回想
一樹
抜け殻のように立ち尽くしていた彼女を見ていると、胸が切なくなってきた。
ニュースではすでに他の報道を流していたんだが、彼女はテレビの前から離れなかった。彼女の顔色がとても酷くて、目が虚ろになって、ただ静かに涙を流していた。
目の前に苦しんでいる彼女を何とかしてやりたいが、僕も事故のことでショックが大きかったので、あの場に釘付けされたように何一つ動きを取れなかった。
突然、テレビの画面がパット暗くなった。振り返ってみたら、リモコンを手の中に握っていた母はとても不快そうな顔でこっちを睨んでいた。
「一樹、戻りなさい」
怒りを秘めていた冷たい声で母は言った。
それを聞いて僕はとても腹が立った。美雪の家族があんな酷い事故に遭っても、母にとってはまるで他人事のように、少し思い遣りも見せてくれなかった。
人としてせめての情けを、とどこか淡い期待を持っていたが、今し方僕が甘かったとはっきり分かった。この家で美雪の味方でいてくれる人なんてもういない。僕しないないのだ。彼女に寄り添う人間なんて、こんな無力な子供一人しかいないのだ。
感情が色んな絵の具を雑に混ざったように、やがて淀んだ絶望と化して体中に広がっていく。そして絶望のおかげで少し冷静になった。
僕はしっかりと床を踏んで美雪の側に寄ってやや強めに彼女の手を握った。
「行こう、美雪」
彼女はただされるがままにダイニングに戻った。
反抗的な態度をとったことに機嫌を損なったか、母は苛立った目付きでこっちを睨んでいた。言葉はないが、怒りのオーラを纏っているように感じた。
その後は悪夢のような時間だった。美雪はぼうっと座ったまま、口に何も入れなかった。ずっと涙を流していた美雪を見て、母の顔色がますますどんよりとしていて、お婆さんは「縁起が悪い」とブツブツぼやいた。
あの後、僕は美雪を自室まで連れていった。彼女の側に座り、思い浮かんだのはとても虚しくて説得力のない言葉ばっかりで、結局何も言わずに、ただ無気力な彼女の手をしっかり握っていた。それ以外僕のできることは思い付かなかった。
心の傷を癒すのは至難なことである。あの頃の僕にとってなおさらだ。僕なりに必死に考えたが、これから出来るだけ彼女の側にいて世話をするという結論に辿り着いた。
しばらくして、美雪も落ち着くようになった。彼女は涙をそっと拭って、焦点の合わない目で天井をぼうっと見ていた。
ちょうどその時、ノックの音がした。それから母の声がやってきた。
「一樹、ちょっと出てきなさい」
「今忙しいから、後で」
僕は努めて落ち着いた声で言った。
「何?その態度は?私の話は聞けないと言いますの?」
母はの苛立ちは声を通して伝わってきた。
「今は聞けない。そんな気分じゃないから」
「なんて口を効くの?!あなた、その小娘のために私に逆らうわけ?!」
母の怒りは突然爆発してしまった。神経に障るような怒鳴り声に思わず竦んでしまった。結局、僕は母に逆らうことはできなかった。
嫌々美雪の部屋から出てきた僕は母の冷たい眼差しを浴びて、思わず強ばった。
「今から自分の部屋に戻りなさい」
「分かりました」
しょんぼりと答えて、美雪の部屋を後にした。
翌日、美雪は一日中部屋に閉じこもってご飯の時間になっても姿を見せなかった。彼女が心配で、彼女の部屋に行ってみた。
彼女は昨日とは同じように、虚ろな目で天井を見ていた。目が赤くてちょっと腫れてきた。たぶんその後、沢山泣いたんだろう。
「美雪、起きて。何か食べないと。昨日から何も食べていないんだろ?」
「食欲がないの」
何光年先から伝わってきたように、その声は弱々しかった。
「少しでもいいから食べましょう。このままじゃ体を壊すよ」
「それはそれで構わない」
心をちくちく痛むような言い方だった。
「それは自暴自棄だよ」
