10.ザーランド伯爵領
コリーナたちは一泊しただけで、ザイクタイルの町を離れることにした。
辺境軍の兵士たちは、金杯軍のふりをするというのは完全な失敗だったと思っているようだった。
一行がなんの変哲もない草地を進んでいると、コリーナがまたお茶にすると言い出した。
草地にテーブルと椅子が置かれ、コリーナの左右にウルバンとツァハリアスが座った。
「金杯軍のマントは、また必要な時にまとうことにしてはどうでしょうか……?」
ウルバンが辺境軍の兵士たちの気持ちを代弁した。
「ごめん、この先に僕の母の実家があるんだ。このまま行かせてもらうよ」
「ご実家ですか」
「ザーランド伯爵領の領主館だよ」
ツァハリアスは草地の先に視線を送った。
「ザーランド……、では、ツァハリアス護衛兵長は、妃殿下のご親戚だったのですか」
「そうなんだ。コリーナの家に比べると、僕の方が格はだいぶ落ちるけどね」
ツァハリアスは、ウルバンに向かって笑顔でウインクしてみせた。暗い雰囲気にならないようにという配慮からの、茶目っ気のある仕草だった。
「家の格なんて関係ありません! ツァハリアス護衛兵長は、いつだって妃殿下の立派な騎士様です!」
ティーポットを持って立っているシシーが、横から言った。
「ありがとう、シシー! うれしいよ!」
ツァハリアスがシシーに笑いかけた。
「そうよ。いつも感謝しているわ」
コリーナもツァハリアスにほほ笑みかけた。
一人の護衛兵が、三人のいるテーブルの前に立った。赤と黄色の縞模様が入った派手な衣装に身を包み、手にはガラスのボールを一つ持っている。
護衛兵は黙ってお辞儀をすると、片手でボールを上に投げては受け止めるを何度か繰り返した。
ボールがひときわ天高く投げられ、いきなり三つに増えた。
「あら!」
コリーナが楽し気に声を上げた。
護衛兵は少しだけ唇の端を引き上げた。
投げ上げられているボールは、日の光を反射してきらきらと輝いていた。
「妃殿下、綺麗ですね!」
シシーが言い、コリーナは「ええ、とても!」と返した。
護衛兵はボールを衣装のポケットにしまった。
代わりに出てきたのは、鉄製の水筒だった。
護衛兵は両手で五つの鉄製の水筒を投げては受け止める。見事なジャグリングだった。
磨き上げられた銀色の表面が、景色を映しながら宙を舞う。
「すごいわ……!」
「こちらも素敵ですね、妃殿下!」
コリーナとシシーが言った。
余興を終えると、護衛兵は再びお辞儀をして、隊列に戻っていった。
「彼は短剣の名手なんだ」
ツァハリアスが説明し、ウルバンが大真面目に「投げた時の命中率が高そうですね」と答えると、コリーナとシシーが声を上げて笑った。
冗談を言ったウルバンも笑顔で、笑っているコリーナとシシーを見ていた。
お茶会が終わると、一行はまたツァハリアスを先頭にした隊列で進んでいった。
小さな林の向こうに領主館の屋根が見えてきた頃、道の先から騎馬の一団がやって来た。
「ツァハリアス王太子殿下をお迎えに上がりました!」
先頭の騎士がツァハリアスに呼びかけた。
「……ツァハリアス護衛兵長は、本当は金杯王太子だったのですか?」
ウルバンがコリーナに馬を寄せて訊ねた。
「違うわ。彼らは王太子派と呼ばれているの。いつかツァハリアス護衛兵長が、金杯王太子を経て皇帝になることを夢見ている人たちよ」
「……王太子派も人形劇をするのですか?」
「王太子派は演目が三つあるのは知っているけれど、ザーランド伯爵が屋敷で上演することはないと思うわ」
「それを聞いて安心しました」
ウルバンが言うと、コリーナは「そうよね」と苦笑した。
コリーナたちは騎士の一団に先導されて、ザーランド伯爵の館まで行った。
館の玄関前で馬を降りると、ツァハリアスが腕を差し出して、コリーナをエスコートした。二人の後には、ギーゼラとシシーが並んだ。
出迎えているのはザーランド伯爵で、執事や数人のメイドが後ろに並んでいた。
「よく来てくださいました、辺境王妃殿下」
ザーランド伯爵がコリーナに向かってお辞儀をした。
