夜さりつ方
静寂に浸る二人の上に、幾ばくかの時が降り積もる。
空は焦がれるような黄昏時を経て、濃紺の陰りを帯びていた。
ともよは抱いた膝に顔を埋ずめ、いまだ微動だにしない。すぐに社を出ていくかと思われたブレラも、なぜか壁に背をつけたまま、ぼんやりと座り込んでいた。
そのとき、猫が喉を鳴らすかのような高音がころころと沈黙を破った。
鳴いたのは、ともよの腹の虫だった。
いよいよ顔をあげられず、ともよは尚深く頭を垂れる。意思と身体は、ときに苛烈極まる乖離を起こすものらしい。思えば、朝から何も口にしていないのだ。必然とはいえ、死を前にして覚える空腹は殊更に滑稽だった。
「腹が空いたか?」
思いがけずかけられたその声は、闇がぼかす輪郭により存外優しげに届いた。それでもともよは、心を閉ざした彫像のように、時を止めた骸のように、尚も緘黙を守り続ける。
と、ほどなくして、無言で立ち上がり、床を軋ませながら社を出ていくブレラの足音が響いた。
気を悪くしたのだろうか。
――関係ない。
なんだって、どうだってよかった。この世の全てが、もはや自身にとって終わったことのように思えた。そう思わなければ、ただ座り込んでいることさえ困難だった。
気配が消えてしばらく後、だがブレラは思いのほか早く再び姿を現した。そのまま不遜な足取りで傍らに立ったかと思うと、ともよの足元へぞんざいに何かを投げて寄越す。ぱらぱらと撒かれた小さな固形物や、とさりと落ちた柔らかな物。音からすると、木の実や……果物、だろうか。
「食え」
そして、すげなく元の位置へと戻ってしまった。
……食べ物。協力のもとあらゆる面でほぼ自給の生活を進めてきた村では、無駄にしてはいけないと教えられてきたし、また立場上拒むことなど考えたこともない。習わしとは恐ろしいもので、得体も知れぬ他人の寄越したものであれ、打ち捨てることは許されない悪行のように、ともよには感じられた。
罪はない。罰もない。しかし――。
気だるげに頭をずらせて確かめる。そこには彩り豊かな虫の数々、そして小さなねずみの死骸が悪夢のごとく散らばっていた。
「ぎゃああぁあっ」
意地も外聞も忘却の彼方、ともよは飛び退く。
「食わないのか」
「食えるかぁっ」
さも意外だとばかりにけろりと目を見開いたブレラを勢い怒鳴りつけてから、はたと気がついた。話が通じるはずもない。こいつは、人ではないのだった。
髪をかきあげ、ため息を洩らし、ともよは頭を左右に振る。
「……あのねえ、……私は、こういうものを食べられるものとして育ってはこなかったの! 悪いけど遠慮するから。あと! できれば処理するときは向こうでお願い」
「そうか。そういえば、なるほど」
反撃に備え身構えたともよを余所に、拍子抜けするほどあっさりとブレラは頷いた。散らばる「食事」をかき集め、淡々と、言われたとおりに社を出て行く。やはり……食べるのか、あれを。
それにしても、と唖然としながらもともよは思う。怪しげなことに変わりはないが、この男は案外、全く無慈悲な生き物というわけではないのかもしれないと。今のこともそうだし、先ほどは感情に任せ声を荒げてしまったが、町に娘を連れる行為などむしろ奴にとっては何の得にもならぬ――救済、ではないだろうか?