彼女の抱えた苦痛はどれくらいの物かは分からない。僕より彼女の方がずっと悲しんでいたんだろうけど、どんな辛い事があっても、生きるのを諦めるべきじゃないと僕は思う。
「皆もういなくなった。お母さんや光や晶、皆もう帰って来ない。私はここに捨てられた。いらない子になっちゃった。わたし、お母さん達と一緒に死んだほうがいいかな?」
「何をバカなことを言ってんだ?まだ僕がここにいるんでしょ?ずっと側にいて、独りにさせないと約束したんじゃないか?」
「そんなの嘘よ!お母さんだって、必ず迎えにくるって言った!でも、それはもう叶わないじゃないか?結局、わたしは置いてきぼりにされちゃうんだ。みんな嘘つきよ」
そうじゃないんだ、とその言葉が喉に詰まっていて、結局それを言えなかった。あの事故さえなければ、静流さんはきっと約束を果たしてくれるだろう。でも、今の彼女じゃ、その言葉で納得するわけがない。
「それじゃお前は僕を置いていくのか?お前もいなくなったら、今度こそは僕が独りになっちゃうよ。頼むから、そんな残酷なこと、しないでくれ」
「……」
黙り込んだ彼女の手をそっと握って、もう一度言葉をかけた。
「僕を独りにしないで」
彼女は答えることなく、そっぽを向いていった。
「一緒に生きて行くだって、いいことなんかないよ」
「そんなことないさ。いつか前のような幸せな日々が必ずやってくるから、それまでは二人で頑張って乗り越えていこう」
美雪はまた黙り込んだ。
「食べ物持ってくるから、待ってて」
部屋を出る前に、僕は振り返って美雪を見たんだが、彼女はまた虚ろな目で天井を見ていた。返事もしてくれなかった。
台所には先刻閑子お婆さんに頼んで作ったおにぎりが置いてあった。ラップを剥がして、それを美雪の部屋まで持っていった。
「これ、閑子婆さんに頼んで作ったんだ。味は墨付きだよ。さ、食べて」
しばらくしてから美雪は起きて、ゆっくりと口をあけて、ほんの一口食べた。食べてくれる事に嬉しく思った途端、美雪が急に手で口を押さえ、気分が悪そうだった。程なくしてさっき食べたばっかりの物を戻してしまった。何度も咳をしてから、彼女はまた泣き出した。
僕は慌てて戻した物を片付け、彼女に口を漱がせ、落ち着くまでずっと優しく背中を手で摩った。その後は少しミルクを飲ませた。幸い今度は戻しなかった。閑子お婆さんにお粥を作ってもらいたいのだが、残念なことに、彼女は買い物に出かけていた。やむを得ず先送りにした。
それから数日経って、夏休みが終わり、学校が始まった。その頃、美雪は少し落ち着くようになったが、精神状態はまだ極めて不安定だった。
登校の時も帰る時も僕がしっかり手を繋いでリードしなければならないし、授業の時はいつもぼんやりとしていた。急に泣き出したり、保健室に送られたこともあった。僕は何度か呼び出されて彼女の元へ赴き、落ち着くまで付き添っていた。そんな彼女に気を遣って、僕は彼女のクラスに編入され、彼女の世話をすることになった。
その頃、美雪は頻繁に悪夢にうなされていた。恐怖や不安で眠らなかった彼女はいつも枕を抱えて僕の部屋にやってきた。どんな夢かを聞いたことはあるが、結局一度も教えてくれなかった。怖い物や辛い物を思い出したくないというのが当たり前なのだから、僕はそれについて踏み込んだりしない。
さらに月日が過ぎて、少しずつではあるが、美雪は着々と元気になり、前よりも世話が焼けなくなった。そしていつの間にか、彼女が本に興味を持つようになり、光の残した本を読み始めた。彼女に影響されたか、元々読書好きではない僕も本を読み始めた。
それから美雪の性格はすっかり変わった。そんな彼女に思うところはなくはないが、物事がいい方向に転んでいくのが素直に嬉しかった。
でも、時々昔の彼女の無垢な笑顔を思い出して、とても恋しくなった。そういう時、僕はいつも思うのだ、いつになったら、その笑顔を取り戻せるだろうか。