「お招きいただき、ありがとう」
コリーナは笑顔で応えた。
「あいにくと、妻は実家のポーリ子爵領に行っておりまして。私一人で失礼いたします」
「かまわないわ」
「ご両親とザロモン閣下はお健やかでいらっしゃいますかな?」
「ええ、両親も弟も元気ですわ」
コリーナはウルバンをふり返った。
「彼は辺境王殿下の側近で、わたくしの護衛を担っています」
「ほう……」
ザーランド伯爵がウルバンを値踏みするように睨みつけた。
「彼に任務を全うさせてやっていただけるかしら?」
「辺境王妃殿下の仰せのままに」
ザーランド伯爵が大げさにお辞儀をしてみせた。
「ツァハリアスもよく来た! 相変わらず、両親の良いところばかり集めたような顔をしおって!」
歓迎しているような言葉だが、声の調子はどこか責めているように聞こえた。
「伯父上、お元気そうでなによりです」
ツァハリアスが困ったような笑みを浮かべた。
「辺境王妃殿下、お食事の準備をしてあります。さあさあ、我が館へ!」
ザーランド伯爵に招き入れられ、五人は館に足を踏み入れた。
五人が通された食堂には、部屋に対して大きすぎるシャンデリアが下げられていた。
「先日、皇都から届いたばかりでしてな!」
ザーランド伯爵が自慢げに見上げていた。
「素晴らしいわね」
コリーナが褒めると、ザーランド伯爵は大きくうなずいた。
「いずれ皇都に移り住んだら、これくらいの品物は必要でしょうからな! その時になって揃えようとしても、気に入った物が手に入るとは限りません。今から買い揃えているんですよ」
ザーランド伯爵はツァハリアスを見た。
「ツァハリアス、どうだ! 王城の品にも劣らない代物だろう! 持って帰るか? ん?」
「いやぁ……」
ツァハリアスは困ったように笑った。
「まあ、座ってください」
ザーランド伯爵が言うと、コリーナとギーゼラとツァハリアス、それに、ウルバンもそれぞれ席に着いた。シシーだけは、コリーナとギーゼラの席の間に立った。
「ツァハリアス、金杯王とはどうなっているんだ?」
ザーランド伯爵が訊ねた。
「どうって……」
「イナにも手紙を送っているが、埒が明かん!」
イナとは、ツァハリアスの母の名だった。
「はぁ……」
「なんだ、その覇気のない返事は! そんなことで金杯王が認知してくれるのか!? お前のそういうところだぞ!」
ザーランド伯爵がツァハリアスを叱り飛ばした。
「認知って……。前から何度も言ってるじゃないか、僕は金杯王殿下の子供じゃないよ……」
「金杯王はイナの身分が釣り合わないと思ったのだろうが、イナも伯爵令嬢だ! そこまで劣っているというのか!? よりにもよって、グリッシュロップ子爵にあてがうとは!」
ザーランド伯爵はテーブルを拳で叩いた。礼儀作法など完全に忘れているようだった。
「子爵だぞ! 格下の家に嫁がせたのだぞ! 伯爵家か侯爵家が妥当なのも知らないというのかっ! 伯爵家はたしかに下級貴族だが、皇族にそこまで軽んじられなければならない身分なのか!?」
「ザーランド伯爵、ツァハリアスの両親は愛し合って婚姻したのよ。彼はご両親の実子だわ」
コリーナが厳しい声で言った。
「お言葉ですが、妃殿下。金杯王殿下は生まれたばかりのツァハリアスを抱いて、『この王城の宝だ!』とおっしゃったんですよ!」
「それは僕がかわいかったんだよ……」
ツァハリアスが言いにくそうに教えた。
「イナがあのグリッシュロップ子爵と愛し合っていたとしよう。まあ、そういうこともあるだろうな。金杯王殿下の側近と侍女なのだから」
「そうだよ!」
「金杯王殿下が横恋慕して、イナに手を出し、そして、お前が生まれた……。イナにとって悲劇だ。ツァハリアス、お前にとっても悲しい出自となっただろう」
ザーランド伯爵はテーブルに肘を付け、両手で顔を覆った。悲嘆に暮れているようだった。
「そうじゃないです」
シシーが即座に言った。
「金杯王殿下に失礼です」
ギーゼラもたしなめた。
「もうこのお話はおやめになっては?」
コリーナが提案したが、ザーランド伯爵は聞いていなかった。
