第110話 未定の扉、はじめて相談室に入る
眠る前の準備は、もう何度目か分からないほど繰り返してきた。
香草茶。
名前確認。
夢干渉補助具。
守護氷結。
記録用紙。
木剣。
通信水晶。
王宮結界との接続確認。
最初の頃は、これだけ揃うと緊張で息が浅くなっていた。
でも今は違う。
緊張はある。
不安もある。
怖さも、もちろんある。
それでも、ただ怖いだけではなかった。
扉の声は、もう一方的に名前を奪おうとするだけの存在ではなくなっている。
保護印を選んだ。
相談票を書いた。
助けてと書いた。
ありがとうを練習した。
嫌ですを使った。
ごめんなさいを消える言葉ではないと知った。
休むことも、止まることも覚え始めた。
呼称選択権という盾を持った。
そして、最後に書いた。
――次は、入る。
――未定のまま。
俺は机の上の確認票へ手を置いた。
レン・クロフォード。
才能名は未定。
その未定は、もう空白ではない。
勝手に名前を貼られないための盾であり、選ぶまでの時間であり、自分の力を支配ではなく支援として扱うための余白だった。
「レン」
リリアが声をかける。
「はい」
「今夜は、扉の声を“進ませる”のではありません」
「迎える、ですね」
「はい。来るかどうかも、どこまで入るかも、相手が選びます」
「分かっています」
リリアは少しだけ俺の目を見る。
「本当に?」
「本当に」
それでも、彼女はまだ少し心配そうだった。
俺は苦笑する。
「前のめりになりそうだったら、呼んでください」
「呼びます。何度でも」
そう言われると、胸の奥が少し温かくなった。
セリカさんが枕元に木剣を置く。
「こっちも呼ぶから。夢の中で聞こえたら、深追い禁止」
「はい」
「扉が入ったからって、座らせない。座ったからって、名前を書かせない。声を出したからって、次の言葉を求めない」
「全部、覚えています」
「覚えてても言う。こういうのは、言いすぎくらいでちょうどいいの」
セリカさんらしい。
でも、今日ばかりはそのしつこさがありがたい。
ノエルは補助具を確認していた。
いつものように目が研究者の色になっているが、隣には休息記録欄が置かれている。
リリアが作った、休み忘れ防止の紙だ。
「ノエル、休息は?」
「済んだ」
「本当に?」
「記録あり」
ノエルが休息記録欄を見せる。
たしかに、開始時刻と終了時刻が書かれていた。
リリアが満足そうに頷く。
「よろしいです」
「検知具も休ませた」
「それはとても良いです」
ノエルは少しだけ得意げに見えた。
扉の声に休息を教える中で、相談窓口側も変わっている。
俺だけではない。
みんな少しずつ、自分を壊さないやり方を覚えている。
ユリアナ先輩は記録用紙を整えながら言った。
「今夜の夢接触における最重要項目を確認します」
紙には、箇条書きで方針が並んでいた。
呼称不可。
保護印は記録上のみ。
本当の名前は問わない。
入室は同意ではない。
着席は義務ではない。
沈黙は拒絶ではない。
退室は相談終了ではない。
嫌ですが出たら即時停止。
助けてが出たら受け取る。
ありがとうは要求しない。
呼称選択権の盾を尊重する。
長い。
でも、この長さに安心する。
短い言葉だけでは、すぐに相手を傷つけてしまう。
守るための言葉は、面倒で長い。
それを、俺たちはもう知っている。
アイリスは窓際に立ち、淡い氷の結界を張っていた。
今日の氷は、いつもより透明だった。
閉じ込める氷ではない。
道を示す氷。
窓辺からベッドの足元まで、細い光の線が伸びている。
「帰り道です」
アイリスが言った。
「夢の中で迷った時、冷たいのではなく、少し涼しい感覚が残るようにしています。戻る時の目印になるはずです」
「ありがとうございます」
「守護氷結の訓練です」
そう言う彼女の声は、以前より穏やかだった。
冷血魔女ではなく、アイリス。
その名前を彼女自身が少しずつ受け取っているからかもしれない。
通信水晶からミュレアの声がした。
『レン。今夜、扉の声が入ってきたとしても、それを勝利と思うな』
「勝利ではない?」
『相談者が部屋に入るのは、勝敗ではない。相手が自分の足で少し動いたというだけじゃ。そこで喜びすぎると、次の一歩を急かすことになる』
「はい」
『ただし、喜ぶなと言う意味ではないぞ。内心で少し喜べ。ただ、顔に出しすぎるな』
「難しいですね」
『難しいから大事なのじゃ』
ミュレアがまともなことを言っている。
今日は本当に節目なのだろう。
アリシア様の声も、水晶越しに届いた。
