運命の至る場所
K
ドアを開けて、またしても目の前の景色に呆気に取られた。
ついさっきまで咲き誇っていた向日葵達の姿がすっかり消えた。黒い土だけ残して、どこか寂しげに感じた。白い霧の中で、ぽつんと空いた四角い黒い土地、辻道だけが黄色い土のままである。その光景はまるで白い布に黒いチェック柄の刺繍を入れたように思えた。
ユキの話を思い出した。この土地は最初に荒れ果てていた。目の前の黒い土は今まで培ってきた命を物語っているように、消えてゆく命の跡に寂しさを感じるのがさもありなん、しかし荒れ果てた大地をここまで豊かにするものと思えば感慨深い気持ちの方が勝った。
「どうしたの?」
ドアの前にぼうっとしている自分に訝しんだユキは話しかけてきた。
「いええ。向日葵が突然消えたなってびっくりしただけ」
「いつものことだよ。花期が過ぎればあっという間に消えて、枯れる姿さえ見せてくれないのよ」
「生きた証は残っているけどね」
「そうね。土へ帰ったかもしれない」
「今度は何の花を植えるのか?」
「うん……」
しばらく考えた末、ユキは俺に尋ねた。
「好きな花とか、あるいは見たい花とかある?」
その質問について考えた。この世界へ来てから、ここ以外の場所に花を見かけたことがないし、これといって好きと言える花はない。不意に彼女のホワイトワンピースが目に映り、とある花が自然と脳裏に浮かんできた。
「百合の花がいいな」
「百合?いいけど、白い花だとこの霧を背景にすればちょっと被ってしまいそう」
「そうかもね。君の好きな花にすればいい。俺は別に特に百合が見たいわけじゃない。ただ君を見て偶然思い付いただけだ」
「百合って純白なイメージだけど、実は色々種類があるよ。他の色の百合も沢山植えましょう。きっと綺麗な景色になるわ」
百合の海の真ん中に立ち、優しく微笑む彼女の姿を想像する。結構似合いそうだ。
「ほら、こんな場所で立ち止まないで、行きましょう」
彼女に催促され、小屋から出た。二人は肩を並べて辻道を歩いた。空っぽになった花畑の寂れた雰囲気のせいか、あまり言葉は交わさず、黙々と歩いていた。かと言って、気まずい空気ではなかった。彼女の隣を歩くことだけで心は落ち着く。肌が触り合いそうな距離で、微かに彼女を体温を感じた。冬の日の布団の中で感じた温もりのようで、居心地がよくて離れたくはなかった。
畑を抜けて、霧の中へ入った。歩くペースを緩めて、彼女のやや後ろを歩いた。
しばらく歩いて、彼女が言う黒幕みたいな入り口に辿り着いた。人一人くらいの高さで、幅は一メートルぐらいの長方形だった。薄い布切れのようで、地上の何センチの上で浮かんでいる。前も後ろも何もないように見えた。本当に異世界に繋がっているようだ。
その入り口で足を止めて、彼女はこちらに振り返った。
「ここから入って、廊下を真っ直ぐ歩いて、突き当たりの階段を登れば大広間に出るわ。あなたが会いたい人は多分そこに居る」
「ね、本当に一緒に行かない?」
ユキは頭を振った。
「私はまだ畑の世話をしないといけないから。それに、あの仮面の人達はちょっと怖いから」
「そうか」
「帰った時は……帰ってくれるの?」
話の途中で何か思い付いたように、彼女は不安そうな表情で覗き込んできた。まるで留守番させられた子供が出掛ける親に向けた視線だった。
「用事が済んだなら帰るよ。頼んだ花はまだ見れていないしな」
それを聞いて、安心したように彼女は笑った。
「じゃあ、いってくる」
「いってらっしゃい」
お互い頷いて、手を振った。彼女に背を向けて、一人で暗闇の向こうへ進んでいった。
真っ黒な入り口をすり抜けて、別空間に入ったように、回りは忽然暗くなった。さっきまで白に取り囲まれていたのが嘘のように、回りは五指も満足に見えない程暗かった。連続していない空間を無理やり繋げているようだった。
目の前にあるのは突き当たりが見えない狭長な廊下だった。二人並べてぎりぎり通る幅で、両側の壁に蝋燭台があり、灯っていた蝋燭の微かな明かりが道標のように進む方向を示してくれた。
あの霧の中と同じように、ここも異様に静まり返っていた。石畳を踏みつける度に響くはずの音が0.1秒の内に空気に吸収されたように、まったく足音がしなかった。ユキの言った通り、空気は湿気を帯び、肌寒い感じがする。外では常に気持ちのよい温度を保っていた。厚着だろうと薄着だろうと、その人に合わせて居心地いい温度を調整してくれたような優しい気配りを感じた。しかしここははっきりと寒さを意識させられた。それは物理的に体温を奪うような寒気ではなく、先に意識に作用し、体中に浸透していくような感じだった。
立ち止まるのが怖くなって、とにかく前へ進んだ。音がなくて心細くなり、気を散らすために斜め上の蝋燭台を数え始めた。数えが混乱になって途切れてやり直し三回目、26という数を最後に、突き当たりの階段に到着した。
螺旋階段を上り、49段で終わりを迎え、地上へ出た。