今日の自分は、やはりおかしい。もっと早くに気がついてしかるべきだったのだ。平素の自分は一体どこへ行ってしまったのだろう。奴が戻ってきたら、謝するべきか。考えをまとめるより先に、ブレラは戻った。
「……早すぎる」
「そこらの畜生にくれてきた。おれもあんなものは食わん」
「あんたねぇえ……」
謝意は一瞬にして掻き消えた。
*
祭壇から失敬して、握り飯を頬張る。朝から手付かずのまま随分固くなってしまった米は、それでも空腹にこの上なく沁みた。当の神に差し出され、腹の虫がうるさいと盛大に顔をしかめられたため、腹が立ってつい手を出してしまったが、本当にこいつは神に相違ないのだろうか。もし人違い、いや神違いならば、とんでもない罰当たりである。
灯されたろうそくにより、場はゆらめく明かりにくるまれていた。
「あんたさぁ、どうして生贄をわざわざ町まで連れてったりしたの?」
三つ目を咀嚼しながら問いかけるともよに、ブレラは隠そうともせず呆れ顔を見せる。
「お前、本当に神取ともよか?」
「他の誰だっていうのよ」
憎まれ口を叩いてから、おやと思い直した。名を知っていたことから、村での様子をもこいつは知っているのかもしれない。でなければ発言の意味が通らないし、神だというのならば、それほどおかしなことではないようにも思えた。
あの村に暮らしていた神取ともよ。それは確かに、今ここに座り無作法に神の食卓を荒らしている娘とはかけ離れている。絶えず諦めたような微笑を被せ、決まって自分は後回し、万事平気なふりをして、口答えは端から浮かべたこともない。物心ついてからは、心からの感情をそのままに吐き出したことなど一度でもあっただろうか。
そうして生きてきた娘のむき出しになった本質がこれだというのならば、もはや笑うしかない。どちらにしろ、神取ともよは死んだのだ。
「そりゃ捻くれもするっつーの。……で? なんで?」
「お前はなぜ、ここに来た」
「ちょっと、あたしが聞いてんだけど。あんた会話する気ある?」
顔を向けた途端逸らされた、無駄に整った横顔をじろりと睨みつける。目の前でぶっきらぼうに座する男が神であると信じきることができないわけは、この態度にもあるのだろうと思う。麗しい見目に驚いたのは最初だけで、向かい合ううちにいつのまにか畏怖のかけらすら消えうせていた。
誰かに似ていると思ったら、ああ。威厳もへったくれもない拗ねたような顔に機嫌を損ねた折のたいちが重なり、思わずともよの頬が緩む。幼さ……。そうか。この神もまた独り、他と関わることなく日々を過ごしてきたのだ。
「何を見ている」
「え? いや、別に……」
今度はともよの方が視線を逸らせる番だった。胸がつかえて、喉をならす。
ブレラは手持ち無沙汰に供物の酒瓶を覗き込み、首を傾げた。
「自ら死を選ぶなど、正気の沙汰か? 人はわからんな」
「誰のせいよ」
「ジジイか?」
「…………確かにね。元凶はそっちか……。気が抜けた……」
本当ならね、と続けかけて、口をつぐむ。
疑うならば、自ら立証すればいい。町へ行き、十年前ここに来たはずの沢向こうの姉さんに会えば、だいたいのことはわかるだろう。四人もの贄を見送ったにしては若すぎるブレラの外見も、真実となれば人ではないことの確たる証となる。もし会えなかったとしても、少なくとも真にブレラが町の所在を知っているかということ、またともよを導くつもりがあるかということだけは、ただその身を委ねるだけではっきりさせることができるのだ。
――でも、私は。
指先が震える。正しさなど、いつも深い霧に紛れ身を隠す――卑怯者だ。だが、それでよかった。見つめるには、あまりに、あまりに恐ろしい。
認めてしまおう。ともよはもはや殆どのところ、ブレラを信じていた。
これが偽ならば、なぜ本物が来ない。
叫びだしたいほどに願っていた。すぐさまここへ本物の神がやってくることを。自分を贄として娶ることを。なぜならば。……なぜならば、受け入れることが怖いからだ。唯ひとつのよすがとして強く信じてきた生きる意味が、全て無駄だったどころか、はじめから無かったなどという事実を、誰がまっすぐに見つめられるというのだろう。
「いつだったか。ここへ来た娘が言っていた」
