第五条(見送り)
「……パトリシア?」
アイリーンの瞳が訝しげにミシャを見た。
ミシャは見たことがない女性がその場にいた事に驚いて硬直していた。
「彼はレイド傭兵団の一人ですのでご心配なく。ミシャ、彼女はアイリーン・ドナルド子爵令嬢。領主様の妹で、俺達のやってる真珠業の協力相手でもある。今日は視察に来てたらしい」
「えっあっ、は、初めまして! ミシャって……いや、ミシャと申します!」
「…………よろしく」
子爵家ともいえば高貴な身分であり、平民のミシャから見てみれば雲の上にいるような存在だ。
辿々しい敬語を使う若い少年に和みそうになったが、アイリーンは気を取り直してミシャを見た。
「ミシャさん? 先ほど仰っていたパトリシアというのは……どなたのことです?」
「え? パトリシアさんですか?」
ヒースとレオの表情が硬直した。勿論、外で盗み聞きしていたパトリシアも同様だった。
下手に口を出しては怪しまれるため何も口出しできず、ミシャが余計な事を言わないよう念じるしかなかった。
「パトリシアさんは、僕らレイド傭兵団の事務官です。真珠業を始めているのもパトリシアさんなので、きっとパトリシアさんと話をされた方がいいと思います」
「そうですの」
「あ、でも……今はやめておくべきです。お聞きになってるかもしれないけど賊が来るかもしれませんから」
「そうだよアイリーン。ここの事務官も女性でな、今日中にはヴドゥーへ移動する予定だ」
レオの言葉に外で聞いていたパトリシアは眉を寄せた。恐らく打ち合わせが終わった後に言われることではあると思っていたが、傭兵団の一員であっても避難対象になるのだとこの場で理解してしまった。
「……それでは移動の間だけでもお話を聞けませんこと?」
「生憎だが却下だ。今話し合いをしたとしても、賊から被害があった場合無駄骨になる。今は賊の事を優先すべきだからな」
「…………そうですわね。ところで、そのパトリシアさんはどちらに? 何だか……知り合いと同じ名前なので興味が湧くのです」
口角を上げてアイリーンが微笑んだ。
「ついでに言えば領主会議でお兄様がお連れになった謎の女性についても気になっておりましたの。もしかしたらその女性こそが……事務官の方ではなくて?」
勘の鋭い妹の言葉に極力動揺を見せず、レオが鼻で笑った。
「お前が俺のパートナーに興味を持つなんてな。ろくに兄妹仲が良いわけでもないのに」
「あら。私、レオお兄様のことは結構気に入ってますのよ? リアお兄様みたいに矮小でもなければルイお兄様のように単純ではございませんもの」
長兄と次兄を小馬鹿にする妹の姿に、レオは一瞬同族嫌悪を抱いてしまった。ヒースから見ても似た者兄妹であった。
「結構ですわ。お時間も無いようですし私はお暇します。また午後に顔を出します。お兄様、それでよろしくて?」
「ああ。午後には帝国に戻れ。今日のうちに走れば夜には帝国付近の町には着くだろう」
その後、軽く話をした後アイリーンは待たせていた御者と共に自身の馬車に乗って出て行った。
その姿が見えなくなるまで隠れていたパトリシアだったが、窓が開いたことにより驚いて仰け反った。
「もう入ってもいいぞ」
「……気づいていらしたのですね」
ヒースに言われ、パトリシアは大人しく部屋に戻ってきた。
どうやらレオも退室したらしく中に居たのはヒースとミシャだけだった。
「ごめんなさいパトリシアさん……」
「いえ、急なことですしわたくしも説明しておりませんでしたから……」
どうやら事情をヒースから説明されたらしいミシャが落ち込んだ様子で謝ってきた。
ミシャは何も悪くないのに……パトリシアはミシャの手を優しく握った。
「そろそろ朝の時間だわ。今日はミシャに沢山働いてもらわなければなりませんから」
今日一日かけて町民に避難の説明を行う。恐らく反対する声も一部あるだろうが、それでも女子供は優先して避難することはスムーズに進むだろう。
そのためには荷造りや荷物の移動、順番などを迅速に対応する必要がある。
町民のほぼ全員と顔見知りであり家庭の事情をよく理解しているミシャこそ働き手として頼り甲斐があるのだ。
「分かりました! 食事を済ませたら町に向かいますね!」
いつもの笑顔を見せるミシャに安堵した。
それから三人でありあわせの食材を軽く調理してから支度を進める。
ミシャとは夕刻に傭兵団の建物で待ち合わせをすることになった。
ヒースは傭兵の集団や帝国兵とアルマンへの救援に関する打ち合わせが残っているらしい。
いつもより伸びた無精髭が、彼の忙しさを表している。
「パトリシア」
見送りするために傭兵団の扉の前に立っていたパトリシアの三つ編みにヒースが触れる。
あの日……レオから二人の関係性を揶揄われた日からこうして時折ヒースはパトリシアに触れてくる。髪だったり掌だったり、パトリシアが嫌がる様子がないかを確認した上でそっと触れてくる。
今もそうだった。
パトリシアはその、触れてくるヒースの指が好きだった。
「夕刻には馬を一頭寄越すから、先にミシャとヴドゥーへ行ってドレイク傭兵団に控えててくれ」
「かしこまりました……何か出来ることは?」
パトリシアは無力だ。
かよわく、事務処理能力しか持っていない。
だから出来ることなど無いことは分かっている。それでも、居ても立っても居られない。
大切な人が今、寝る間も惜しんで街を守るために働いているのだから。
ヒースはパトリシアの意図を汲み取って優しく微笑んだ。
「祈っててくれ。それで俺には十分効果がある」
笑い、手に持っていた三つ編みに軽く口付ける。
急な出来事に頬を染めたパトリシアをそのままに、ヒースは軽く手を振ってから愛馬に跨り走り出した。
駆け去っていくヒースの姿をパトリシアはずっと見つめていた。
言葉で愛情を伝えられたことはない。
パトリシアもまた、ヒースに直接想いを伝えたことはない。
けれどそこには確かに、愛はあったのだ。




