貧民窟に消えた少女と騒乱
源一郎は横目に日向少尉の複雑そうな表情を見た。
「……でも聞きたいんだろ? どうして、数ある貧民窟の中から、この街に千夏がいると思っているのかって」
「…………無理に聞き出すつもりはありません」
「目撃者がいたのさ」
「本当ですか?」
「あぁ、間違いねぇ。この通りを走っている姿が目撃されてんだ。誰かに追われていたらしくてな……どうやら誰かに最後は捕まったらしい。人着の特徴も一致した……なによりも…………」
源一郎はここで大きく息を吸って言葉を区切った。
逡巡。そして、白煙を空に吐き出し、遠くを見つめる。
頭に浮かべるだけで苦しい想像が、源一郎の胸を強く締め付けた。
「あいつは……何度も俺の名前を叫んでいたらしい。「助けて、ゲンおじさん!」ってな」
「それは警察も知っている話ですか?」
「いいや、そもそも信じてもらえなかった」
「なぜですか!?」
「ははっ、上が言うには『千夏を庇おうとして口にした嘘』だってさ。だからよぉ、俺はこの街にいる女衒な連中を捕まえて吐かせようとしたんだがな……問題行為としてしっかり処分されたよ。情けねぇ話だよな」
「もしかして、それが署長を殴ったあの事件ですか?」
源一郎は恥ずかしそうに頭をぽりぽりとかいて笑った。
それが答えだった。日向少尉が納得したように静かに頷く。
「本当にどこまでも不器用な人ですね」
「うるせぇな」
「はぁ……それではその目撃者にもう一度話を聞いてみましょう」
「それは無理な話だな」
源一郎がポツリと漏らす。
諦めたような表情に日向少尉が追及を行おうとした瞬間、彼は天を仰ぎながら話を続けた。
「証人も俺が話を聞いた次の日に殺されちまった。証拠もない」
「殺された?」
「そうだ。顔面の原形がわからないくらいにボコボコに殴られていた。苦しかったろうよ……」
源一郎はゆっくりと煙草を味わいながら、当時のことを思い出す。
まだ聞きたいことは山ほどあった。
――どこの誰に追われていたのか。
――捕まった後に行き先の見当はついているのか。
だが、詳しく話を聞く前に、貴重な証人の口が塞がれてしまった。
それから源一郎は、巡回警邏の名目でこの貧民窟を訪れて千夏の捜索を慎重に続けている。酒好きも幸いし、飲んだくれの不良警察官の仮面は、この街の情報を収集するのにとても役に立っている。
だが、肝心な千夏の行方に関する情報は、いまだに掴めていなかった。
日向少尉もようやく状況を理解したようで、キリッと表情を引き締めて通りに歩みを進めた。
「どうした?」
「捜索を急がねばと思いまして」
「まぁな……ただ、今日のところは一旦退散だ。なんか今日はあちこち殺気立ってら」
「殺気?」
立ち止まって目を丸くする日向少尉に、源一郎は辺りを見渡せと顎で指示する。
日向少尉が慌てて辺りを見渡す。素早い動きと四方八方への適切な視線送りを見て、軍人らしいところを初めて見た気がして妙な納得感を覚える源一郎。
すぐに日向少尉の視線は一箇所に固定される。彼は正誤を確認するように一瞬だけ源一郎に顔を向けるが、源一郎は腕を組んだまま瞬きするだけ。
二人の視線の先には、異様な人だかりが出来上がっている残飯屋。
近くの軍の施設から出た残飯を回収して貧民窟で格安で提供する商売だ。柄杓や桶、茶碗などを持った人が、今日の食事にありつこうと殺到しており、一見すれば、これはいつもの光景のようにも見える。
だが、源一郎は冷たい視線を送った。
これから起きることがわかっているかのようだった。
ほどなくして、老若男女の怒声や抗議の声が離れた二人の元にも届くようになる。
『おいまた値上げしやがって!』
『俺たちの足元をみるならこんなところぶっこわしてやるぞ』
どうやら残飯の価格がまた上がったらしい。
貧民窟の最下層民の最後の生命線でもある残飯屋の値上げは、貧民たちにとって死に直結する重大な問題だ。次第に騒ぎが大きくなっていき、桶や皿が残飯屋に投げつけられるようになる。
ついに残飯屋が包丁を取り出して怒号を上げた。
『くそっ、お前らやってしまえ!!!』
怒声と同時に、今度は店の裏から棍棒を持った男たちが現れ、いきなり群衆を襲い始めた。
辺りは一瞬で修羅場と化す。悲鳴と怒号が交錯し、離れたところから見ているだけの二人の胸を締め付けた。
日向少尉が思わず声をあげた。
「まずい! これでは怪我人が出てしまいます!」
「待て! 行くな!」
源一郎は、走り出そうとする日向少尉の腕をがっしりと掴んで、完璧に動きを抑える。
「大洗警察官、どうしてですか!?」
「あれはあいつらの問題だ。俺たちのような他所様にできることはねぇんだよ」
「しかし暴行は犯罪ですよ! アナタは警察官ですよね!? 黙って見ているのですか!?」