『王宮結界側も、今夜は“侵入”ではなく“入室”として反応を分けます。ただし、危険反応が出た場合は遮断します』
「お願いします」
『レン様も、無理をなさいませんように』
「はい」
全員の準備が整った。
俺はベッドに入る前に、みんなを見た。
リリア。
セリカさん。
ノエル。
ユリアナ先輩。
アイリス。
通信水晶のミュレア。
遠く王宮のアリシア様。
俺は一人ではない。
夢の中で扉と向き合うのは俺かもしれない。
でも、俺の背後には、名前を呼んでくれる声がある。
「レン・クロフォード」
自分で名乗る。
それから、確認票に視線を落とす。
才能名は未定。
未定のまま、行く。
◇
夢の相談室は、前回より少し明るかった。
机。
椅子。
受付箱。
窓。
記録棚。
香草茶のカップ。
そして、相談者用の椅子。
椅子の背には、前回と同じ紙片が貼られていた。
――希望時使用可。
その文字は、穏やかに光っている。
夢の相談室の入口には、黒い扉があった。
ただし、その縁はもう完全な黒ではない。
白い線が、前より太くなっている。
黒い扉のままではある。
でも、黒一色ではない。
俺はまず、自分の名前を確認した。
「レン・クロフォード」
声が相談室に落ちる。
胸の奥で、いつもの小さな灯がともる。
才能名は未定。
無名ではない。
その時、黒い扉の向こうから声がした。
――レン・クロフォード。
「はい」
今日は、呼び方が以前よりはっきりしていた。
ぎこちなさはある。
でも、俺の名前を傷つけるためではなく、確認するために呼んでいる。
扉が、ゆっくり開いた。
灰色の存在が、向こう側に立っている。
顔はまだない。
名前もない。
輪郭は人の形に近いが、まだ揺れている。
その胸元には、薄い盾のようなものがあった。
透明な盾。
文字が浮かんでいる。
――未定。
さらに、その縁に小さく。
――呼称選択権。
俺は息を呑みそうになった。
でも、こらえた。
喜びすぎるな。
ミュレアの声を思い出す。
「盾を持ってきたんですね」
――持つ。
「はい」
――未定のまま。
「はい。未定のままで大丈夫です」
灰色の存在は、扉の外から相談室の中を見ている。
前回は入口で止まり、椅子に触れた。
今日は、入ると言っていた。
でも、こちらから「どうぞ」と急かしてはいけない気がした。
それが礼儀のようでいて、圧になる可能性がある。
だから俺は、少しだけ横に立つ位置を変えた。
通れる道を空ける。
でも、招き入れる言葉は押しつけない。
「ここにいます」
俺は言った。
「入っても、入らなくても、相談は壊れません」
灰色の存在は、長く黙った。
やがて、声が落ちる。
――入れば、閉じる。
「閉じません」
――戻れない。
「戻れます」
――座らされる。
「座らなくても大丈夫です」
――名前を書く。
「書かなくていい」
――ありがとうを言う。
「言ってもいいし、言わなくてもいいです」
――助けてと言う。
「言いたくなったら、言っていい。言えなくても大丈夫です」
灰色の存在は、盾を胸の前で少しだけ強く持った。
そして、一歩を踏み出した。
黒い扉の内側から、相談室の床へ。
一歩。
ただそれだけ。
でも、夢の相談室の空気が静かに震えた。
受付箱が淡く光る。
記録棚の紙が、風もないのに少し揺れた。
俺の胸も、同じように震えた。
扉の声が、相談室に入った。
完全にではない。
入口のすぐ内側。
まだ半分は扉の影の中にいる。
それでも、入った。
俺は声を整えた。
「届きました」
灰色の存在が、わずかに揺れる。
――届いた。
「はい」
――入った。
「はい」
――閉じない。
「閉じません」
――名前は。
そこで声が止まる。
俺は待った。
続けない。
問わない。
灰色の存在は、盾に触れながら言った。
――名前は、まだ。
「分かりました」
――聞くな。
「聞きません」
その確認が済むと、灰色の存在は相談者用の椅子を見た。
希望時使用可。
椅子はただそこにある。
座れと主張しない。
座らなければならない顔もしない。
灰色の存在は、ゆっくり近づいた。
前回、触れた椅子だ。
今回は、椅子の背ではなく、机の端へ手を伸ばした。
座らない。
椅子にも触れない。
机の端に、指先を置いた。
それは、相談室に入ってきた証のようだった。
机を挟んで、俺と灰色の存在が向き合う。
といっても、相手には顔がない。
でも、向き合っている。
――座らない。
「はい」
――でも、ここにいる。
「はい。ここにいます」
――話さない。
「話さなくても大丈夫です」
