第20話 「前線基地の勇者」
翌日、一番鶏の鳴く声にレイチェルは素早く目覚めた。
ぼんやりしている暇はない。彼女は神官の衣装を羽織ると、まだ寝静まっている大部屋の中を、音を立てぬ様に慎重に歩み始めた。
「レイチェルちゃん」
ひっそり言う声を聞きつけレイチェルが振り返ると、半身を起こしリルフィスが手を振っていた。レイチェルは嬉しくなり、手を振り返すと外へと出た。冬の寒空の下、夜警の任務に就いている者達が談笑したり、忠実に見回りをしていたりした。その中を持ち場である病院へと彼女は向かった。
病院に着くと、大部屋の中にはベッドに寝ている患者だけしかいなかった。レイチェルは建物の奥の方に入ってゆく。もう一つの大部屋があり、その隣の部屋に三人の神官がいた。
三人とも女性だった。
「あら、新人さんね。随分早く来てくれたんだ」
「初めまして、レイチェル・シルヴァンスです。よろしくお願いします」
自己紹介すると、一人の神官が言った。
「じゃあ、あなたは私の担当している患者さんをお願いすることになるわ」
そう言って羊皮紙を差し出してきた。そこには六人の名前が記され、それぞれ朝昼晩の食後にどの薬を、どれだけの量を服薬させれば良いか記されていた。
「これの通りにすれば良いから。大丈夫?」
「は、はい」
レイチェルは緊張を覚えながら応じた。
「薬は隣の部屋の薬師に訊いて、書かれた分だけ受け取れば良いから」
「わかりました」
レイチェルが応じると、外の方から談笑する声がして、二人の女性の神官が姿を現した。
「お疲れ。交代に来たわよ」
一人が言った。そうして怪訝な目を向けられたので、レイチェルは再び自己紹介することになった。
「やれやれ、ようやく上がれるわ」
夜勤の神官達は疲れた笑みを浮かべながら去って行った。
それからレイチェルは新たに来た二人の神官の談笑を聴きながら部屋で待機していた。時折、大部屋の患者を見回ったりもした。
村全体が目覚めた頃、荷馬車が到着した。それは患者専用の食事を運んできたいずれかの食堂の馬車だった。
療養食を受け取り、レイチェル達はせかせかと目覚めた患者達に食事を配って回った。そうして彼らが食べ終えた頃を見計らい、薬師のいる調剤室に行き薬を貰う。そして大部屋で名前を呼びながら一人一人に薬を渡していった。
「レイチェル、あなたは今のうちに食事に行ってらっしゃい」
先輩神官がそう言ったので、レイチェルは恐縮しながら病院を飛び出した。
少しだけ責任から解放されると、その緩んだ気持ちに付け入るように腹が鳴った。傭兵達の間を抜け、レイチェルは赤竜亭へと向かった。
食堂の中は既に人気が無かった。
「今日の朝食はこれよ」
昨日のウェイトレスが食事を持ってくる。卵焼きと燻製肉のスープ、そしてパンだった。
「トマトジュースはいる?」
「下さい!」
「はいはい、塩抜きね」
他の二人の神官のことを考えると、あまりゆっくりできなかった。レイチェルは食事を掻き込むと、別料金のトマトジュースの分だけ代金を支払い、大急ぎで病院へと戻った。
二人の神官はレイチェルの生真面目さに笑うと、一人が食事に向かって行った。
それから昼まで時折巡回しながら待機し、昼の仕事と自分の昼食を終え、夕方を迎える。朝出会った顔触れとは違う夜勤の神官達が三人現れた。仕事の引継ぎを終えた途端、レイチェルは凄まじい疲労感を覚えた。
「レイチェル、ここの仕事は戦でも無ければこんな感じよ。それに二日に一回だから明日はあなたは私達同様お休みだからね」
一緒に仕事をした先輩神官のうち、紫色の長い髪をした若い神官が言った。名前はカレンと言った。
「わかりました、カレンさん。それではお先に失礼します」
外に出るとレイチェルは大きく溜息を吐いた。待機の時間が全体の殆どを占めるとは言え、やはり仕事は疲れるものだ。しかも初日で頭の中は、常に緊張してんてこ舞いだった。
これからどうするか。すると急激にリルフィスと会いたくなった。彼女の天真爛漫な笑顔と声を聴きたかった。夕暮れ空の下では、傭兵達が闊歩し、腰を下ろしたりして、ケラケラ笑い合ったりしていた。正直、のどかな風景だった。
