼吸をするたび、肺の奥へとじっとり重たい何かが沈殿していく。
ミンミン、
ジジジジジ――。
夏の虫たちが、まるで油鍋に放り込まれたかのような勢いで鳴き狂っている。
その音は単なる背景音ではない。圧力だ。音圧となって鼓膜を叩き、じわじわと神経を侵食し、思考の隙間へと染み込んでくる。
湿度は高く、汗は蒸発する素振りすら見せない。額から、首筋から、背中から滲み出た水分は、ただ皮膚の上を這い回り、衣服を重くするだけだった。
不快指数は80を余裕で突破しているはずだ。
日陰に身を置いていても、じわり、じわりと背中に汗が浮かび、シャツが肌に張り付く感覚が消えない。
8車線はあろうかという幹線道路では、相変わらず慢性的な渋滞が発生していた。
ブッ、ブッ――と短く苛立ったクラクション。
エンジン音が低く唸り、ブレーキがきぃ、と軋む。
それらすべてが折り重なり、都会特有の雑音となって空間を満たし、熱気とともに街を包み込んでいる。
そのすぐ脇。
およそ6m幅の歩道を、ネクタイを緩めたビジネスマンが汗を拭いながら足早に通り過ぎ、学生たちが無邪気な笑い声を上げ、休日を楽しむ家族連れがゆったりと歩いていく。
生活のリズムは、何事もなかったかのように続いていた。
喧騒は、手を伸ばせば触れられそうな距離にある。
そんな歩道に面したカフェテラスで、
一人の女と、一人の男が、向かい合って静かにお茶をしていた。
女の名は六惺。
知的な輪郭を持つ端正な顔立ち。通りすがる者の視線を、意識せずとも自然に引き寄せてしまうほどの美少女である。
清楚で、涼やかで、完成されすぎているがゆえに、どこか人を寄せ付けない距離感を纏っていた。
とはいうものの――
その内面は、外見とは致命的なまでに食い違っている。
外道に限定して、弱者をいたぶり、殺すことを純粋な愉悦とする、生粋のサイコパス。
その狂気は一切表に滲まない。静かな微笑の奥底に、底なしの闇として沈殿し、ゆっくりと澱んでいる。
同じテーブルに腰掛ける男の名は八十郎。
競艇場で新聞を握りしめ、すべてを失ったかのような絶望を身に纏っていそうな、40を過ぎた冴えない親父だった。
肩は落ち、背中はわずかに丸まり、この場に存在していること自体が間違いであると、全身で主張しているように見える。
剣豪――すなわち八十郎は、魔女に連れられる形で、この洒落たカフェの軒先に座らされていた。
繁華街のど真ん中。
その立地ゆえ、純血の魔女と剣豪のすぐ脇を、人の流れが途切れることなく通り過ぎていく。
通行人たちはちらりと視線を投げ、六惺と八十郎を一瞥すると、ほとんど反射的に結論を出す。
――援助交際か。
――パパ活だろう。
言葉にされることはない。
ものの、その無言のレッテルは、針のように鋭く、確実に突き刺さってくる。
歩道を行き交うほぼ全員から、軽蔑と蔑みの混じった視線が、集中砲火のように八十郎へと向けられていた。
今から数時間前のことになる。
八十郎と九重は、六惺に呼び出されていた。
もっとも、仰々しいものではない。ギルド会館で仕事をしていた二人に、魔女が声を掛けただけ――ただそれだけの話だった。
六惺は、九重の内に眠っていた『狂乱化』の魔術回路を起動させた。
それによって人狼の女は、魔女の命令のもと、『領域支配』という黒魔術を操る真の天才――ロリコンのキモデブと戦う運命へと、否応なく叩き込まれたのである。
剣豪に関しては、ただ一言。
「付いてきなさい」
そう命じられただけだった。拒否権など、最初から存在しない。
結果、ギルド会館からこのお洒落カフェまで、何も分からぬまま同行する羽目になった。
正面に座る純血の魔女は、向かいの親父など最初から存在しないかのように、タブレット端末へ視線を落としている。
すらすらと動く指先。
画面上には、AI生命体となる基本設定図が、淡々と書き綴られていく。
『アルカイックレコード』に基づき、新たな生命体を生み出すための準備。