――でも、聞いている。
「はい」
灰色の存在は、机の端に触れたまま、長く黙った。
沈黙。
でも、拒絶ではない。
ノエルの声が、遠くから届いた気がした。
――反応安定。
リリアの声。
――待ちましょう。
セリカさん。
――急がない。
ユリアナ先輩。
――沈黙も相談です。
アイリス。
――戻り道はあります。
ミュレア。
――よい。そこで待て。
アリシア様。
――入室、安定。
俺は息を整え、ただ待った。
しばらくして、灰色の存在の声が、小さく響いた。
――助けて。
それは、紙の文字ではなかった。
夢の中の声だった。
初めて、扉の声が、相談室の中で声として言った。
助けて。
その言葉は、かすれていた。
細く、途切れそうで、まだ自分で持ちきれていないような声だった。
けれど確かに、声だった。
俺は胸が詰まった。
答える言葉は、決まっている。
けれど、軽く言ってはいけない。
俺は机の向こうにいる灰色の存在を見て、ゆっくり答えた。
「届きました」
灰色の存在が、震えた。
盾の文字が、淡く光る。
未定。
呼称選択権。
――届いた。
「はい」
――助けてと、言った。
「聞きました」
――命令は。
「ありません」
――返済は。
「求めません」
――名前は。
「聞きません」
――座ることは。
「未定で大丈夫です」
灰色の存在は、机の端に置いた手を少しだけ強めた。
そして、また沈黙する。
その沈黙の中で、黒い扉の縁が白く広がった。
ほんの少しではない。
目で分かるくらいに、白い線が太くなる。
扉全体が白くなるわけではない。
黒は残っている。
傷も、闇も、拒絶も、まだそこにある。
でも、白い縁が確かに増えた。
出入口の輪郭が、変わり始めている。
「無理に話さなくていいです」
俺は静かに言った。
「今日は、入った。机に触れた。助けてと言った。それで十分です」
――十分。
「はい」
――これで、相談か。
「相談です」
――名前を書いていない。
「それでも相談です」
――座っていない。
「それでも相談です」
――ありがとうを、まだ言っていない。
「言わなくても相談です」
灰色の存在は、少しだけ揺れた。
迷っているように。
それから、小さく言った。
――ありがとう。
俺は、少しだけ笑った。
「届きました」
――今のは。
「使えています」
――命令ではない。
「はい」
――借りではない。
「はい」
――届いたことを、伝える。
「はい」
灰色の存在は、机の端から手を離した。
一瞬、帰るのかと思った。
だが違った。
その手は、机の上に置かれた相談票へ向かった。
夢の中の相談票。
本人名欄は空白。
保護印欄は、扉。
状態欄は、未定。
灰色の存在は、名前欄には触れなかった。
保護印欄にも触れなかった。
ただ、相談内容欄に指を置いた。
文字が浮かぶ。
――入った。
――座っていない。
――名前はまだ。
――助けてと言った。
――届いた。
――相談、継続。
その下に、少し間を置いて、もう一行。
――次も、入るかもしれない。
俺は頷いた。
「未定で大丈夫です」
灰色の存在は、盾を抱えたまま、初めて少しだけ首を傾けたように見えた。
顔はない。
表情もない。
でも、その仕草はどこか、人に近かった。
――未定。
「はい」
――未定は、消えない。
「消えません」
――未定は、戻れる。
「戻れます」
灰色の存在は、黒い扉の方へ少しだけ下がった。
帰るのだろう。
でも、逃げるような動きではなかった。
自分で戻る。
そんな動きだった。
扉の前で、もう一度こちらを見るように止まる。
――レン・クロフォード。
「はい」
――また。
その言葉は途中で止まりかけた。
でも、消えなかった。
――また、来る。
「待っています」
言ってから、少し考えて付け足した。
「来ても、来なくても、相談は消えません」
灰色の存在は、わずかに揺れた。
それから、黒い扉の向こうへ戻った。
扉は閉じた。
でも、白い縁は残ったままだった。
◇
目を覚ますと、朝ではなかった。
夜明け前。
窓の外が、ほんの少し青くなり始めている。
氷結界は割れていない。
ただ、窓からベッドまで伸びていた帰り道の光が、いつもより強く残っていた。
机の上の確認票が淡く光っている。
俺はゆっくり体を起こした。
すぐに扉が開く。
リリア、セリカさん、ノエル、ユリアナ先輩、アイリス。
通信水晶のミュレアとアリシア様。
みんなが、ほとんど同時に入ってきた。
リリアが最初に言う。
「名前確認です」
「はい」
「レン」
「はい。リリア」