レイチェルはアビオンのロベルトが言っていたことを思い出していた。こちらが形勢としては不利だということを。それなのに緊迫感が、今のこの前線基地リゴ村には皆無だった。心許ない思いをしながら宿舎へ帰る。まばらに人がいる中で、リルフィスがクラナ・ディーラと何やら楽し気に喋っているのを見つけた。二人の方も気付いた。
「レイチェルちゃん!」
リルフィスが眩しい笑顔を見せて手を振った。
「リール、クラナちゃんとお友達になったよ。ねぇ、クラナちゃん?」
「ねぇ!」
二人はまるで姉妹の様にそう言った。そしてクラナが言った。
「お疲れ様、レイチェル。初日だったから大変だったでしょう?」
「はい。でも明日はお休みになりました」
そしてふと思ったことを口にした。
「お休みの日って何かすることはあるんですか?」
「特にしなければならないことはないわよ。自主的に、戦士達の訓練に混ざるか、それとも寝て過ごしてみるか、はたまたお腹が許す限り食べ歩いちゃうか、どう過ごそうが自由よ」
「そうなんですか」
するとクラナが肩を叩いた。
「そんなに真面目にならないで、気楽に過ごすと良いわよ」
「気楽にですか」
「気楽にだよー、レイチェルちゃん」
リルフィスが歌う様に言った。
「そうそう。それじゃ、お姉さんは逢引きに行ってくるから、またね」
クラナは去って行った。気付けば他に人はいなかった。風呂か、食事に出て行ったのだろう。それかクラナ同様逢引きか。
レイチェルとリルフィスも出掛けることにした。
夜空には星が瞬いていた。ちょうど混む時間帯だったようで、風呂も食堂も行列が出来ていた。それでも風呂の方が二十分規制のためか、進んでゆくのが早かった。
「入浴は一人二十分よ! お風呂場の床に足の指が着いた瞬間から二十分よ!」
風呂場の女将がそう言った。
ようやく順番が回ってきた。だが、レイチェル達の後にもたくさんの人々が控えていたため、彼女達は大急ぎで身体を洗い、風呂に飛び込んで一息入れると上がったのだった。
次は食堂、赤竜亭の列に並んだ。こちらはなかなか進まなかった。それはそうだ。食事ぐらいゆっくりしたいものだ。早食いの自分が言うのも何だか変だが。
ほろ酔いの傭兵達が店を出てゆくのを何十回とみているうちに、ようやく順番が回ってきた。
席に着くと、もはや顔見知りになったウェイトレスが食事を運んできた。
コーンのポタージュとパン、とろけたチーズのかかった焼き魚の切り身の香草焼きだった。無論、レイチェルはトマトジュースの塩抜きを忘れずに付け加えた。
平和だった。
消灯された大部屋の天井を、ベッドの上で見上げながらレイチェルはそう思った。リルフィスは隣で寝ているし、明日は休みだ。クラナの方はまだ戻っていなかった。
戦の最中だというのに平和だ。レイチェルは目を閉じた。
二
一番鶏が鳴く声がして、レイチェルは慌てて起床したが、今日は休みだということを思い出し、安堵の溜息を吐いた。大部屋はまだ寝静まっている。レイチェルも再び目を閉じた。
そしてもう一度起床したときには、すっかり周囲は明るくなり、残っている人間は自分だけだった。リルフィスもいなかった。レイチェルはバツの悪い思いをした。リルフィスは自分のことを見送ってくれたのに、自分はそうできなかった。後で謝らなければならない。
レイチェルは赤竜亭へ朝食をしに出向いた。中には数組の傭兵達がいた。
今日のメニューは、冷めたパンと、微塵になった玉ねぎと少しだけ酸味のあるソースのかかった豚肉のソテーだった。出てきた食事を平らげ、塩抜きのトマトジュースを二杯呷り、レイチェルは外へ出た。
これからどうすべきか。昨日のクラナの言葉を思い出し、自主的に訓練に出ようかとも思った。ここまでの急ぎの旅の間に弩の腕を磨くことができずにいた。せっかく的に当たるようになってきたのに、このままでは腕が鈍ってしまうかもしれない。
レイチェルは宿舎に戻り、弩を手にした。その感触はまるで懐かしく思えた。
外に出ると、ふと異変に気付いた。傭兵達が血相を変えて村の中をある方向へと駆けて行く。
敵襲だろうか。レイチェルは緊張し、一瞬躊躇した。自分は戦いに出るべきか、病院に向かうべきか。弩を置き、彼女は病院にこそ自分の役目があると思って駆け出した。
