漣
一樹
家に帰って、台所からいい匂いがしてきた。ちょうど使用人が夕食の支度をしている時間だった。
「おかえりなさい」
近くの台所から声をかけられた。人良さそうな笑顔をしている老婆が出迎えに来た。彼女はうちに雇われる使用人で、閑子婆さんと呼ばれている。
閑子婆さんは三十年前からうちで働いてきて、祖父の代から世話になってきた。使用人と言っても、住み着きではなく、毎日自宅からうちへ来てお昼や晩ご飯を作り、月、水、金ごとに掃除しにくるのだ。もちろん、徒広い屋敷を一人じゃとても掃除しきれないから、任せられているのは今使っている部屋のみ、他の部屋の掃除は月に一度清掃会社に依頼し、専門業者にやってもらってきた。
普段それほど合う機会はないが、いつも笑顔が絶やさない彼女の印象は悪くなかった。こんな家で三十年も働いてきたのはそのおかげだろう。尊敬に値する。
美雪はその挨拶を無視して、玄関を上がった。
閑子婆さんは美雪に向かって再び「おかえりなさい」と言った。
「ただいま」
不本意ながら小声で返事した美雪の顔いつもより幾分和らいだような気がした。閑子婆さんのことは嫌いじゃなさそうだ。
「目を離して大丈夫?」
視線で台所のことを示唆し、軽く質問した。
「ジャガイモですから、少し離れても大丈夫ですよ」
「今日はジャガイモだね」
ジャガイモが好きというより、閑子婆さんの作ったジャガイモが好きだ。
「学校はどうでしたか?」
「相変わらず」
「そうですか」
一瞬、閑子お婆さんの顔に影が差した。それから、またいつも通り柔らかな笑顔に戻った。
「さあ、上がって。夕飯はもうすぐだから、鞄を置いてきてから手洗ってください。今日の晩ご飯は大盤振舞いですよ」
「はい」
暫くして、夕食は出来上がり、みんなは食堂に集まった。
おかずを皿に盛り付け、食堂まで運び終わったら閑子お婆さんはそのまま帰った。うちの食事担当とはいえ、同席で食べたことはなかった。もしそれが叶うなら、うちの食卓の雰囲気も少しは良くなるだろう。
「美雪、明日から学校が終わったらすぐ家に帰りなさい」
母は美雪を見るともしないで、ただ素っ気なくそう告げた。
美雪は暫く俯いて黙り込んで、それから小声で「はい」と返事した。
「なんで?」
思わず疑問をぶつかった。美雪にとって、ここは居心地のよい場所ではないから、いつも門限ぎりぎりまでは帰らない。母だって美雪が嫌いだからそれを黙認してきた。
「閑子もそろそろ定年ですから、代わりが必要です」
「それがどうしたというんですか?他の家政婦を雇って済む話でしょ?なんでわざわざ美雪に」
不満な気持ちが先走って思わず声を上げてしまった。
母は針より鋭い目付きで僕を睨んだ。その目はまるで「よくも私に向かってそんな口を叩いましたわね」と僕を問い詰めるようだった。
「美雪はいつれ嫁ぐから、今のうちに家事を覚えておいて損はないでしょう。これも花嫁修業の一環です」
母は冷たくそう言った。言葉と反して、美雪への思い遣りは感じられない。
「これから掃除や料理を学んで、閑子が定年になったらあなたが彼女に代わって、家事をやってもらいます」
反論の余地がない母の言葉に、美雪はただ軽く頷いて「はい」と答えた。でも、彼女の顔はいつもより曇っていた。
「それはあまりにも理不尽です。美雪は家族の一員です。使用人なんかじゃない。大体学校もあるんでしょ?掃除なんか無理です」
母の厳しい眼差しに怯まず、僕はそう言った。
「もちろん、掃除は一部だけ美雪にやってもらって、閑子が定年になった後に他の家政婦に任せますわ。全て任せるとは言わないですが、居候の分働いてもらうのが当然ですよね?」
「居候なんかじゃない。美雪は養子です。立派な井野家の一員です!」
美雪が未だに受け入れてもらえないという事実に悲しさと怒りを覚えた。無駄だと分かっていても、我慢できず反論した。
「これは決定事項です。これ以上無駄な口を叩かないで」
母は有無言わせずそう言った。
まだ文句を言いたいが、これ以上何を言っても無駄だと分かって、黙ってそれを受け入れるしかなかった。未だに無力感は僕に付き纏って、大人が決めたことに抗う術もなく、それに従うしかないことはとても悔しかった。
いつになって、僕は自分の意思で進む先を選び、この無力感を振り払えるんだろう。
霞んでいる未来は霧の向こう側で姿を隠したように、僕は漠然として不安を抱えたままだった。