「よし、わかった! ツァハリアスが金杯王殿下の子ではないとしよう。あの金杯王殿下だ、好きな女の幸せを願って、格下のグリッシュロップ子爵に嫁がせた」
「なんで仮定なのかな……。それに金杯王殿下は、母上のことを好きとかそういうんじゃないよ。もちろん父上のこともさ」
ツァハリアスの声には力がまったくなかった。
「愛し合う二人の元に、ツァハリアスが生まれた! かわいい! 良いだろう」
ザーランド伯爵はツァハリアスの言葉など、ほとんど聞いていない。
「なにが良いんですか……」
ギーゼラが問う。
「金杯王殿下は武芸に身を捧げている。つまり、実子は生まれない。そこに、かわいいお前だ! たしかに、かわいい! かわいいお前が一言、『金杯王殿下、養子にして!』と言ったら、金杯王殿下はすぐに迎え入れるだろう」
「逆に、それを聞いて、絶対に言いたくなくなると思いますけど」
シシーが遠慮なく言った。
「ええい、うるさいわ! さらにだ! 『ザーランド公爵令嬢が好きで結婚したいから、皇帝の座について、僕を皇太子にして』とかわいく頼んだら、すぐに即位してくれるだろう」
「かわいく……?」
ウルバンがつぶやいた。
「さらに、『僕も即位してみたいな!』とでも無邪気に言ったら、お前は皇帝だ! ツァハリアス、お前は私たちの夢だ! 希望だ! 私たちは王太子派と呼ばれているが、お前を金杯王太子にしたいわけではない。即位だ! お前は皇帝になれ! お前のかわいさには、その力がある!」
「ああ、うん、もうわかったから……」
ツァハリアスはだんだんと体調が悪くなってきているようだった。
「しかしだ。これは伯父として厳命しておく」
「今度はなんだい……」
「男色はいけない。跡継ぎが作れなくては、皇位が安定しないぞ。皇太子がいてこそ、野心ある者に付け入られる隙を与えない……」
「ザーランド伯爵、それ以上はもうおやめなさい! あまりにも聞き苦しいわ!」
コリーナがザーランド伯爵を止めた。
「妃殿下、大事なことなのです! ツァハリアス、即位するためでも、それだけはいかん! 他の道を探るのだ! この伯父も協力は惜しまない!」
「ザーランド伯爵、もうやめるのよ! それ以上、金杯王殿下について語ってはいけないわ! あなたはすでに、金杯王殿下を侮辱しすぎている!」
「――そろそろ時間なのでは?」
と突然言ったウルバンが、コリーナに笑いかけた。
「……時間だと?」
返事をしたのは、ザーランド伯爵だった。
「ええ」
とウルバンが返した。
「ここは我がザーランド伯爵領だ。次の約束でもあるのか? そんなものがあるか! 話はまだ終わっておらんぞ!」
「ある」
ウルバンは断言した。
「半獣半人風情がその口の利き方はなんだ! だいたい、どんな約束があると言うのだ! 言えるものならば言ってみるがよい。伯爵家でもてなしを受けるよりも大事な用件が、本当にあるのならばな!」
ザーランド伯爵はウルバンを睨みつけた。
「わからないのか? 本当に?」
ウルバンは軽く腕を組んでから、片手をあごに当てた。
「長い旅で野営が多い。ザイクタイルの町では、怪我人や女性を宿に泊めたのでね。あまり身綺麗にしていないが。ザーランド伯爵は、私を失礼だと責めるのか?」
「なんだと!? ……いや、まさか。あいつは……、ホーラン男爵は……、こんな顔だったか……? 皇都から取り寄せた姿絵では、もっと細身だったような……」
「あいつ? まさかこの私のことではないだろうな? 私はザーランド伯爵と、かつて挨拶を交わしたことでもあったか? ザーランド伯爵はいつ、そんなに近くで私を見たのだろうか?」
ウルバンは指先でひげを撫でた。
(本で読んだわ。これは『ブラフ』と呼ばれる、敵に嘘を吐く戦術よ。相手を怯ませるようなハッタリを言って、時間稼ぎをしたり、敵を撤退させるの。ウルバン将軍は今、わたくしたちのために戦ってくれているのだわ)
コリーナの心臓が早鐘を打つ。コリーナは片手でそっと胸を押さえた。そうしていないと、心臓の音がザーランド伯爵にも聞こえてしまい、ウルバンが危機に陥りそうに思えた。