だが、幾つもの背が向かうのは同じ方角だが、村の外ではなかった。レイチェルは不審に思い、足先を傭兵達の方へと向けた。
程なくして多数の人が集っているのを見つけた。
何をしているのだろう。そう思っていると、おそらく台に乗っているのだろう。高い位置に人影が現れた。そして声が響いた。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、剣匠スリナガルの魂込めた最新作が出来上がったぞ!」
剣匠スリナガル? その名はどこかで聞いたことがあるような気がした。
レイチェルは人の輪の中に加わった。そこは鍛冶屋だった。台に乗って声を上げているのは子供のようだった。
「おいこら、ブリー族のバリー! 勿体つけてねぇで、さっさと商品を見せやがれ!」
誰かが声を上げた。ブリー族とは聞いたことはないが、この子供がそうなのだろう。レイチェルは興味深く思い、ブリー族を観察した。一見、背丈からいってもレイチェルとはそう変わらず、人間の子供のようだが、その横顔に見える耳はモミジの葉のような複雑な形をしていた。そして髪の毛のてっぺん近くを三か所、短く結んでいる。
「そんな慌てなさんな。ほら、これさ。よっこらしょっと」
ブリー族のバリーが大剣を掲げて見せた。陽光を受けて刃先が煌めている。柄の先と、鍔の真ん中に宝玉のようなものが埋め込まれていた。見事な剣だとレイチェルは思った。
観衆となった傭兵達が口々に歓声を上げる。
剣の重みに耐えきれなかったのかブリー族のバリーがよろめいた。するとその背後に太ったブリー族が現れ共に剣を掲げ持った。
「さあ、さあ、スリナガルの渾身の作、その名はあの伝説の血煙クラッドの思い人だった王女の名、ネセルティーだ!」
血煙クラッドの名が出た途端に傭兵達が熱くなるをレイチェルは感じた。
すると方々から、値段を告げる声が飛び交った。
「さあ、そんなはした金じゃ、このネセルティーは売れないぞ! なぁ、オリー?」
「そうだな、バリー!」
ブリー族の二人が傭兵達を焚き付ける。
傭兵達は次々値を告げ、それはとてもじゃないが本当に出せるのかという金額にまでに跳ね上がった。だが、傭兵達は言う。血煙クラッドの思い人の名前のついた剣だ。これは譲れないと。
「私が頂こう」
ふと一人の男の声が静かだが轟くように聴こえた。
その声はまるで神の声だとでも言う様に、傭兵達は道を開けた。
背の高く、体格の良い男が歩んでくる。何の変哲の無い鉄の鎧に身を包みながらも、レイチェルもまた、この男の発する別格の気配を察していた。
年の頃は若いか若くないかその中間といったところだろう。しかし、サラリとした茶色の髪をした整った顔立ちをした男だった。
「バリー、こいつでどうだ」
男が言うと、ブリー族のバリーは相方の太っちょのオリーに剣を任せた。
そして男は巾着袋をバリーに向けて十ほど放り投げた。
バリーはそれをひょいひょいと受け取り中身を確認した。その肩が中身を覗く度に震え、顔が青褪めていく。
波打ったように静まり返った群衆に向けてブリー族のバリーが程なくして告げた。
「う、売ったあ! 王女はアンタのもんだ!」
男は見事な鞘に収まった剣を受け取った。
「スリナガルによろしくな」
傭兵達が騒ぎ出す中、男はゆっくりその間を抜けて去って行った。
「バルバトスだ」
「バルバトスじゃ仕方ねぇな。血煙クラッドの再来にして前線基地の勇者。そもそもスリナガルも、奴のためにあれを打ったのかもしれないぞ」
バルバトス。アビオンのロベルトが言っていた。困ったらバルバトス・ノヴァーを頼れと。それがあの男なのかもしれない。いや、きっとそうだとレイチェルは思った。
「これで今日の商品は終わりだよ。さあ帰った帰った。帰らないとスリナガルが剣を打てないぞ! それはみんなにとって得策じゃないんじゃないかなぁ?」
ブリー族のバリーが解散を告げると、傭兵達は去って行った。レイチェルも用もなくなったので、その後に続いた。
それにしても競りがこれほど熱狂させるものだとは思わなかった。レイチェルもまたその波に呑まれていたことに、今更ながら精神的な疲労感と共に気付いたのだった。




