第10話
寝台の紗布に目をつけると、それをつかんだまま倒れ込んだ。繊細な紗布は破流姫の重さに耐えきれず、痛々しいほどの苦痛の叫びを響かせて、無残に裂けた。
破流姫は寝台の上で両手足を伸ばし、一息ついた。
ひとしきり暴れて気も済んだが、心地よい疲労感も体中を巡って気分が晴れた。
もう一度眠ろうかと上掛けを引っ張り上げたとき、扉を叩くような音が聞こえた。
はっとして扉を振り返って見た。
音も立てなかった扉を、誰かが軽く叩いたようだ。
無視と無言を貫いていた扉をじっと見つめていると、やはり小さな音を立てた。そして取っ手もゆっくりと動いた。
破流姫は扉に背を向け、寝たふりをして誰が入ってくるのか様子を窺った。
そっと扉が開かれるのを、目の前の窓が映している。
入ってきたのは侍女と思われる若い女性だった。両手に大きな箱を抱え持っている。
侍女は部屋に一歩入り、中の惨状を目の当たりにして息を呑んだ。しばし呆然と眺め、それからそばで倒れている小タンスに恐る恐る近寄り、屈みこんでじっくりと見た。
あちこちにつけられている生々しい傷が、どうして、どうやってついたのか、侍女の想像力で何とか答えを出そうとしているようだが、無駄な努力だろう。
諦めたのか、不可解そうに眉根を寄せたまま顔を上げた。部屋をゆっくりと見回し、破流姫の眠る寝台に目を止めた。柔らかな紗布を破いただけの、比較的被害が少ない状態である。
寝台の上に破流姫の姿を見つけると、侍女は飛び散っているものを避けながら近づいてきた。
上から覗き込まれ、慌てて目を閉じた。侍女は寝たふりに気づかないのか、小声で破流姫を呼んだ。
破流姫は動かない。
聞こえはしたが、無視していた。
再度耳元で呼ばれたとき、少しだけ振り返って横目で見た。
侍女はビクリとして一歩引いたが、次には無理に笑顔を作って言った。
「おはようございます、姫様。ヒール様がお会いしたいそうですので、こちらにお着替えください」
破流姫は起き上がろうともせず、侍女を睨みつけて不機嫌に言った。
「誰が?」
低い低い、獣の唸り声のようだった。
それは侍女に芽生えたわずかな恐怖心を刺激し、大きく膨らませた。無理に作った笑顔も凍りついて砕け散った。目の前の人物は、もしや破流姫の偽物、地の底から来た悪魔ではないか、と現実逃避を図るほど怯えた。
ひと睨みで射竦め、恐怖を与える姫君など、侍女のまだ浅い人生の中には存在しなかったからだ。
お互い、無言で見つめ合った。
と言うよりも、破流姫は鋭い眼力で侍女を竦み上がらせ、侍女は震える膝で何とか立っているのが精一杯だった。
破流姫はおもむろに半身を起こした。侍女は反射的によろけながら数歩後退った。
正面から見据える破流姫は不機嫌この上ない表情を張り付かせていたが、それでも評判通りの美しさだと、侍女の脳裏をちらりと掠めた。しかしその美しさも、悪魔であれば納得が行く、とも思った。
上級の悪魔という存在は、とかく美しいものだとどこかで聞いたことがあったからだ。
もしも悪魔であったなら、命の保証はないも同然だ。この部屋を荒らしたと思われる計り知れない力で無慈悲に殺されてしまうだろう。
しかし本物の破流姫だとしたら? これほどまでに恐ろしい雰囲気をまとわせているのだから、何かが逆鱗に触れたとして無残に処刑されても不思議ではない。
どちらにしても無事では済まない……。
竦み上がっている侍女に遠慮なく不機嫌をぶつけて、破流姫がもう一度訊いた。
「誰が会いたいって?」
射殺すような鋭い眼差しに低く凄味のある声が、さらに侍女を怯えさせる。
侍女は口元を震わせ、消え入るような小さな声でようやっと答えた。
「ヒ、ヒール、様……」
破流姫は侍女をじっと見据えた。
頭の中で何度も名前を繰り返し、ヒールという人物を思い出そうとしていたのだが、侍女は蛇に睨まれた蛙よろしく、生きた心地もせずに破流姫をただ見つめるだけだった。
結果、思い出すまでには至らなかった。
「知らん」
破流姫は簡潔に答えた。
人の名前もろくに憶えない破流姫の記憶に留まるには、よほど目立たなければ難しい。それでも名前と顔が一致するのは珍しいのである。
破流姫が答えても、侍女は何の反応も見せなかった。破流姫を見つめて固まっているので、立ったまま気を失ったように見えた。
破流姫が寝台から降りて侍女の傍らに立つと、侍女は引きつったような声を上げて、手に持った箱を抱き締めてくずおれた。カタカタと見てわかるほどに震え、まるで恐ろしい化け物と対峙しているかのように怯えていた。
さすがの破流姫も、その怯え様にはむかっ腹が立った。
被害者はこちらなのだ。夜中に攫われ、妙な部屋に監禁され、今度は着替えてどこかへ出向けと指示される。怯えるのは侍女ではなく自分のほうだ。もっとも、怯えるようなか細い神経など持ち合わせていないが。
