霧の中
どこからか呼ぶ声が聞こえる。遠らかに近やかに、縹渺たる風の揺らぎが運びくる不確かなせせらぎ。さわめきが耳に触れると、拡散する意識は目覚めゆく身体に引き戻され、ゆるやかに集う。ふわりと鼻腔をくすぐる馴染みない木の香りと共に、ともよはゆっくりと目を覚ました。
上体を起こそうとして、ふと全身に走る軽い痛みと異常な寒さに驚く。おかげで瞬時に状況が思い出された。昨夜は他に仕方なく、板張りの床の上で直に横たわり眠りについたのだった。野宿を思えば屋根があるだけまだ良い、のかもしれないが、これならば自室の薄べったい布団の方が幾分上等であったに違いない。太く息を吐き出しながら重い頭を傾け、骨を鳴らして辺りを見回す。
ブレラがいない。
昨晩、ともよを残してどこぞへ消えたのち、いまだ戻ってはいないらしい。社が住みかというのはやはり皮肉のうちだったとわかり、苦虫を噛み潰したような気持ちになる。そのままの顔を出入口から覗かせ、外の様子を窺ってもみるが、やはりブレラの姿はどこにもない。
代わりに、人の声がした。夢ではなかったのか。息を詰めて耳を澄ませる。
この声。……たいち?
ともよは跳ねるように立ち上がり、社を飛び出した。
「――ともよー! ……あっ、ともよー!!」
「たいち! あんた、どうしてここに!」
木々の合間に現れた、見慣れた背格好に、ともよは仰天した。狐にでも化かされているのではないか、という疑いが寸刻頭上をかすめていく。予期せぬ再会に目を丸くして、足をもつれさせながら、歩きつかれ薄汚れた少年のもとへともよは駆け寄った。
喧嘩して別れたあの日のまま、たいちは華奢な肩を揺らし、しかしどこか力のない笑顔をともよに向ける。その幼い面持ちには、不似合いな悲壮が翳った。
「ともよ。ごめん。父ちゃんから聞いたんだ。俺、なんも知らなくて……ごめん。知らないくせに、酷いこといった。どうしても謝りたかったんだ」
ひたむきな声は、どこまでも真摯に響く。
たいちの責任などひとつもない。真実を告げずに黙って去ったのはこちらの方だ。それなのに。
ともよは、ぐっとこぶしを握りしめた。そうしてまたぞろこぼれてしまいそうになる涙を必死に食い止めた。
「ばか。こんなに汚して」
たいちの頬を、こちらも既に純潔とは言えぬ自らの衣で拭い、服についた泥や埃を払ってやる。その間もともよの胸のうちは自責の念に満ちていた。この無垢の心をどうしたら傷つけずに済んだだろう。そう考えることこそが、そもそもの間違いだったのだろうか。
「父ちゃんも、もう疲れたって。こんな村たくさんだって。母ちゃんも行けって。でも、言われなくても来たよ。俺、男だから!」
愚直なまでにまっすぐな少年の眼差しが、真っ向からともよを射抜く。
だが――。
「ともよ、一緒に帰ろう」
「……でも」
手放しで応えられない。そんな自分に、ともよは愕然とした。
わからない。このまま村へ帰ったところで、禍が神もろとも消え去ったという話を村人たちに信じてもらえるのかどうか。人びとの目に、ただ天命を捨ておめおめと逃げ帰った臆病者として映らないものか。一人息子に真実を告げ、この禁忌の森まで送り出すほどの後悔に苛まれているのであろうたいちのふた親をはじめ、気のいい村人らにとって、自分の存在は毒にもなり得るのではないか……。
以前と変わらぬ付き合いなど、できるわけもない。死人に居場所などありはしないだろう。
町を選び村を去った娘たちの思いが、ここでようやく色をなし、ともよの指先に触れた。
疑うのも、疑われるのも真っ平だ。村人を大事に思えばこそ、大事に思われればこそ、そんなことは、あってはならないのだ。
「こないだわかったんだけどさ」
下草に覆われた土を見下ろし、だんまりを続けるともよを見上げ、たいちはもの問いたげな顔のまま語りかける。
「俺んち、今度赤ん坊が産まれるんだって。まだわからないけど、妹かもしれない。……俺、ともよがいなくなるのも、妹がいなくなるのも、どっちも嫌だよ。もう終わりにしたいって、みんな本当は思ってるはずだろ? ここで、ともよで終わりにしたって、いいはずだろ!」
悲痛な叫び。――うまれくる花嫁。
ともよは、うたれたように立ち尽くした。
