第28話 絶対なる支配者⑤
≪私は『狂乱化』を使用する≫
――カチリ。
それは、耳という器官を経由して届く音ではなかった。
鼓膜を震わせる類のものではなく、もっと内側――血管の奥、神経の芯、あるいは魂そのものと呼ぶべき領域で、何かが確実に切り替わった感触であった。
見えるはずのないスイッチ。
触れた覚えもない機構。
それが、確かに“入った”と、九重は理解していた。
次の瞬間。
脳が、燃え上がる。
思考が発火し、情報処理能力が臨界点を超えて跳ね上がっていく。
視覚、聴覚、嗅覚、触覚――あらゆる感覚が、常識という枠組みを破壊しながら再構築されていくのが、はっきりと分かった。
――世界が、止まった。
否。
止まったのではない。
世界は動いている。
ただし、あまりにも遅く、あまりにも鈍重で――
九重の認識が、そのすべてを置き去りにしているだけだった。
音が、消失する。
ざわめいていた風の気配が、引き延ばされ、薄められ、やがて遠くへと剥ぎ取られていく。
色彩は急速に彩度を失い、世界全体が、くすんだセピア色へと沈み込んでいった。
その静止した世界の中で。
視界の端に、無機質な表示が、すっと浮かび上がる。
六惺が口にしていた、あの――タイマー。
――――――0.000秒
≪これが……魔女が見ている景色。これが、魔女のいう“無敵の時間”なのか……≫
拳闘士の女の脳裏に、かつて聞いた魔女の声が、妙に生々しく蘇る。
あらゆる効果を受け付けない時間。
その言葉どおり、キモデブが展開していた『領域支配』による精神圧迫は、霧が陽光に溶けるように、すうっと消え失せていった。
重く、肺を押し潰すようだった空気が、嘘のように澄み渡る。
呼吸が、やけに軽い。
視界は、異常なほど冴え渡っていた。
肥満体型の神父が展開している『カウンター魔術』。
その構造。
起点。
発動条件。
幾重にも絡み合っていた魔術式が、まるで設計図を一枚ずつ剥がすかのように、“分解図”として視界に展開されていく。
『狂乱化』を発動させたことで――
人狼の彼女は、あらゆる点において、キモデブの神父を完全に凌駕する領域へと、踏み込んでいたのである。
≪なるほど……攻撃を仕掛けた瞬間、ロリコン神父の『カウンタートラップ』が作動し、全ダメージが私に跳ね返る仕組みか≫
視界の歪み。
肌にまとわりつくような違和感。
その正体も、すでに理解していた。
『リフレクト』。
それが、この異常現象の本質だった。
キモデブまでの距離、16m。
詰める。
一歩。
極端なほどゆっくりと――とはいうものの、確実に距離は縮んでいく。
――ぐっ。
足を踏み出した瞬間、空気が変質する。
重い。
いや、粘性を帯びている。
透明な泥に全身を絡め取られたかのような抵抗感が、皮膚の表面を這い、関節にまとわりつく。
背後には、自身の残像が幾重にも折り重なり、そこに“残留”して見えていた。
時間が、彼女の動きに追いつけていない。
そのとき。
視界の隅で、タイマーが、ほんのわずかに進む。
――――――0.001秒
≪……まだ0.001秒。歩いている感覚はあるのに、実際の移動速度は音速を超えているのか。魔女は0.1秒あれば十分だと言っていたな。やはり、魔女の言葉は正しかった。……とはいうものの、このキモデブ、強敵だったことは認めよう。だが、今の私の敵ではない≫
――――――0.005秒
距離、1m。
視界いっぱいに迫るのは、限界まで膨れ上がった顔面だった。
皮膚は張りつめ、脂肪に埋もれた輪郭は人のそれを失いかけている。
弛み切った頬肉の隙間から、脂ぎった汗が一滴――ぽたり、と落ちる。
いや、落ちない。
その一滴一滴が、重力を忘れたかのように空中で静止していた。
空気は凍結し、音は死に、時間そのものが薄く引き伸ばされている。
世界が、まるで呼吸を止めているかのようだった。
鼻腔を刺すはずの強烈な加齢臭。
それすらも、もはや嗅覚の問題ではない。
輪郭と質量を伴った“情報”として、視界の端に浮かび上がってくる錯覚。
嫌悪感は確かにある。とはいうものの、それはどこか遠く、
自分とは無関係な感情として処理されていた。
九重は、すでに理解していた。
目の前のキモデブ――
その全身が、隙間なく『リフレクト』の結界に覆われていることを。
殴ろうが、蹴ろうが、斬ろうが、あらゆる攻撃は跳ね返され、