低く語るブレラの顔も、霞み掠れてわからない。ともよの目から溢れた想いが、ぱたり、と床の木目を打った。たがが弾け飛んでしまったのだろう。堪えることなど容易いはずが、驚くほど感情の制御を失っていた。
「外も悪くないものだと。生きていれば、良いことはきっとあると」
滲む男は、まっすぐにこちらを見つめている。
「あっただろうが。これまでにも、お前にも」
その言葉は、床に沁みゆく涙のように、力強く、しかし暖かくしなやかに、ともよの心を押した。
神取ともよは瞳を揺らし、震える両手を胸に当てる。そして、砂の花びらを持ち出すかのようにそっと、やがて、こわごわと頷いた。
ある。すべて閉じ込めてきたこれまでの人生では認めることができなかった。押された心から噴き出す数多の記憶がある。
遠くの野から、たいちが泥んこになって摘んできてくれた小さな花。抱きしめてくれた長の腕の中での安らぎ。機織りが上手くできて褒められたこと、糸の種類を間違える大変な失敗をしたときも、わが子同然に厳しく叱り付け、慰めてくれたこと。絶え間なく降り注がれていた、偽りのない慈しみ。その数え切れないすべて。
「……熱を出して寝込んだときに、義母さんが雑炊をつくってくれた……」
思い出が増えるごとに募る未練を忌避し、甘えることをも恐れていた。そんなともよの口に運ばれた微温の粥は、腹の底にじわりと届いた。
「毎年、祭りが楽しみだった。みんなで……汗だくになって収穫した畑の野菜を、広場に持ち寄って、めちゃくちゃな鍋をこしらえるの」
さだめを忘れ、紛れもなく自身が村の一員だと感じることができた日々は、確かにあった。
すべて、すべて、すべて。あった。確かに存在していたのだ。
ぐずぐずと鼻をすすり、手のひらで顔を擦って、ともよは今一度顔をあげる。そこに待っていたのは――、口も半開きの呆れ顔だった。
「食い物の話しかないな」
「うっ、うるさいな! いいでしょ別に!」
大慌ての反撃に、ブレラの口元がふっと緩む。その神にあらざるべき人間臭さ、そして柔らかさに、ともよはぽかんと呆気にとられ、何も言えなくなってしまった。
ブレラはやおら立ち上がり、社の外へと向かう。振り返ったときにはすでに笑みは掻き消えて、平素の不機嫌な面持ちがともよを見下ろしていた。
「おい、アホ面。帰れとは言わん。来い」
「し、失礼ね。何よ」
こんな真っ暗やみの中、いったいどこへ行くというのだろう。首をかしげながらも、ともよは素直に従った。先ほどまでの自分には考えられない行動だという自覚はある。弱みを見せてしまった、いや、はじめから見透かされていたことが響いているのだろうか。自問してみるが、そういうものとも何か違う気がする。
釈然としない気持ちにくちびるをとがらせ、それでも出入口に立つと、いきなり腰に手を回され、叫び声をあげる間もなく重力に反し空へ引き上げられて、気がつくとブレラとふたり、背の高い樹のてっぺんに立っていた。
……何が起きたのかまったくわからない。
頂に近いかぼそい幹の上に、しかし二人分の重みはしっかりと支えられている。目を白黒させながらも、改めて、ようやく実感に至った。やはりこの男は人ではないのだと。そして、それが……寂しい?
「高所は苦手か」
「そそそ、そういう問題じゃなくてっ」
仕方なしにブレラの服を鷲掴み、ともよは内心の動揺をしゃにむに押さえつけた。
「うぅ……苦手も何も、こんな高いところに立つのは、生まれてはじめてだって。うわわっ」
「下を見るな」
「遅い。もう見た」
「上を見ろ」
多少しゃくではあったが、命じられるままにともよは頭を持ち上げる。ふらりと揺れる身体をブレラが支えた。
広がる光景に、息を呑んだ。紺碧の夜空に満天の星。遮るもののない天恵が、ただここにあるだけで注がれる。
生きているだけで。生きていればこそ。
「……不思議。しらなかった、星って色がある」
あるがままの煌めき。その尊さを網膜に焼き付けた。これまで見えてはいたけれど、見えてはいなかったもの。痛みを堪え、今ならば目を開けていられる。
「こんなに、近くにいたのに……」
時を忘れ場所を忘れ、ともよは天を見つめ続ける。
ブレラは何も言わず傍らで隣り合い、夜陰に溶け込むかのように立ち尽くしていた。