人の命を弄ぶような作業を、日常業務の延長であるかのように、感情の起伏もなく進めていた。
一方の八十郎はというと――
歩道を行き交う人々、カフェの店員たちから向けられる冷たい視線を、嫌というほど感じ取っていた。
周囲が自分を「パパ活中の冴えないオッサン」と判断していることを、痛いほど自覚している。
そもそも彼は、六惺がこのカフェに来た本当の目的を、まったく理解していなかった。
恐怖の対象である魔女に話しかけられたこと自体が原因だろう。
ギルド会館から後ろを付いて歩いてきたにもかかわらず、サイコパスである彼女にビビりすぎてしまい、目的どころか、一切の会話ができなかったのだ。
結果、八十郎はただ、自身の不幸について考えるしかなかった。
≪どう考えても、周りからは絶対にパパ活だと思われてるよな。俺みたいなイケてない親父が言うのも何だが、相手が魔女なら、援助されるのは俺の方だろ。そもそも俺は、お洒落カフェって空間が致命的に苦手なんだ。まさかとは思うが……俺と茶を楽しむためだけに、ここへ来たわけじゃないよな? 勘弁してくれ。魔女は近くにいるだけで神経がすり減る生命体なんだ≫
太陽は、なおも容赦なく照り続けていた。
気温はさらに上昇し、ミンミン、ジジジ――虫の鳴き声が、頭の奥まで染み渡る。
八十郎にとって、お洒落カフェに入ってからの10分は、異様なまでに長く感じられた。
魔女と同じテーブルに座らされているこの状況は、罰ゲーム以外の何物でもない。
精神はじわじわと削られ、不安は底なし沼のように広がっていく。
――このままでは持たない。
そう直感したのだろう。
精神的圧力に晒され続け、我慢の臨界点が近づいていることを悟り、八十郎はついに決意を固めた。
魔女がここへ来た目的を尋ねる。その答え次第では、即座にこの店から脱出するつもりだった。
とはいうものの。
この後に交わされる会話は、彼の予想を大きく裏切る方向へと転がっていく。
剣豪は、混乱することになる。
「……魔女さん。一つ、聞いてもいいですか?」
八十郎は、ほんの一瞬だけ呼吸を整え、言葉を選ぶように間を置いてから切り出した。
午後のカフェテラスには、やわらかな陽光が満ちている。
平和だ。
あまりにも、平和すぎる光景だった。
「剣豪さん。もしかして――『パパ活』についての質問をされるつもりでしょうか?」
あっさりと。
しかも妙に自信満々な口調で、六惺は言い切った。
その瞬間だった。
八十郎の肩が、びくりと跳ねる。
「え! パパ活ですか。どうして俺の考えていることが分かるのですか?」
思わず声が裏返る。
自分でも分かるほど、動揺していた。
「はい。私は人の心を読み取る達人ですから?」
六惺は得意げに微笑んだ。
可憐で、整っていて、隙のない笑顔。とはいうものの、その奥には、底が見えない何かが確かに潜んでいるようにも思える。
「マジですか。さすが魔女さん。おみそれしました」
八十郎は大げさに驚き、軽く頭を下げてみせる。
が、内心では別の声が、渦を巻くように響いていた。
――おいおいおい。
――何が心を読み取る達人だ。
――俺とこの美少女が向かい合って座ってりゃ。『パパ活』に見られるくらいのこと。誰でも分かるってものだろ。
――その図々しさ。ギルマスを名乗る、あの烏とそっくりじゃないか。
六惺は、誰がどう見ても美少女だった。
整った顔立ち、透き通る肌、無駄のない所作。そのすべてが自然体で、まるで最初から「絵になる存在」として生まれてきたかのようだ。
剣豪である八十郎は、仮に周囲から冷ややかな視線を浴びようとも、魔女のような美少女と『パパ活』をしていると誤解されるのなら、それはそれで悪くない――そんな、どうしようもない妄想を、ほんの一瞬だけ巡らせてしまった。
しかし、現実は違う。
致命的に、違っていた。
今、向かい合っているのは、天使の皮を被った悪魔そのもの。
