30.時と距離を越えて(1)
ネグリジェにカーディガンを羽織ったコリーナは、軍服をゆるく着ているウルバンに抱えられて、辺境軍の皇都方面側出入り口の防壁にある岩作りの見張り台にいた。
二人の眼下に広がるのは、ひび割れ、砂になりかけている痩せた大地。
死にかけの地面を覆わんとするかのような大軍が、リスタルパーの森からあふれ出て、このカーマレッキスの方向へと進軍して来ていた。
大軍の上空には、三頭のペガサスまで見えた。
「二度目の帝位に就いた金杯王……、いや、金杯王ではなく上皇だったか。彼らはもうすぐここにやって来るだろう」
ウルバンはコリーナを見張り台を囲っている胸壁に座らせた。
コリーナは腰をひねって、背後の大軍とペガサスを見た。彼らがここまで来るには、まだまだ時間がかかりそうだった。
ウルバンがコリーナの前でひざまずいた。
「コリーナ嬢」
ウルバンはコリーナの手をとった。
コリーナは不思議そうにウルバンの空色の目を見つめた。
「私の妻になってほしい」
コリーナは言われたことが理解できず、しばらく固まっていた。
ウルバンは身動き一つせず、コリーナの返事を待った。
「私の妻になってくれないだろうか……?」
ウルバンがためらいがちに言い直すと、コリーナの頬がゆっくりと赤く染まっていった。
コリーナは自分とウルバンが、『半獣半人の統治権』のためにすでに入籍したことを知っていた。コリーナが寝台から自力で身を起こせるまでに回復すると、ウルバン自身が教えてくれたのだ。
「もちろん……! もちろんなりますわ!」
コリーナは倒れ込むようにウルバンに抱きついた。
ウルバンは厚い胸板と力強い腕でコリーナを受け止めた。二人の目線があうようにコリーナを抱えると、ゆっくりと立ち上がった。
「わたくしも言わなければならないことがありますのよ」
「なんだろうか?」
ウルバンはコリーナの額に、自分の額を当てた。
「わたくし、あなたと一緒にいてわかりましたの。前世の『わたくしのウルバン』は、絵画の中の方のようなものでしたのね。隣に座って楽しいお話をしてくださって、それは素敵な方で……。当然ですわね、座ってお話しているだけならば、ずっと格好良くいられますもの」
「俺も貴女の前では、ずっと格好良くいたかったのだが……」
「きっと前世のウルバンも、初めて橇引き神狼に変身した時は、首が閉まって、しっぽが折れそうになって、のたうち回ったと思いますわ」
コリーナは軍服姿の橇引き神狼を想像した。
前世のウルバンは、ディートマーの六つに切断された遺体が皇都の外壁から吊り下げられているのを見て、初めて橇引き神狼に変身したのだろう。
イヌ科の獣人が皇都で騒ぎを起こしたなどという話は、前世のコリーナの元まで聞こえてこなかった。
二つの緊急事態に直面したウルバンたちは、ディートマーの遺体を取り返すと、本拠地であるカーマレッキスに戻ってその後の対策を練ったのだろう。
「軍服の生地は絹よりもずっと硬い。大変な騒ぎだっただろうな」
ウルバンは楽しそうに笑った。
「共に生きるというのは、素敵で格好が良いことばかりではない……。ここにいるウルバン様は、わたくしに生きていくということがどういうことなのかを教えてくださいました」
「貴女は生きていても、常に愛らしいばかりだが……。俺は素敵でも格好良くもない時があるとは、どういうことなのだ」
ウルバンはわざと拗ねたように言って、喉の奥で笑い声を出した。
「求婚していただけて、とてもうれしかったですわ」
「入籍と順序が逆になってしまった。すまない」
「どうやら、そこが生きていくことの面白さのようですわよ」
ウルバンは笑うコリーナの額に口づけた。
ウルバンとコリーナは再び防壁の外に目をやった。
痩せた大地に大軍勢が整列し、大きな横長の四角形が八つも描かれていた。
四角形から五百騎ほどが離れて、まっすぐにこの兵営へと向かってきた。上空にいる三頭のペガサスも一緒に来るようだ。
残った四角形もすぐに崩れて、兵士たちはそれぞれの領地へと戻って行くようだった。
コリーナもウルバンに抱えられたまま、軍幹部宿舎の医務室へと戻って行った。
コリーナはもう自力で歩くことができたし、ネグリジェを着て医務室にいる必要もないほどに回復していた。いまだコリーナが病人のように扱われているのは、ウルバンが瀕死だったコリーナを必要以上に心配しているからだった。