「違う、この街にはこの街のしきたりがあるって話なんだよ。つまり、手出しは無用ってこと」
「法律違反を見逃せと!? あの人たちを助けたいと思わないのですか!?」
「綺麗事だ。法律や社会があいつらを救ってくれるなら、こんな街は誕生しねぇんだ」
それは、誰よりもこの街の観察を続けてきた源一郎が導き出した結論のようなものだった。
だが、日向少尉は不服そうに源一郎に鋭い視線を向けて奥歯を強く噛み締めた。
「……もういいですっ!」
直後、日向少尉が源一郎の腕を振り払って駆け出す。
弱きを助ける。それが日向少尉が軍人を志した理由でもあった。
たとえ街の掟だとしても、日向少尉はここで見逃すことはできなかった。
「やめなさい!!!」
日向少尉の視界には、圧倒的な暴力で叩き出される群衆たちの姿があった。
転倒してそのまま群衆に踏みつけられ動けなくなっている老婆や、殴られて額から激しく流血する子ども、泣き叫ぶ少女と拳で男たちに挑む若い青年の姿も――日向少尉の胸が突き動かされる。
『やめてください!!』
『うるせぇ! さっさとどっかにいきやがれ!』
逃げる際に転倒した若い女に、今まさに棍棒が振り下ろされそうになる。
女は恐怖に思わず目を閉じる――が、容赦のない一撃は女を襲うことはなかった。
「――っ、な、なに!?」
「ふぅ……間に合いました」
ギョッと目を見開く男は、棍棒を振り上げたまま体が硬直している。彼の背後には高価な外套を肩に羽織った若い軍人の姿があった。若い軍人は、男が今まさに振り下ろさんとしていた棍棒の先端をがっしりと掴み、鋭い殺気の籠った瞳がそれ以上の乱暴を許さないという意思を露わにしている。
女も男も呆然とするしかない。
「えっ……と」
「君は早く逃げなさい!」
軍人の命令に、ここで女はやっと体が動くようになり、なんども転びながら這うようにして現場を離脱。
すぐに男の手が届かない場所に女は消えてしまった。
「全く情けない男だ」
女の安全が確認されると、軍人が男の手首を捻ってスルッと棍棒を取り上げてしまう。
「おいなんだてめぇは!」
「なるほど……これでも引かないと」
日向少尉は男の声を無視して冷静に状況を分析する。
用心棒は三人。
そのうち一人からは武器を奪っている状態で丸裸。
訓練された手練の者ではなく、弱い者いじめに特化した暴力性を持つ人間たち。
日向少尉は呆れたように制帽を深く被り直して静かに棍棒の先端を男たちに向けた。
「今すぐ引きなさい。これ以上の無用な暴力は私が許さない」
「うるせぇ、お前らやっちまえ!」
残飯屋の店主が男たちに命令する。
同時に、多勢に無勢だと気を取り戻した用心棒たちが一斉に日向少尉に襲いかかる。
だが、日向少尉は大きく息を吐いてから体勢を低くして、奪った棍棒を腰で構え、カッと目を見開いて最適な間合いで一気に足を踏み込む――勝負は一瞬で決着がついた。
「ぐっ……がは」
「うぅぅ……ぃ」
目にも留まらない速さで振り抜かれた日向少尉の棍棒は、的確に用心棒たちの脛や鳩尾を捉えていた。地面に倒れ込む用心棒たちの呻き声を無視して、攻撃の勢いで地面に落ちた外套を拾って再び肩に羽織る。棍棒を奪われた用心棒はとっくにどこかへ逃げ去ってしまったらしく、日向少尉が辺りを見渡しても姿が見えない。
ついでに残飯屋の店主も消えてしまった。
「おいおい……冗談だろ?」
やっと現場に現れた源一郎は、それ以上の言葉を失っていた。
「大洗警察官、この者たちを暴行の容疑で現行犯逮捕してください」
ハッと我に返る源一郎。
しかし、そうはいかない事情が待ち受けていた。
『このやろー!俺たちの足元をみやがって!!』
動けなくなっている用心棒たちに向かって、通りから石が投げつけられたのだ。
「えっ、ちょっと、みなさん!?」
石を投げていたのは、ついさっき追い払われた群衆たちだった。
全員が怒りに燃え、次々に用心棒たちに石や泥と共に罵倒の言葉を投げつけている。このまま放置すれば今度は用心棒たちが袋叩きにされかねないような状況。現場は新たな緊張局面を迎えた。
「ほら言わんこっちゃない! こりゃ暴動が起きるぞ!」
「待ってください! みなさん――」
『――うるせぇ! こいつにさっき思いっきり殴られたんだぞ』
一人の声に同調するように、続々と恨み辛みが飛び出していく。
勢い余って日向少尉にも石や砂が投げつけられる始末。
源一郎は慌てて腰に刺していた警棒を群衆に向けて構える。群衆と相対することに迷いを見せている日向少尉を庇うように、彼の前に出て「さっさと散れ!」と声を張り上げる。
しかし、群衆は引く様子を見せない。
緊張が最高潮に達した――その直後だった。
ピピィー!!! ピピィー!!!!!
