29.婚姻の成立
辺境軍の軍幹部宿舎の医務室の中央に、コリーナの横たわる寝台が置かれていた。
コリーナの寝台の横には、真新しい軍服を着たウルバンが立っていた。
「それじゃあ、始めるぞ!」
レネーが丸いテーブルの上に、王侯貴族婚姻許可証を広げた。
「えー、わたくし、戸籍管理局の辺境支部長のハイマンでございます。この度、ディートマーさんとレネーさんに脅されまして、ここでお手続きをさせていただきます」
赤毛の初老の小男は、ハンカチで額の汗をぬぐった。
「んー、今、なにか聞こえなかったかなぁ? 戸籍管理局のご立派な辺境支部長の奥さんが、半獣半人だ、とかなんとか」
ディートマーがハイマンに笑いかけ、ハイマンは小刻みに首を横に振って否定した。
「まず、一番元気なウルバン、じゃなかった、アロイス・ホーラン。ここに名前を書け」
ウルバンはレネーが示した場所に、『辺境王アロイス・ホーラン』と書いた。
レネーはテーブルを持ち上げて、コリーナの寝台の横に置いた。
次にコリーナがウルバンに抱き起こされ、ウルバンに手を添えられて、レネーに示された場所に『皇太子元許嫁兼任公爵令嬢コリーナ・ザーランド』と名前を書いた。
「これで婚姻する二人の記名は済んだな。ハイマン、どうだ。問題ないな?」
レネーがハイマンに書類を渡した。
ハイマンは書類をのぞき込んだ。
「コリーナ嬢は皇太子の許嫁を廃位されはしましたが、皇太子の許嫁以上の地位で『上書き』がされていないため、法律上この表記となります。男爵が王に『成り上がった』という場合は、『上書き』がされたために、兼任などと長々と書かずに済むんですけどね。なにが兼任か意味がわかりませんよねぇ、廃位されてるんですし。ですが、これでいいのです。これで問題ありません」
「専門家を呼んでおいて良かったぜ。ハイマンの旦那、礼を言うよ」
「わたくしはね、レネーさん。娶りたい女のために戸籍管理局に勤め始めて、そのまま三十年。皇都本部長を狙える場所まで来た男ですよ。そこいらの軟弱者とは、据わっている度胸が違うんですよ。脅された、なんて体裁を整えて守ってもらわなくたって、自分の身は自分で守れます。甘く見ないでいただきたかったですね」
「あんたが来るのを妙に渋って、ずっと機嫌が悪かったのってそれかよ!」
レネーが舌打ちすると、ハイマンは楽し気に声を出して笑った。
レネーは今度はテーブルを、ツァハリアスの寝台の横まで持っていった。
「金杯王殿下、こちらにお名前をお願いします」
フォルカーがツァハリアスを抱き起し、ツァハリアスはほとんど突っ伏しているような姿で、『金杯王ツァハリアス・グリッシュロップ』と震える字で記入した。
「ギーゼラ様もこちらにお願いします」
ギーゼラも『元皇太子妃兼任皇太子許嫁指南役ギーゼラ・ナウサ』と書き込んだ。
「それでは、立会人の方々、わたくしめに身分証の提示をお願いいたします」
ハイマンは、フォルカーとギーゼラから渡された二枚の『王侯貴族認定証』を確認し、一つうなずいて二人に返した。
「これで今日より、アロイス・ホーランとコリーナ・ザーランド改めコリーナ・ホーランは夫婦です。それでは、わたくしは戸籍管理局に戻りまして、皇都本部と各支部に送る通知書類を遅滞なく作成いたします。まったく、今日は残業になりそうですよ。ああ、忙しい、忙しい!」
ハイマンは書類を厚紙に挟んで封筒にしまい、鞄に入れて医務室を出て行った。
「間に合ったか……」
ウルバンは寝台に横たわっているコリーナを見つめた。
「ボド、もっとお嬢様にユニコーンの角を飲ませなさい! 目覚めないではないですか!」
ギーゼラが胸元からネックレスを出しながら、コリーナの寝台の横に立っているボドに詰め寄った。
「強い薬は飲ませすぎては毒になると、何度も言っとるだろうて」
ギーゼラがハンカチで涙を拭いながら、医務室から出て行った。
レネーとフォルカーが寝台の配置を直し、ディートマーが「まだちょっと曲がってるじゃん」などと横から口出しをして、レネーを怒らせていた。
「本来ならば、挙式の後に戸籍を変えるというのに、順序が逆になってしまったな」
ウルバンはコリーナの寝台の横にひざまずいた。遠慮がちに指先で蒼白な頬に触れ、すぐに手を引っ込めた。
医務室のドアが開き、乗馬服姿の老年にさしかかりそうな歳の女性が入ってきた。
「アンタら、ユニコーンの角を使ってるんだろ! アタイが領地から取り寄せてやったよ!」
茶色の髪に薄茶色の目をした女性が、指を鳴らして合図をした。女性の後ろに控えていた若い大男が、剥き出しのユニコーンの角を女性に差し出した。
茶色の髪に菫色の目の大男は、傷だらけの裸の腰に、猪らしき獣の腰巻。黒のロングブーツ。長剣の鞘の革ベルトが、裸の肩から斜めにかけられていた。
山賊なのか傭兵なのかわからないが、荒くれ者であることだけは確かな姿だった。
女性は大男からユニコーンの角を受け取ると、驚いているボドに握らせた。
「これはこれは、パンデアージェン男爵! 立派なユニコーンの角ですね!」
