リネアとエリオス再び
帝国の城を出たあと、リネアはしばらくどこへ向かうでもなく歩いていた。
城壁の外側は、帝国内というより「帝国の影」だった。
村はある。人もいる。生活もある。
だがどこか、音だけが一段遅れている。
世界そのものが、ほんのわずかにズレている。
リネアは気づいていた。
この場所もまた、何度も見たことがある。
そしてそのたびに、自分はここから“いなくなっている”。
「リネア」
呼ばれた声がした。
振り向く前に分かった。
それでも、振り向かずにはいられなかった。
エリオスが立っていた。
王国でもないく帝国でもない、ただこの世界の“境界の外側”から、迷い込んだように。
リネアは息をのんだ。
「どうして……ここに」
エリオスはすぐには答えなかった。
その目は、彼女を見ているようでいて、少し違う何かを見ていた。
重ねられた無数の“リネア”の残響。
「君を探していた…ずっと」
その言葉は、軽くはなかった。
むしろ積み重なりすぎて、重さだけが残っている。
リネアは一歩後ろに下がる。
「どうやって……ここまで」
エリオスは微笑もうとして、うまくできなかった。
代わりに、静かに言う。
「代償を払っている」
その瞬間、空気が変わった。
帝国でも王国でもない、さらに別の気配。
「俺は……君を覚えていられる」
「その代わり、俺は少しずつ“俺”ではなくなっていく」
リネアの胸が締めつけられる。
「どういうこと……?」
エリオスはゆっくりと視線を空へ向けた。
そこには何もないはずなのに、彼は“何か”を見ていた。
「この世界には、さらに上位の存在がいる」
「君が“世界の心臓”なら、その上には“世界を見ている意志”がある」
「俺はその依代だ」
リネアは言葉を失う。
夫は続ける。
「君が何度死んでも、俺が覚えているのは偶然じゃない」
「それは“観測”されているからだ」
「俺の記憶は、俺のものじゃない。…それは、この世界の上位存在が“継続を観測するための媒体”だ」
リネアの足元が揺れる。
「じゃあ……あなたはずっと」
「そうだ」
夫は静かに頷いた。
「君が生まれるたびに、君が死ぬたびに」
「俺はそれを見せられてきた」
「愛しているという感情さえ、どこまでが俺のものか分からない」
その言葉は悲しみというにはあまりにも疲れ果てているようだ。
リネアは気づいてしまう。
この人は救われていないのではない。
“救われることを許されていない存在”なのだと。
「じゃあ私は……あなたを壊しているの?」
エリオスは首を振る。
「違う」
「君はただ、選んでいるだけだ」
沈黙。
遠くで帝国の鐘が鳴る。
王国との境界戦争の合図。
この世界は相変わらず続いている。
誰かを犠牲にしながら。
リネアは小さく息を吐いた。
「私はまた、選ばなきゃいけないのね」
エリオスは静かに答える。
「君はずっとそうだ」
その言葉に、リネアは初めて気づく。
自分は“選んでいる”のではない。
“選ばされる存在” なのだと。
帝国は終わりを望む。
王国は維持を望む。
皇帝は循環を壊そうとする。
そしてエリオスは、それを“記録し続ける”。
その全ての上に、さらに“何か”がいる。
リネアは空を見上げた。
そこには何もない。
けれど確かに、“見られている気配”だけがあった。
「ねえ」
リネアは静かに言った。
「その上の存在って、何を見てるの?」
夫は少しだけ間を置いた。
「分からない」
「ただ一つだけ確かなのは」
「君が選ぶ限り、この世界は続くということだ」
リネアは目を閉じる。
その瞬間、彼女の中で何かが静かに固まる。
――ならばこれは、罰でも祝福でもない。
――観測される世界の中で、“選び続ける役割”なのだ。
目を開けたとき、リネアの視線は、世界は、もう揺れていなかった。
「私は……行くわ」
その言葉は、誰に向けたものでもない。
ただ、世界そのものに向けた宣言だった。