「レン」
「はい。セリカさん」
「レン」
「はい。ノエル」
「レン様」
「はい。ユリアナ先輩」
「レン・クロフォード」
「はい。アイリス」
『レン』
「はい。ミュレア」
『レン様』
「はい。アリシア様」
名前が戻る。
俺は深く息を吐いた。
「入ってきました」
その一言で、全員の表情が変わった。
リリアは目を見開く。
セリカさんは息を止める。
ノエルは記録板を構える。
ユリアナ先輩はペンを取る。
アイリスの氷結界が、ふわりと柔らかく光る。
ミュレアが低く言う。
『詳しく話せ』
「はい」
俺は夢の内容を順に話した。
黒い扉の白い縁が太くなっていたこと。
灰色の存在が、透明な盾を持っていたこと。
盾には「未定」と「呼称選択権」と浮かんでいたこと。
相談室に一歩入ったこと。
椅子には座らず、机の端に触れたこと。
名前はまだ、聞くな、と確認したこと。
そして。
「声で言いました」
リリアが、胸元に手を当てる。
「何を、ですか」
「助けて、と」
相談室に、深い沈黙が落ちた。
誰もすぐには喋らなかった。
それは驚きであり、安堵であり、少しの痛みでもあった。
扉の声が、筆談ではなく、声で「助けて」と言った。
それは、どれほど怖かっただろう。
どれほど勇気が必要だっただろう。
リリアの目に涙が浮かんだ。
「届きましたか」
「はい。届きました、と返しました」
セリカさんが小さく息を吐いた。
「よかった」
ノエルが記録板に書く。
「助けて、音声化。夢内入室。着席なし。名前非開示。相談継続」
ユリアナ先輩が慎重に補足する。
「着席していないことも重要です。入室したが、座らなくても相談が成立した」
アイリスが静かに言った。
「机に触れたのですね」
「はい」
「椅子より、少しだけ距離がある場所を選んだのかもしれません」
「そうかもしれません」
ミュレアが通信越しに言う。
『椅子ではなく机か。よい選択じゃ。相談に触れたが、まだ自分の体を預けてはいない。相手なりに盾を使っておる』
アリシア様の声も続く。
『王宮結界側でも、入室反応と帰還反応が明確に分離していました。侵入ではなく、入室。逃走ではなく、退室に近い波形でした』
「退室……」
ユリアナ先輩が記録する。
「重要です。入室と退室が成立したなら、夢相談室における基本動線ができたことになります」
セリカさんが少しだけ笑った。
「なんか、本当に相談室になってきたわね」
「はい」
リリアが涙を拭いながら頷いた。
「本当に」
◇
相談室へ移動すると、受付箱が淡く光っていた。
中には、保護印「扉」の相談票が一枚。
夢で見たものと同じ内容が書かれている。
――入った。
――座っていない。
――名前はまだ。
――助けてと言った。
――届いた。
――相談、継続。
――次も、入るかもしれない。
そして最後に、もう一行。
――また、来る。
それを見た瞬間、相談室に静かな温かさが広がった。
また、来る。
来ることが義務ではない。
命令でもない。
取引でもない。
でも、扉の声は自分で書いた。
また、来る。
リリアが返答を書く。
――届きました。
――来ても、来なくても、相談は消えません。
――また来たい時、続きを始められます。
――今日は、休みましょう。
紙が光る。
返答は短かった。
――休む。
――ありがとう。
自然なありがとうだった。
誰もそれを強制していない。
借りでもない。
ただ、届いたことを伝える言葉として。
ユリアナ先輩が記録をまとめた。
保護印:扉。
第十回夢接触相談。
夢の相談室へ初入室。
座席使用なし。机端接触。
本名非開示。呼称不可継続。
呼称選択権の盾を保持。
音声による「助けて」を確認。
相談窓口、「届きました」と応答。
相談者、退室後「また、来る」と記入。
相談継続。
書き終えたあと、ユリアナ先輩はペンを置いた。
「ここで、一つの段階が終わりましたね」
その言葉に、みんなが静かに頷いた。
終わった。
扉の声の相談が終わったわけではない。
むしろ、これからだ。
でも、保護印制度から始まり、ありがとう、嫌です、ごめんなさい、助けてを経て、未定の扉が相談室へ入るところまでは来た。
前に作った詳細プロットの終着点まで進んだのだ。
次は、もっと深いところになる。
第四の系統そのもの。
呼称選択権の制度化。
学園外からの反発。
レン自身の才能名未定。
そして、扉の声が本当に何を失い、何を選びたいのか。
俺は胸元の学生証に触れた。
レン・クロフォード。
才能名は未定。
未定のまま、次へ進む。