緊張した気持ちで回りを見回した。立派な建物の中であるようだ。大広間の正面口に大きな扉があり、内側に開いて、そこから光が差し込んで、地上に平行四辺形の模様を作った。狭くて暗い廊下とは掛け離れた印象で、びっくりして息を呑んだ。天井は高く、ドーム型になっている。壁にステンドグラスが張ってあり、どこかの教会を彷彿させた。四方の壁に扉があり、正面口が開いていた以外他は固く閉じていた。左手側の奥はベージュ色のソファーセットが置いてあり、向こう側の壁際に彫像は幾つ置いてあった。生身の人間をそのまま石にしたように、生々しい感じだった。子供と手を繋いで幸せそうに笑う母親、制服姿で談笑する学生らしき少年少女、どれもありふれた日常の光景で、厳かな建物の中で異物のようなものだった。
「屋敷へようこそ。こちらへいらしてください」
ソファーから声が聞こえた。よく見れば黒い二人はソファーにかけていた。
仮面コンビの向かいに座り、湯気の立つコーヒーが出された。テーブルの上にカップが一つ、自分だけ飲み物もらって、どこか気が引けた。
「君達は飲まないか?」
「我々飲み物を飲む習慣はありません。これは人間のあなたに用意されたものです」
抑揚のない声で答えた。相変らずどちらから声を発しているかは分からなかった。
「まぁ、いいけど」
さっきの会話に引っかかりを感じながら、コーヒーを頂いた。砂糖は入れていないようで、苦味がじわっと口の中で広がり、後口はまろやかだった。
「改めて歓迎します。あなた様をお待ちしておりました」
「ここへくることは予想していると?」
二人は同時に頷いた。
「あの女性に案内されずとも、あなたは別の方法でここに辿り着けるでしょう。全ては必然。つまり運命です」
運命という言葉に思わず顔を顰めた。その言葉は好きじゃない。自分の弱さから目を逸らし、現実逃避に利用される都合のいい言葉だ。俺はどちらかと言うと自分を信じるタイプだ。運命なんかに縋る気はない。
「“運命”という言葉が気に入らないですか。しかし奇跡によって積み上げられたこの世界に、運命があってもおかしくないと思いませんか?」
返す言葉がなく、俺は苦笑いしかなかった。
「さて、本題に入りましょう。この世界について沢山疑問を持ち、それを解くためにここへ来ることは承知しています。その前に、こちらから幾つ質問してよろしいですか」
「運命」という言葉は信じないけど、自分の心が見透かされたようで、不気味な感じだった。抑揚のない口調から感情は読めなかった。俺は渋々と頷いた。
「あなたはここへ来る前にずっと出口を探しているようですが、この世界はお気に召されなかったんですか?」
その質問に少し逡巡した後、頭を振った。
「不満や嫌いとかの感情はないと思う。ただ他の人が幸せそうに暮らしているところが羨ましくて、自分は居場所が見付からずイライラしていた。急ぐ必要がないと沢山言われたけど、体の内の衝動は俺を駆り立てていた。そのうち、俺が求めている物は橋の彼方にあると気付き、向こう側へ行くために出口を探していた」
「その結論の出処を聞いてもよろしいですか?」
少し意味不明な質問で迷ったが、少し考えて答えた。
「俺の住処に応接間があって、その壁の真ん中にあの始まりの橋の絵があった。その絵を眺めるといつも不思議な気分だった。どこか懐かしい感じがして、それに導かれて橋の方へもう一度行った。そこで気付いたのだ、自分の求めている答えは橋の彼方にあるって」
「逆という可能性は考えませんか?」
「逆?」
仮面コンビは無言で頷いた。
「しかし……」
「あなたの心は満たされておらず、ですか」
今度は俺が無言に頷いた。
「あなたがここでなさった全てに意味があります。それは例えあなたが自覚していなくとも」
「分からないね。俺は振り回されたってことか?」
仮面コンビ何かの合図のように、互いに顔を見合わせて、それからこっちに向き直した。
「この場所は特別で、去る人だけ踏み入れることが許されています。しかし自力でここまで辿り着けるあなたもまた特別です。あなたの求める答えは我々の口から言ってはいけません」
仮面コンビはソファーから立ち上がり、別室の扉に指さして言ったーー
「あなたは運命に導かれてここへ来ました。その真意を、ご自分で確かめてきてください」
あの先はユキが言っていた図書室のことだろうか。何も記載してない本ばかりと聞いていたが、果たして探す意味があるだろう。
再び仮面コンビを見たが、二人は使命を終えたように、ずっとあの扉を指さして、黙ったままだった。
ここに居る意味がなくなったと悟り、二人に感謝の意を込めて軽く辞儀して、一人であの部屋へ向かった。
図書室は大広間より少々暗い感じだった。本棚が沢山並んでいたせいだろう。図書室特有のかび臭いはなく、清冽な空気が漂っていた。
手前の本棚の三段目から本を取り出し、確認したが、やはり文字がなく、何のための本であるかさっぱり分からなかった。順を追って逐一確認していった。この膨大な本の海から、果たして心から求める一冊を見付けるだろうか。その中にある本を全部確認していくと思うと、気が遠くなりそうだ。それでも何も得られず帰ることは避けたかった。
意外なことに、三番目の本棚に文字の載っている本を見付けた。今まで見てきた本と同じく、表紙や背表紙に文字がなかったが、表紙をめくったらちゃんと文字があった。
新大陸を発見したが如く、興奮した気持ちでその内容を確認した。