ディートマーが若干慌てたように女性に近寄っていった。
「パンデアージェンは北方との交易の要さ! こんな物、いくらだってあるよ! アンタら、人間と半獣半人が結婚できる世の中を作るっていうじゃないか! 必要な物があったら、いつでもこのレネー・パンデアージェンに言いな!」
パンデアージェン男爵は、拳から立てた親指で自分の胸を指した。
「レネー……?」
レネーがつぶやいた。
「おい、優男、てめぇ、レネーの姐御を呼び捨てにしやがったな!」
「やめな、ノルベルト! これだから山賊上がりはいけないね! 悪かったね、若いの……」
レネーとレネーの目があった。
「どうしやした、姐御! 一発ぶん殴っときますか?」
ノルベルトは威嚇するように、太い腕を肩から回して見せた。
「レネー……? いや、そんなわけないね。行くよ、ノルベルト!」
姐御のレネーは踵を返して、医務室を出て行こうとした。
「レネー?」
その背中に、もう一人のレネーが呼びかけた。
「ぶっ殺すぞ、優男がっ!」
ノルベルトが早足でレネーに近寄り、胸倉をつかんだ。
「よしな、ノルベルト! なんかの間違いさ!」
ノルベルトは突き飛ばすようにレネーを放し、自分の姐御であるレネーのところに戻った。
「アロイスじゃなく?」
レネーが問いかけると、「なんだ?」とウルバンが応えた。
二人のレネーがウルバンを見た。
「なぜ二人して妙な目で俺を見るのだ。アロイス・ホーランはディートマーではなく俺だ」
「ああ、あんたが辺境王アロイス・ホーラン殿下かい! なにか足りない物があったら、いつでもアタイに言っとくれ! それじゃ、邪魔したね!」
姐御のレネーは、今度こそ医務室を出て行った。
「俺もどうかしてるぜ……。アロイス様は処刑されたんだ……。おどおどして、すぐ泣いて……。アタイだなんて……。いくらなんだって、ああはならねえだろ……」
レネーもまたつぶやくと、うつむいて医務室を出て行った。
「あの吹き溜まりのパンデアージェン男爵領を、十年も治めておられるだけあるわい。とんでもない代物を、ひょいと持ってきよった……」
ボドもまたユニコーンの角を抱えて、医務室を出ていった。
「ディートマー、あの様子を見るに、パンデアージェン男爵はレネーの昔の女主人ではないか! どうせまた『二人をいきなり会わせたら面白いものが見られる』くらいの考えで、こんなことをしたのだろう! 何度こういう真似をしたら気が済むのだ!」
「俺だって知らなかったんだよ! 俺はただ、かわいい弟に領地付きの爵位をあげたかったんだって!」
「みんなして医務室で騒ぐなよ。ウルバン、ディートマーはこの兄が叱っておく。お嫁さんの看病をしてろよ」
フォルカーは無表情で、背負っていた天馬騎兵の槍を構えた。
「兄貴、もう騒がないから槍はしまえよ! 顔が本気じゃん! 槍だけはウルバンと互角だろ! さすがの俺も死んじゃうって!」
ディートマーもシャムシールを抜いて、フォルカーを警戒しながら後退し、医務室から出て行った。フォルカーが「おい、待てよ」と低く言い放ちながら、妙に落ち着いた足取りでディートマーを追っていった。
医務室に静寂が戻った。
ウルバンは改めてコリーナを見た。一瞬だけ、コリーナの指先が動いたように見えた。
「コリーナ嬢、王妃、救世主!」
ウルバンはコリーナを呼んだ。
ウルバンはコリーナから、『わたくしのウルバン』はコリーナをなんと呼んでいたのか聞いておいたら良かったと思った。『わたくしのウルバン』と同じ呼び方をしたら、ただ呼びかけるよりもコリーナの心に届くのではないかと思った。
コリーナのまぶたがぴくりと動いた。
「コリーナ嬢! コリーナ!」
ウルバンは呼びかけた。
「さっき動いただろう! 動いたな!」
ウルバンは立ち上がると、医務室のドアを開け、廊下に向かって叫んだ。
「ボドじいさんを呼べ! 王妃が動いたのだ! 誰か、ボドじいさんを連れて来い!」
ウルバンは近くを歩いていた兵士からの「はい、総大将!」という返事を聞くと、すぐにコリーナのところへ取って返した。
コリーナが目覚めたのは、それから三日もたってのことだった。
ひどく重たそうに瞼を上げたコリーナは、寝台の横にいる憔悴した様子のウルバンを見て、目の端から涙をこぼした。
ウルバンもまたコリーナの手を握り、涙を流した。
「夢を……見ましたの……」
コリーナは力ない小さな声で言った。
「そうか……」
「橇引き神狼が……、わたくしを背に乗せて……、暗い中をずっと走って……」
コリーナはウルバンの手をそっと握り返した。
「ああ、聞いている……」
「気づいたら……ここに……」
コリーナは目を閉じた。
「貴女の『怒れる魔獣』が、貴女を運んでくれたのだろう」
ウルバンはコリーナの手に額を押しつけて、声を殺して泣いていた。
「わたくし……、わかりましたの……」
「なにが……だろうか……?」
「ウルバン……」
かすれた声で呼んでから、コリーナはまた意識を失った。
 