「お前は辺境王殿下の側近で、辺境王妃殿下の護衛という話だったではないか!」
「私がいては気づまりだろうと思ったのだが、いらない配慮だったようだ」
「辺境王は戦地からの急報を受けて、皇帝陛下の命により領地に戻ったはずだ!」
「戻って部下に指示を出してから、花嫁を迎えに戻ることができないとでも言うのか? この美しい花嫁のためになら、昼夜を通して馬を走らせることも苦ではない」
ウルバンはコリーナを見つめて、満足げに笑った。コリーナは頬を染めて俯いた。
「ばかな……! 私は領地で起こることは、なんでも配下に報告させている! 私の放った『目』の網をかいくぐったとでも言うのか!? 辺境王が領地に戻った時は、たしかに『目』の一人が姿を確認した。だがな、また皇都に行くために通ったという話はなかったぞ!」
「ずいぶんと監視体制に自信があるようだが……。私はこうして戻ってきているのだが?」
ウルバンは小ばかにしたように言った。
「お前はどう見ても半獣半人ではないか! 愚かな半獣半人が、辺境王妃殿下の寝所に招かれて、自分は辺境王になったとでも勘違いしているのではないのかっ!?」
「お待ちなさい!」
言ったのは、ギーゼラだった。
「妃殿下が半獣半人を寝所に引き込むような方ではないのは、ザーランド伯爵もよくご存知ではないですか!」
「ああ、そうでしたなぁ。皇太子殿下の許嫁殿は、口づけを交わすと子ができると信じる、清き聖女様だ!」
ザーランド伯爵は嫌な目つきでコリーナに笑いかけた。
(信じる……? どういうこと……? ザーランド伯爵はなにが言いたいの……?)
コリーナは戸惑い、ギーゼラを見た。ギーゼラはザーランド伯爵を睨みつけていた。
コリーナはそっと自分の腹を両手で包んだ。
(わたくしは前世でウルバンとたくさん話をして、別れ際に口づけを交わした……。火炙りになる時にはもう、ウルバンとの子を授かっていたのよ……。わたくしは……、わたくしは……、ウルバンの子まで死なせてしまったわ……)
コリーナははっとして腹から手を離した。ザーランド伯爵に動揺を悟られたくなかった。
辺境王のふりを続けているウルバンにとって、なにが不利になるかわからない。コリーナは、ウルバンを危険にさらしたくなかった。
「私が半獣半人かどうか、確かめてみるか?」
ウルバンが自分の軍服の襟に指をかけた。
「私はここで脱いでもかまわないが」
ウルバンは両手で軍服の襟元を緩ませた。
「脱ぐ……!?」
ザーランド伯爵の声が裏返った。
「『獣の名残』がどこにもなかったら、身なりを整えて王侯貴族局に出向くことになるが、文句はないな?」
王侯貴族局に出向くとは、『半獣半人だと侮辱された』と訴え出るという意味だった。
ウルバンの軍服はすでに胸元の肌が露わになり、コリーナが与えたネックレスの金の鎖が覗いていた。
ウルバンが半獣半人では持ちえない高価な品を身につけているのに気づいたのか、ザーランド伯爵の目が泳いだ。
「あー、いやいや、なにか次のお約束でもあるんでしたかな? どんなことか伺ってみたいものですな」
ザーランド伯爵が苦い表情で話を変えた。
「今宵の満月はレミアムアウトの峡谷で共に見ようと、我が花嫁と約束している。皇都に向かう時に見つけた、景色の良い崖に案内するつもりだ。そろそろ発たねば、良い頃合いを逃してしまうのでね」
「すごくロマンチックですよね、お嬢様! 辺境王殿下は無骨な方かと思っていたのですが、お会いしてみると、乙女の心のわかる素敵な紳士でいらしたんですよ!」
シシーがザーランド伯爵に自慢げに言った。
「身なりを整えれば、軍法会議で見たあの美しさ! 粗野なお姿もたくましくて魅力的です! こんなすばらしい方は他にいませんわ!」
シシーが興奮気味にさらに褒め称えた。
「……では、会食はまたの機会に。お送りするのは玄関まででよろしいですかな?」
ザーランド伯爵の言葉に、ウルバンは満足げにうなずいた。
準備ができていたはずの料理は、いまだ一皿もテーブルに運ばれてきてはいなかった。