ただ茶をしているだけで、精神をじわじわ、じわじわと削り取られていく。これはもう、拷問か、あるいは耐久試験に近い。
≪近くにいるだけで精神が削られていく魔女と、『パパ活』をしているのでは、と誤解されているとは……
地獄過ぎる環境だぜ。
というか、魔女はこの状況をどう思っているんだよ!≫
八十郎は、自分を我慢強い男だと信じて疑わなかった。
ものの、その自負も、どうやら限界に差し掛かっているらしい。
心の奥で、危険水域を示す針が、ぎり……ぎり……と音を立てながら振り切れようとしている。
先ほど、決死の覚悟で「このお洒落カフェで茶をしている目的」を尋ねようとした――が、完全にタイミングを逃してしまった。
精神が完全に崩壊する、その前に。
八十郎は、再び問いかけるという選択を取る。
「魔女さん、質問してもよろしいでしょうか?」
「すいません。お断りさせていただきます」
即答だった。
しかも、謝罪の気配など、かけらも感じさせない声音である。
「え、いきなり何ですか。謝られても困るんですが……そもそも、俺は一体、何を断られたんでしょうか?」
「はい。剣豪さんが私に『パパ活』の申し込みをするのではないかと察したまでのことです」
「俺が魔女さんに『パパ活』を申し込むと考えた、と?」
「言いにくいだろうと思いまして。気を遣い、聞かれる前に返事をさせてもらいました」
「魔女さん、ちょっと誤解されていませんか?」
「あー、あれですか。いいですよ。誤解ということにしておきます。安心してください。私は気が遣える女ですから」
「いや、だから誤解です。魔女さんがしているのは、完全な誤解です」
「念のため聞いておきますが、私が何を誤解したと言われているのでしょうか?」
「はい、例え亀が腹筋をしても、俺が魔女さんにパパ活を申し込むことなど、絶対にありません」
「おかしいですね。男のほとんどは、可愛い女の子を見ると『パパ活』のことばかり考える、ミジンコ以下の生き物だと聞いたことがあります」
「ミジンコ以下の生き物って、どこでそんな話を聞いたんですか!」
「剣豪さん、あわよくば……なんて甘い期待はしないでください」
「だから違います。偽情報です。魔女さん、偽情報を掴まされています」
「私が簡単に騙される、チョロい女だと考えていたわけですか……。火炙りにしてでも差し上げましょうか? あー、なるほど。そういうことですか。私からご褒美を貰おうと画策していたわけですね。本当に男とはお馬鹿な生き物なのですね?」
「すいません、魔女さん。いったい、なんの話をされているのですか?」
「剣豪さん、申し訳ありませんが、くだらない話にお付き合いできるのは、ここまでです」
「え、俺が魔女さんに話を合わせてもらっていたということですか?」
その瞬間。
六惺の視線が、ふっと横へ流れた。
空気が、変わる。
カフェテラスを満たしていた穏やかな喧騒が、すっと遠のき、音の膜が一枚剥がれ落ちたような感覚が走った。
「敵です。君の敵が、ようやくやってきたようですよ」
――ザワッ。
八十郎は、すでにその存在を把握していた。
すぐそこだ。
二人が座るテーブル席から、わずか5mほど先。
太陽光を受け、きらりと反射する金色のボブカット。
その輝きは、飾り気のないはずの少女の輪郭を、異様なまでに際立たせている。
――彼女の名は、Astrid。
年齢、16歳。
聖騎士教会に属する、正真正銘の騎士であった。
戦闘の気配が、空気に滲み出す。
見えない圧が、じわり、じわりと広がり、呼吸の密度さえ変えていく。
剣豪・八十郎は、敵の接近によって緊張感が一気に跳ね上がるのを感じながらも――なぜか、胸の奥が少し軽くなるのを自覚していた。
――魔女から、解放される。
そんな予感が、確かにあったのだ。
とはいうものの、これから始まる戦いが、楽なものになるはずもない。
それでも。
今この瞬間だけは、悪魔のような女と向き合い続けるより、よほど気が楽であった。




