2-1
石造りの薄暗い部屋。それがハルの世界の全てだった。前を見ても後ろを見ても、冷たい石で造られた壁しかない。一つだけ違和感しか覚えない鉄扉があったが、本当にそれだけだ。それ故に、その時のハルは会話しかすることがなかった。
――ハル。寒くないかい?
――魔力ならある。いつでも温めてやろう。
いつの間にか聞こえるようになっていた二つの声。アークとヴォイド。二人がハルの心に現れた時には困惑したものだが、慣れてしまうと良い暇つぶしになってくれている。それに、この二人はハルの知らないことを多く知っているため、多くのことを覚えることもできた。
言葉や文字を始め、アークが得意とする剣術やヴォイドが得意とする魔法など、二人は本当に博識だった。ただ、二人は何故か、ハルの『親』に自分たちのことを話すことを許可してくれなかったが。
時折鉄扉が開かれて、ハルの『親』と共に何人かの人間が入ってくる。人間たちはハルにひどいことをするのだが、その後は決まって『親』がお菓子をくれて褒めてくれる。ハルはそんな『親』が好きだったのだが、二人は『親』を含めて人間たちを嫌悪していた。
けれど、嫌悪はしていたが評価はしていたようだ。せめてやつが真っ当なら、と何度も話していたのを聞いている。当時のハルは真っ当の意味が分からなかったが、今ならその言葉がよく分かる。
今でもまだ、思い出せる。人間たちはずっとひどいことをしてきていたが、『親』だけは自分を心配してくれていた。その親が、裏切った瞬間を。些細なことではあったが、ハルは絶対に忘れないだろう。
今でもまだ、自身の体を見るたびに思い出せるのだから。
・・・・・
「ひっ……!」
女の短い悲鳴が豪華な部屋に響く。ハルは億劫そうにその女を見た。女が手に持っているのは、ハルが先ほどまで着ていたシャツだ。今、ハルの上半身は裸であり、そしてそのハルの体には、多くのものが刻まれていた。
幾何学的な模様。見たこともない文字。文字か模様かの判断すらつかない、謎の図形。それらがハルの体に刻まれている。入れ墨ではなく、体に傷として、だ。
「どうした……の?」
ハルが不思議そうに首を傾げる。ハルを脱がしたのは他でもないこの女自身なのに、なにを驚いているのかと。そう思っていると、心の中から苦笑する気配が伝わってきた。
――ハル。魔法が切れてる。
――傷が丸見えだぞ。
その言葉ですぐに察しがついた。ハルは、ああ、と手を叩き、自分の体を見る。今になってようやく、体の傷のことを思い出した。
ハルにとって、体の傷は忘れたい記憶の象徴だ。それ故にハルは、ヴォイドから隠蔽の魔法を学び、自身の体の傷を常に隠している。必要な魔力が少なく常に維持している魔法なので、ハルですらそのことを忘れてしまうこともある。ほとんど無意識に使っている魔法なのだが、今回気を失ったことで魔法が解除されたのだろう。
どうせ見られたのだからしばらく放置しようか、と思ったところで、何故かティアナの顔を思い出した。ティアナはハルのこの傷を当然ながら知らない。もし知れば、どんな反応を示すだろうか。少なくとも、好意的な視線はあり得ないだろう。
嫌われたくはないな、とハルはぼんやりと考え、すぐに目を閉じて魔力を練り始める。次の瞬間には、ハルの傷はきれいになくなっていた。目を開けてそれを確認して、ハルは満足そうに頷く。次に、一部始終を見ていた女へと視線を向けた。
「ティアには……言わないで」
ハルがそう言って頼むと、女はしばらく呆然としていたが、やがて小さく頷いてくれた。
その後は、先ほどのことがなかったかのように女は動き始めた。ハルの体のサイズに合う服をハルへと着せていく。先ほどまでハルが来ていた質素な衣服ではなく、しっかりとした丈夫なものだ。ハルが着ていたものよりはよほど良いものなのだが、アーク曰く、貴族が着るものではないらしい。
――まあ、街に行くならお忍びということなのかな。
アークが一人で納得しているが、貴族そのものが分からないハルには理解できなかった。
服を着終えたハルが女に連れられて外へと向かう。ハルの住む巨木よりもよほど大きな建物のようで、長い廊下を歩き、階段を下りて、そしてようやく外に出ると、色鮮やかな花々が咲く広場に出た。花はいくつかの花壇に分けられて植えられており、広場の真ん中には大きな木がある。
誤字脱字の報告、ご意見ご感想などいただければ嬉しいです。
ではでは。




