崩壊するルクシア
《崩れ始める音》
最初は、ほんの些細な違和感だった。
剣を握る右手が、かすかに震える。
戦いの疲労かと思った。血の気が引いたかのように、肌の下に冷たいものが走る感覚もあった。
けれど、それはすぐに消えた。だからルクシアは気にしなかった。
――そのはずだった。
ある朝、鏡の前に立ったとき、彼女は息を呑んだ。
鎖骨のあたり、うっすらと光る亀裂のような筋が浮かんでいる。
白磁の肌に走るその線は、まるでガラスが割れたように繊細で、それでいて確実に“生きたもの”の形ではなかった。
「……何、これ……?」
触れると、ひんやりと冷たい。だが痛みはない。
それが余計に、ルクシアを不気味な沈黙の中に閉じ込めた。
衣の襟を引き上げ、見えないように整える。
――誰にも言ってはならない。
直感がそう囁いた。
それからの日々、異変は少しずつ進んでいった。
歌うとき、胸の奥が鈍く軋む。
妖精を呼び出す詠唱を終えるたびに、胸に埋められた紋章が熱を帯び、薄く光を放つ。
その光が消えるとき、彼女の体のどこかが微かに“剥がれて”いくのを感じた。
けれど、それを悟られぬよう、彼女は以前よりも冷静に、毅然と振る舞うようになった。
仲間の前では、決して弱さを見せなかった。
――それが、ルクシア・レグナリアの誇りだった。
ミリアは時折、彼女の手を見て眉をひそめた。
「……ルクシア様、手が冷たいですよ」
「気にしないで。ただの疲れよ」
いつものように笑ってみせる。けれど、その笑みはどこか張りついていた。
フェルヴィアは戦闘のあと、無言でルクシアの背を支えながら言った。
「最近、少し動きが鈍くない?」
「……そう見えるかしら」
「うん。無理、してない?」
ルクシアは首を振る。
「私は平気。――戦いをやめる理由にはならないわ」
夜、焚き火の明かりの中で、仲間たちが談笑する声を背に、ルクシアは一人、薄い布を外して胸元の亀裂を確かめた。
そこはもう、淡い光ではなく、闇のように深い影を帯びていた。
指でなぞると、ざらりとした感触がある。まるで人ではない何かの境界線。
「……これが、罰なの?」
誰にともなく呟く。
妖精を縛り、血で呼び、戦いに使ってきた――その報い。
そう思うと、不思議と涙は出なかった。
ただ静かに、胸の奥で何かが欠けていく音だけが響いていた。
翌朝、ルクシアはいつも通り剣を取り、歌を口ずさみ、戦場へと歩き出した。
仲間たちは誰も、彼女の背中に浮かぶ微かな“ひび割れ”の光に気づかなかった。
それはまだ、痛みを知らぬ傷のように、静かに彼女を蝕んでいた。