自分が犠牲になればそれでめでたくおしまい、などと、どうして考えたりしたのだろう。今、村に若い娘がひとり残らずいなくなったからといって、この先もずっといないわけなどないではないか。わかっていたはずなのに、全くわかっていなかった。結局は悲しみに溺れ、目を閉じていただけの。
大ばか者。
自分を叱咤して、震える指先を口元から引き剥がし、ともよは、しゃんと背筋を伸ばした。
「たいち……よく聞いて」
身をかがめしかと目線を合わせ、細こい肩に両手を置く。
「村に禍を降らせていた神さまは、もういないの。嘘っぱちだと思うかもしれないけど、これは本当。だから、儀式は終わり。誰ももうここへ来なくていい。ともよが保証する、そう、長に伝えて。できるね?」
ともよの言葉をかちりと捉えた、木の実みたいに円い純真の目が、見る間にほどけて開かれていく。
「じゃあ、どうしてともよはすぐに帰らないの。帰ろうよ」
「それは……」
途端に、ともよは口ごもった。自分ひとりが疑いを被り、それで贄となる娘がいなくなるのならば、儀式から開放された村の悲しみはやがて比べようもないほどに薄まっていくことだろう。村人がともよを疑うにつれ覚えるはずの悲しみなど、いつかはるかに軽く、小さくなり、そしていつか完全な無と化してしまうものだ。
それでも、村に戻ることは難しいと思う。ともよは常日頃から気丈でありたいと願い、自らに言い聞かせてきたが、疑いの中で平気な顔をしていられるほど心の色を抜いてはこなかった。素知らぬふりなどできるわけもない村人とて、接することをこそ辛く思うに違いない。
……だが、どういえばたいちにわかってもらえるのだろう。
「ともよ?」
言い淀むともよを見上げるたいちの背後で、そのとき草むらががさりと音を立てた。
つられて何とはなしに目を向けた、ふたりの表情が凍りつく。そこには黒々とした毛並みに深く濁る瞳を埋ずめて、真っ赤な口内から鋭い牙と生暖かい息を覗かせた、野犬が低く唸っていた。
ともよは庇うように前に出たたいちを慌てて引っ張り、背中に押し込む。それでも前に前に出ようと頑張る無謀な子どもを押さえ込み、ともよの両腕は塞がってしまった。
じりりと迫る野犬から、同じように少しずつあとじさることしかできない。背中を見せたら、走り出す間も与えられず、すぐに飛びかかられてしまうだろう。最悪たいちだけでもどうにか逃がしたいが、このきかん坊の気性はそれを許してくれるだろうか。
迷いの中の後退も、ついに幕切れは訪れる。たいちの背を、とん、と太い樹の幹が受け止め、ともよの腕に行き止まりを告げた。はずみに、いよいよ野犬が頭を下げ尾を持ち上げて、姿勢を低くする。
来る。
思わずともよは目を閉じた。
次の瞬間には――――
きゃんと野犬の悲鳴。とっさにまぶたをこじ開けると、そこにブレラがいた。いったい何が起きたのか、文字どおり尻尾をまいて敗走する野犬を、とろりと眠そうなしかめ面で見送っている。全身の力が一気に抜けて、ともよはその場にへたり込んだ。
ブレラはたいちに一瞥をくれて、順番にともよを見る。
「話したのか」
「……え? あ……、ええと」
「お前、誰だ!」
なかば放心状態のともよの鼻先に、今度こそと庇い出て、たいちは牙をむく。その目の前に、広い手のひらがかざされた。たちまち倒れこむ小さな身体を、ブレラは易々と片手で受け止める。
「な、なにす……!」
「眠らせた。村に捨ててくるが、来るか?」
何気に渡された問いを取りこぼして、ともよは視線を落とした。
「…………その子を、お願い」
「社に戻っていろ」
それだけ言い残して、ブレラは飛び去った。
*
ブレラが立ち戻ったのは、ともよが社についてすぐのことだった。しかしそのあまりの素早さより何より、ともよの心臓を跳ね上がらせたものがある。このつかの間になにがあったというのか、ブレラの右肩を鮮血の染みが貫いていた。
あんぐりと口を開け立ちすくむともよの横を、ブレラは何食わぬ顔で通り過ぎる。微かに尾をひく風に髪をなぞられ、ともよはそこでやっと我にかえった。
「……何、それ」
「日に眩んだ」