『お前ら散れぇぇ!!!!!!!!!!!』
突如、通りの向こうから大勢の警察官がかけつけてきたのだ。
怒れる群衆たちは、警察官の姿を目にすると、蜘蛛の子を散らすように現場の通りから姿を消していく。
警官隊が二人の目の前にやってくるときには、現場はすっかり平穏を取り戻していた。
「ふぅ……ゲンさん、危ないとこでしたね」
警官隊の先頭にいたのは、黒鷺だった。
さらに後方から馬に乗った警官が姿を見せる。
「少尉殿、ゲンさん、大丈夫でしたか?」
爽やかな笑みを浮かべて二人を見下ろしていたのは、二人を優しく送り出した班長だった。
流れるような動きで下馬するなり、班長は心配そうに二人に駆け寄る。
源一郎と日向少尉は互いに顔を見合わせて同時に首を捻った。
状況がうまく掴めない。
なぜ捜査本部の人間がここにやってきたのか、二人はまるでわかっていない様子を見せた。
すると、黒鷺が源一郎にそっと耳打ちして事情を説明した。
「すいません、少尉殿が暴走しないか見張っていたんですよ」
源一郎も日向少尉には見えないように口を隠して答える。
「つけてきたのか?」
「不審な点があると言ったでしょ? でも、追いかけようと言ったのは班長です」
「あいつが?」
班長は日向少尉の前に立ち、憤りを多分に含んだ鋭い視線で彼を見下ろした。
「申し訳ないですが、捜査に関係ない勝手な行動は慎んでもらいたい。こんなところなんにもないでしょうに」
「いいえ、これも捜査の一環です。捜査中に偶然このようなことに……」
「捜査は我々の仕事。少尉殿は軍と警察の連絡役か調整役というのが我々の認識です」
「それなら私と大洗警察官が本部から出ていくときに、しっかりとそう言うべきでは?」
まさに売り言葉に買い言葉。
しかし、ここで日向少尉は、集まってきた警官たちが彼の周囲を静かに取り囲んでいることに気づく。
全く友好的には感じられない雰囲気に、日向少尉は皮肉っぽく笑った。
「なるほど。こうやって私を連れ戻すと」
「とにかく、これ以上の捜査協力は不要。アナタを拘束させてもらいます」
「こ、拘束!? 私が!?」
虚を突かれたのか、日向少尉の声が裏返った。
日向少尉の反論よりも先に、警察官二人が日向少尉の腕を掴んで後ろに回し、捕縄でキツく縛り上げる。抵抗しようと肩を動かすが、あっという間に日向少尉は罪人と同じ姿勢を取らされてしまった。
そんな日向少尉の様子を見て、源一郎が班長と日向少尉の間に割って入ってきた。
「班長、待ってくれ! これは俺が悪いんだ!!」
「だろうね、ゲンさん……君からもしっかりと話を聞かせてもらうよ。勤務評定が楽しみだ」
班長は冷たく源一郎の懇願を切り捨て、再び馬に跨ると、集まった警官隊の先頭に立った。
「さっさと歩け!」
「これは問題行為ですよ! しっかりと報告させていただきます!」
顔を真っ赤にして声を張り上げる日向少尉。
「無駄だよ。馬鹿なやつだ」
黒鷺は、必死に体を左右に振って抵抗を続ける将校の背中に向かって、蔑むような視線を送る。
拘束された日向少尉はまるで市中引き回しの刑を受けた罪人のようだった。
すっかり力を失って丸くなった背中を源一郎はただ後方から眺めることしかできない。
騎馬警官の登場は貧民窟の住民に大きな衝撃を与えたと思われた。
しかも捕まったのが、住民の助けに入った若い将校。街を出るまで日向少尉は、卑屈な住民たちの好奇の視線を浴び続けることになり、彼の拘束は捜査本部に戻ってようやく解かれるのだった。
来週が今年最後の更新です!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
メリークリスマス!!!!!!!!!!!!!
来年はいい報告ができるように祈っています!!!!!!!!!!!!!!!!!




