第8話
詩を書くときも、歌うときでも別の自分になろうとしてきた。目標に手が届くように夢をつかめるように強い自分のイメージを作ってそれになりきるのだ。子供の頃から歌手になる事が夢だった。実現するためには具体的に何か行動する必要がある。どうしたら良いのか判らないとき由紀子は指のおまじないをする。指の輪の中にできる魔法のような世界ではもう一人の自分に会えるような気がする。
由紀子は指を組んでスーパースターになった由希子なら今どんな歌を作るだろうかと問いかけた。でもマスターの調子の良い台詞に頭の中が侵されて、なんだか集中力が削がれてしまい作詞が出来るような気分ではなくなっていた。由紀子は席をたった。店の外へ出る前に橘と目が合った。「そういえば」由紀子の声に橘はちょっと焦点がぼやけたような薄い色の瞳を由紀子に向けた。
「あなた、前にどこかで会った事あるよね?」由紀子の記憶の結構深いところで、橘によく似た顔に見覚えがあった。
「え」また遠くから聞こえてくるような声色。なんだか冬の景色が思い出される。それと関係がある気がする。
「そう・・・冬よ。ずっと前の冬にどこかで会ったことない?」
「どうでしょうか」少し冷たい表情と口調で橘は答えた。それにイラついて「もう少し真剣に思いだそうとしてくれないかなぁ」由希子はつい絡むように言った。近くで見れば見るほどこの顔には見覚えがある。段々確信めいたものに変わっていく。いつの冬の事だろう。でも見たことあるのは間違いない。
「はっきりしない事って嫌じゃない?」由紀子は詰め寄った。「そりゃぁ、まぁ」橘ははっきりとしないまま話を終わらせようとしている。「そう、冬よ。それも夜だった。それで何か思いださない?」
「そう言われても、冬の夜も沢山あるわけで・・・」ほら出た、と由紀子は思った。語尾が曖昧なしゃべり方が一番イラつく。「そりゃぁ、沢山あるでしょうけど、なんとか思いだそうとしてみるとか何かできないの!?」
こうなると由紀子も引っ込みがつかない。でも橘の方も困らされてからは、由紀子への口調も大きくてやや荒っぽくなってきた。
「こっちだって思いだしてるよ。でも判らないんだから仕方ないだろう?」
「それのどこが思い出してるのよ?はっきりしない顔で言っても判らないわよ」由紀子は目を瞑ると、うーっんと力むような表情をしてみせた。
「これ位は努力しているって顔をみせなさいよ。そうしないと人には伝わらないの!」もう無茶苦茶である、
「うーっん・・・こんなので都合よくいくわけないだろう。変な事やらせるなよ」
身振り手振りまで始まった橘の声、その単純さに由紀子は呆れた。でもこのまま責め立てたら本当に思いだしそうな気がした。ちょっと悪乗りかもしれない。
「ほら、もっと頑張りなさいよ!」「無茶すぎる。ヒントとかないわけ?」
「ヒントが出せたら、私も苦労しないわよ」「あっ、そういう貴方だって思いだせないんでしょ?」
「あと少しよ」「それだったら、自分で思いだせばいいじゃないか」
「なんて酷いこと言うのよ」「だってさ・・・」
そのとき突然、橘が頭を抱えてうずくまった。「うわっ」
「どうしたの?」その声に由希子も驚いた。
”お前は誰だったんだ!”
すぐに橘は立ち上がった。「僕は頭痛持ちなんだ。時々こういう事があるんだ」
”お前は誰だったんだ!”
「うわっ」すぐにまた橘はしゃがみこんだ。橘には何処かから声が聞こえたのだが、由希子には何も聞こえなかった。「まただ。お前は誰だなんて・・・空耳にしては・・・」橘が少し怯えたような真剣な表情で言ったので由紀子も先程の勢いを引っ込めた。「ひょっとして私がガミガミ言ったから?」
由紀子には何も聞こえなかった。それに気が付くと橘はわざと平気そうな表情をした。「なんだか治ったみたいだよ」橘はそう言って立ち上がった。
「大丈夫?」由紀子は橘に近づくと背伸びをして頭を覗き込んだ。「怪我してるわけでもなさそうだし」
「ありがとう、冬の夜の事は今度また思いだしておくよ」
橘は、さっきまでの生きてる感を省いたような表情に戻ると頭を抱えていた手を下した。
すると店の奥から冬眠明けの熊みたいなマスターがのっそりと顔を出して言った。
「どうして、二人はいちゃいちゃしてるんだ?知り合いだったのかぁ?」
結局、記憶の正体ははっきりしないまま由希子はレストランを後にした。来たときの上り坂を大きくらせん状に下る。
頭の中に幼いころの自分の部屋が浮かんでくる。夜だ。一人で部屋にいたような気がする。寝ていたのだろうか。でも起きていたから見たのだ。でも一人で部屋にいたなら橘の顔を見たという記憶は理屈に合わない。
さっきまでの出来事を何回も思い起こしながらぐるぐる坂道を下る。
名前教えちゃったなぁ。由紀子はまた独りごちた。
また何か思いだしたら教えるよ。橘はそう言ってくれた。そのとき由紀子は名前を教えた。
それも由希子という下の名前の方を言ったのだった。思い出すとなんだか照れ臭かった。
西風にポプラの枝が揺れていた。
第3章に続きます。