18話 奏の朝
誤字報告ありがとうございます。
とても助かります。
朝四時。
奏は洗面台の鏡の前に立ち、右後ろにできた寝癖を櫛で撫でつけていた。
妙な方向へ跳ねた髪は、こういう朝に限ってやたら頑固だ。
何度か水で湿らせ、指で押さえ、最後に櫛を通してようやく諦めさせる。
歯を磨き、顔を洗う。
冷たい水で頬を叩くようにして目を覚ますと、最後に両手で軽く頬を挟み、ぱちんと気合いを入れた。
キッチンへ行き、苺ジャムを塗った食パンをかじりながらテレビの電源を入れる。
画面の隅では天気予報が流れている。
奏はそれを横目で追いながら、スマホでYouTubeを開いて少しだけぼんやりする。
この数分の“仕事前のだらけ時間”がないと、どうも一日が始まる気がしない。
コーヒーメーカーへ水を入れ、温まるまでの間に着替える。
オフィスカジュアルに近い服へ袖を通し、腕時計をつける。
時計は少し古いが気に入っているやつだ。しばらく外していたせいで止まっていたので、腕を何度か振って動かす。
それからスマホの時刻を見て、針を合わせる。
「えーっと、五時二十六分……にじゅう……」
秒針を見ながら針を合わせ、最後にひとつ深呼吸する。
――その瞬間。
「二十六!? やっべ、ゆっくりしすぎた」
昨夜のうちに準備しておいた荷物と傘をひっつかみ、そのまま家を飛び出す。
駅までの道を小走りで抜け、ちょうど客待ちをしていたタクシーを見つけると、ほとんど滑り込むように乗り込んだ。
「お客さん、どちら――」
「羽田。なるべく早くお願いします」
運転手は一瞬だけ奏の顔を見て、すぐに何かを察した顔になった。
こういう“急いでる人の空気”は、タクシー運転手にはすぐ伝わるのだろう。
「早いね。どこか行くの」
「えーっと、沖縄の方に」
「沖縄? この季節に珍しいね」
なんやかんやで、もう十二月に入ってしまった。
この体での生活も、気づけばだいぶ馴染んでしまっている。
別にいい。
いいのだが、たまにこうして“あ、もう普通に暮らしてるな”と自分で思う瞬間がある。
B787は国際線だけではなく、国内線でもよく使われる。
国内線は国際線と違って飛行時間が短い。その分、一日に何便も飛ぶ。
今日のスケジュールは、
羽田→沖縄→伊丹→新千歳(宿泊)
明日は、
新千歳→福岡→羽田→帰宅
という流れだった。
タクシーのおかげで、予定より少し早く羽田へ着けた。
こういう朝は、数分の余裕がそのまま心の余裕になる。
空港へ入ると、まず更衣室で制服へ着替える。
鏡の中の自分はもう見慣れた。
いや、完全に慣れたと言うのは嘘かもしれないが、少なくとも“毎回止まって見る”ほどではなくなった。
帽子を持ち、事務室へ向かう。
今日の天気は、羽田が雨、伊丹が曇り、沖縄が晴れ、新千歳は吹雪。
パソコンで大まかな予報、風向き、気温を確認していると、後ろから肩をぽんぽんと叩かれた。
「あれ、拓也じゃん」
振り返ると、当然のような顔で拓也が立っていた。
同じ会社の同期であり、相棒でもある男。
最近は“いついてる感”がさらに強い。
「今日はどこ行くの?」
「千歳、関空かな。奏は?」
「伊丹、沖縄、千歳ステイかな」
「千歳、夜やばいらしいな」
「ね。また予報変わるかもだけど、函館か仙台のダイバートも視野に入れとくよ」
「ダイバートしたら寝床ないかもな。野宿でもするか」
「到着七時過ぎだから余裕ありますよーっだ」
そこで二人は軽く睨み合った。
完全に小学生みたいなやり取りである。
「あの……」
遠慮がちな声が入ってきた。
今日と明日、奏とペアになる副機長らしい。
奏は小さく咳払いして席を立った。
「あっちで話そ」
「あの、俺、野宿は嫌ですよ」
「しねーよ。凍え死ぬわ」
ジョークが通じる、いい副機長である。
「先日はロサンゼルス往復でした。小出です。二日間よろしくお願いします」
「有馬です。こんな見た目だけど一応成人してます。なんならもうおっさんです。こちらこそよろしく」
「いやー、いつかご一緒したいと思ってましたが……」
「え、何? ロリコンなの」
「いいえ」
「嘘つけ。顔にはいと書いてある。今日は忙しいぞ、覚悟しとけ」
「はい」
まあ、あの顔はロリコンというより、単純に“気になるものを見ている顔”だろう。
それにしても最近の若い人たち、なかなか優秀だ。
ディスパッチャーが提示した燃料計算や航空路について、疑問を持ったらすぐ口に出す。
こっちの航路の方が燃費がいいのではないか。揺れが弱いのではないか。
大変よろしい。
だが、理由があってそうなっていることも当然ある。
「そっちは多分、他の機体が多いんでしょ。先行機の影響受けて、かなり長い時間揺れることになっちゃうから、こっちなんだと思うよ」
「その通りです。いかがしますか」
「なるほど、わかりました」
小出くんが少しだけ小さくなった。
が、奏はそのまま続ける。
「小出くんの方の航路で、燃料計算もらえますか?」
「え、いいですけど、だいぶ混んでますよ」
「フライトレベル350でお願いします」
「キャプテン、燃費大丈夫ですか?」
「少し悪くなるだろうけど、揺れないだろうし。まあでも、計算見てあまりにもひどそうだったら元のルートで」
結局、ディスパッチャーが最初に用意してくれたウェイポイントを辿ることになった。
「しょうがないよ、燃費悪すぎたんだもん」
「わかってますよ。やっぱりあの人たちすごいっすわ」
奏と小出は、国内線側のロビーを歩きながら雑談する。
朝の羽田は、ところどころ早朝便へ向かう人たちで慌ただしい。
地上係員も乗務員も、みんなそれぞれ忙しそうだ。
「国内線の朝って独特だよな」
「国際線より“今日も仕事始まったな”感ありますね」
「わかる。国際線は出た瞬間に半分旅だけど、国内線は日常業務って感じ」
そんな話をしながら、二人でコックピットへ入る。
荷物を置き、必要なものをフライトバッグから取り出して並べていく。
いつもの景色。
いつもの匂い。
いつもの音。
それでも、毎便まったく同じというわけではない。
乗る人も違えば、天気も違う。機体の状態も違う。だから飽きないのかもしれない。
奏は自分の席で、軽く肩を回した。
今日も長い一日になる。
「さてと」
フライトバッグのファスナーを閉め、顔を上げる。
「今日も一日、頑張りますか」
パイロットの出勤時間はバラバラです。
土日休みなんて概念ももちろんないですから。
ただ有給は希望日にほぼ確実に取れます。またその気になれば二週間丸々休んだりもできるので、そういう意味では魅力的です。