せっかくひと暴れして気が晴れたのに、この侍女のせいでまた苛立つ。殴ってやりたい衝動に駆られたが、さすがにそれは可哀相かと、箱を抱き締めて震える様子を見て思った。
破流姫は頭をガシガシと掻いて、大きなため息とともに意味不明な叫び声まで発した。
腰が抜けてへたり込んでいる侍女は、慄いて肩を震わせた。
破流姫の細く白い手が侍女に向かって伸ばされた。
髪の毛を鷲掴みにして引きずり回すのか、首を掴んで締めつけるのか、はたまた刃物のような爪で体を切り刻むのか。
侍女は避けることも逃げることもできず、ただほっそりとした悪魔の白い手が迫ってくるのを見ているしかなかった。
しかし破流姫の手は侍女の目の前で翻り、下へ落ちた。
侍女が縋って抱き締めている箱の中身を掴んだ。蓋のない大きな箱には、洋服らしき淡い色合いの布の塊が見えていた。
両手で広げると、品よく且つ可憐なドレスだった。
若草のような淡い緑色で、甘さを抑えた上品さがうかがえる。程よく開いた胸元には同じ色合いのレースが縫い付けられている。肩は丸く膨らみ、長い袖は編み上げになって腕に沿うように細身だ。スカート部分はフリルを何段か重ねて作られ、上を薄布で覆い、所々に小さな花模様の刺繍を散らしてある。腰には共布で大振りのリボンが結んであった。
質が良いのは見て取れる。が、こんな可愛らしい洋服を着るのは子供のうちだけだ。
破流姫はとうに着飾ることをやめ、動きやすい洋服を好むようになった。というのも、剣を振り回すには可愛らしい洋服は不向きだからだ。時と場合によって姫らしく装うこともあるが、さすがに好みはうるさかった。
「こんなものを着ろと言うのか?」
広げて見せるその洋服は、侍女の目には素晴らしく美しく、上品で、尚且つ可愛らしく見える。美しい破流姫には良く似合うと思ったし、自分でも着てみたいと思うほどだ。だが目の前の、悪魔なのか破流姫本人なのかわからない人物は、好みも一層変わっていて、侍女なんかでは想像もつかない美しい衣装を身にまとうのかもしれない、と思った。
「お前の趣味か?」
問われて首を横に振る。
「じゃあ、お前の主人の趣味か?」
頷く。
洋服屋を何人も呼びつけて、美しい姫に相応しい服を何枚も作らせたのは、確かにここの主人、ヒールである。その中の一枚を、選ぶでもなく選んで持ってきたのは自分であったが。
「気に入らん」
「で、では、他のお召し物を……」
「いらん。着ない」
「そ、それでは、ヒール様にお会いすることが……」
「何で私がわざわざ出向いてやらねばならないんだ? 人を攫って閉じ込めて、その上こんな服に着替えて会いにこいだと? 何様のつもりだ、図々しい。用があるなら自分から出向いてこいと言え」
破流姫は忌々しそうにそう言い、侍女に向かって洋服を放り投げた。それを頭から被って、侍女は途方に暮れた。
侍女の目下の使命は破流姫を着替えさせ、主人の元へ連れて行くことだ。それがこれほどまでに難しい仕事だったとは夢にも思わなかった。噂に聞く破流姫のお世話をする、それだけで舞い上がっていた自分の愚かさと不幸を大いに嘆いた。
だがそれ以上に、気になる言葉が耳に残った。
「あ、あの、攫った、とは……」
寝台の上で引っ繰り返っている破流姫は、侍女を横目で見て言った。
「お前の主人がな。頭が悪いな。ただで済むわけがないだろうに」
どこか他人事のように言ってはいるが、侍女には天地が引っ繰り返るような衝撃だった。
自分の仕える主を慕って、世間に名高いあの破流姫が城を飛び出し、こちらに身を寄せたのだと聞かされていた。
何と素敵で、何と美しい恋物語かと、自分のことのように胸を高鳴らせていた。それほどまでに恋い焦がれる人が自分の主であることにも鼻が高かった。そして身近で破流姫の姿が見られるのだと、浮かれてもいた。自分がそばで世話をするよう言いつかったときは、舞い上がって眠れないほどだった。
それらがすべて音を立てて崩れ落ちて行った。
夢を見ていたのだ。侍女として憧れる甘い夢を。
そして今は悪夢を見ている。
破流姫だか悪魔だかわからない美しい女性を前に怯え震え、自分の主が破流姫とされる人を攫ったという告白に呆然とする。
よもや自分がそんな不運に見舞われるなど、つい先ほどまでほんのわずかも思ってもみなかった。また、思えるはずもなかった。
侍女にはもう、何が真実なのか区別がつかなくなっていた。
そんな侍女に、追い打ちをかけるように破流姫は続けた。
「死ぬほど後悔させてやる。泣いて許しを乞えばいい。そんなことぐらいじゃ許さないがな。命乞いをしても許さない」
侍女はそれを聞いてゾッとした。やはりこの美しい女性は悪魔なのだと確信した。
深窓の姫君が、ましてや噂に聞く破流姫がこうまで恐ろしい言葉を言えるだろうか。自分ですらそんな発想はできない。