同時に『カウンタートラップ』が起動する。
踏み込めば即死。極めて完成度の高い、防御兼殺戮の構え。
そして同時に、悟ってもいた。
その完全防御を破壊し、罠を無効化する――
唯一にして、絶対の方法を。
≪なるほど……理解した。信じがたいが、この『狂乱化』をもってしても、魔女には及ばないのだろうな≫
≪……ものの、今はどうでもいい≫
≪まずは、この世界に生きていてはいけないロリコン変態デブを――抹殺する≫
思考は短く、鋭い。
刃が振るわれるよりも先に、結論は出ていた。
――――――0.006秒
九重は、迷わず踏み込む。
躊躇はない。計算もない。
肉体が、魂が、ただ自然に“正解”を選び取っている。
地面を踏みしめる感触はあるはずなのに、
スローモーションの世界では、それすらも曖昧だった。
腕が伸びる。
肩、肘、手首が、寸分の狂いもなく連動し、
揃えられた指先が、一本の刃――手刀となる。
狙いは首元。
斬るのではない。
“跳ねる”ように、軽く、しかし確実に。
ザン――。
乾いた擬音が、遅れて世界に刻み込まれた。
音が鳴った瞬間には、すでに結果は確定している。
即死。
悪行を積み重ねてきた親父は、
魔女のいる都市に足を踏み入れるべきではなかったのだろう。
とはいうものの、後悔も恐怖も、もはや彼には関係がない。
それらを味わうための“時間”そのものが、与えられていないのだから。
肥満体型の神父の人生は、この瞬間、完全に断ち切られていた。
――もっとも。
本人は、まだ自分が死んだことを理解していない。
時間が流れれば、血は噴き出し、肉体は崩れ落ちる。
その“予定された未来”を、九重は当然の帰結として受け止めていた。
――そのときだった。
人狼の女――九重の体内から、
身に覚えのない**“物体”**が、ぬるり、と姿を現す。
野球ボールほどの大きさ。
鈍く光る鉛色の球体。
ズズ……と湿った音を立てながら、地面を這う。
【運命の戦車(semita fatum chariot)】
六惺が好んで使用する、
『地面を走る追尾型爆弾』。
未来を視ていた純血の魔女は、
キモデブの死骸を跡形もなく消し去るため、
あらかじめ九重の体内に、それを忍ばせていたのだった。
≪これは……魔女が、かつて私の命を奪おうとした爆弾≫
≪キモデブを燃やすために、私の体に仕込んでいたのか≫
≪あの魔女は……ここまで見えていたというのか≫
≪……いや、もう疑いようがない≫
結論は、ひとつ。
≪魔女は――未来を知る力を、持っている≫
――――――0.007秒
『狂乱化』の時間に乗り、
運命の戦車は、音もなく起爆する。
ドン――という衝撃すら、存在しない。
爆音も、衝撃波も、破壊的な派手さもない。
ただ、
地獄行きが確定した者だけを選別する炎が、
静かに、しかし確実に燃え上がった。
炎は、キモデブへと移る。
150㎏を超える巨体が、じわじわと、
だが抗う術もなく、光と熱の中へと溶けていく。
ジュ……
パチ……。
肉が焼け、脂が蒸発し、
存在そのものが削ぎ落とされていく。
その過程は、あまりにも静謐で、
あまりにも無慈悲だった。
九重は、その光景を、複雑な心境で見つめている。
≪この炎に……私は燃やされようとしていたのか≫
≪今更ながら、よく私は、あの魔女と戦い、生き残れたものだな≫
畏怖。
納得。
そして、背筋を撫でるわずかな寒気。
それらが、胸の奥で、静かに混ざり合っていた。
――――――0.025秒
キモデブの体は、完全に消滅していた。
肥満体型の神父が、この世界に存在した痕跡は、
灰も、血も、匂いすらも――何一つ残っていない。
気付けば、『狂乱化』は解除されている。
引き伸ばされていた時間は、元の速度へと戻っていた。
九重の前を、小学生たちが楽しそうに歩いていく。
きゃはは、と笑い声が弾み、
青い空からは、鳥のさえずりが降り注ぐ。
九重は、子供たちを見守る大人の一人として、
ごく自然に、軽く会釈を返していた。
さきほどまで、死と炎が支配していた場所に、
いつもと何一つ変わらない日常が流れている。
それが、この世界なのだろう。
恐ろしく、そして、何事もなかったかのように残酷である。
――――――
二つ名は『領域支配』。
真の天才であった、キモデブのロリコン神父。
死亡を確認。