ぶっきらぼうに言い捨てて、ブレラはどさりと腰をおろす。そして、それで解するわけもなく眉をしかめるともよには目もくれず、床の一点を仇敵であるかのように睨みつけた。心なしか顔色が悪く、動作には力がないように思える。
神も痛みを覚えるのだろうか。なんでもないように振る舞うブレラの額には、よく見ればきらきらと汗が光っている。やはりおそらく、やせ我慢なのだ。重く息をついて目を閉じたその横顔を見つめ、ともよは笑い出したいのか泣き出したいのかも定かでない奇妙な感情をもてあましていた。
「あれは無事だ。道中、村の近くで目を覚ました。騒ぎを聞いた村人が押しかけて、この様だ」
「……どうして。そんな、いきなり人を襲うようなこと、みんなが」
ブレラは静かに長く息を吸い、ため息を吐き出す。
「おれは、平素日が落ちてから動いている。光は目に慣れん。それで、飛んだところを、屋根にあがったところを、やつらに見られた。それに……坊主も騒いだからな。おれはどうやら、お前をかどわかした化け物ということになっているらしい」
面白くもなさそうに、ブレラは鼻で笑った。
傍らに、ともよはがくりと膝を折る。
「わたしが、ここにいたからだ」
だからブレラに怪我をさせてしまった。村人に、たいちに、誤解を与えてしまった。町に出るでもなし、村に戻るでもなし、意気地をなくしふらついていた自分が、ここにいたから。
「……ごめん。ごめんなさい」
「いい。すぐに治る。それよりも」
肩を落とし小さくなるともよを、目を細めてブレラは見やり、怒ったような声で言う。
「あったな。帰る場所とやらが。皆、ないていたぞ」
ともよは、泣きべそ顔をゆるゆると持ち上げた。
「塞ぐならば、ほどけるまで語ればいい。言葉があるのだから」
生きていれば、どうとでもなる。
生きていれば。
昨晩のブレラの言葉と溢れるような星空が、ともよの脳裏に描かれる。その鮮やかさ、暖かさに、ぐっと想いがつまり、押し出されるようにして疑問が滑り落ちた。
「あんたは」
「何?」
「あんたは? こんなところに独りで、ずっと独りで、生きていれば何か楽しいことがある? そう思ってるの?」
社の中へ、ふたりの間へ、ざわ、と一陣の風が吹き込む。運ばれてきた気配を敏感に感じ取り、ブレラが僅かに姿勢を変えて、追っ手が来たのだということをともよは直感で悟った。
「……迎えが来たな。行け」
「でも」
「悪かったな」
ともよの迷いを遮って、ブレラははっきりと言い切った。
せめてこの血がなければ、あるいは違っていただろうか。
神という位に座したときより、祖父の行いが、自らのこの立場が、存在自体が、ひとつの村を苦しめていることを知っていた。流れる血が神の座が、関係ないと顔を背けることを許さずに、戸惑いの中で供えられる娘を迎えては町へと送り出した。村人は無論のこと、花嫁も皆、神を憎み嘆き哀しんだ。冷たく滾る感情を浴びるたび、当の神すらもまた自らの立場を疎ましく思い、生と死の天秤を意義あるほうへと傾けかけてきた。
だが、そんなとき、ひとりの娘が現れた。
雷火でひとり生き延びた偶然を天命と仰ぎ、哀れな娘は神のもとへ嫁ぐことを生きるよすがとして育った。思い違いの僻見、その根本にある思いは村を守るために他ならず、神のためでは決してない。恨みだって嘆きだって違わずあっただろう。それでも、そんな娘が現れたのは、はじめてのことだった。
折をみて、神はしばしば村を訪れた。娘は幼さに見合わぬ信念を持ち、人前で自分を殺し続け、そのくせ一人になるとよく泣いた。この娘を崩したのも、だが支えたのも、なぜ自分であったのだろうと思う。自責の念にとらわれながらも、その寂しげな影に自らを重ね、ブレラはいつしか願っていた。いつの日か、自分のあずかり知らぬ遠き地で、係わりないことにでもいい、ともよが心から笑える日の来ることを。
「行け」
頑ななブレラの声に追い立てられるように、ともよはくちびるを噛みしめて立ち上がる。社の入り口からは、しんと冷えた森の空気を攪拌して人の気配が漂い、不気味に胸を騒がせた。
――生きていれば。
最後に一度だけ振り返り、決意を両手に握りしめると、ともよはきびすをかえした。
……これでいい。
遠ざかるともよの背中を見送って、ブレラは俯く。その口元は優しげに、そしてほのかに寂しげに、微笑んでいた。