06
ユーリが帰ってきたと叫ぶ声は、それを何度も繰り返しながら段々と小さくなっていった。
「帰ってきたか」
部屋に落ちた沈黙を低い声で破り、フィリアスは秋の方へ視線を寄こした。フードを被った頭のてっぺんから始まった視線は秋の足で止まる。
「……異世界の人間は靴を履かないのか」
慌てて自分の足を見下ろした秋は、高校の玄関で脱ぎ捨ててからずっと靴下だけだったのを思い出した。何か色々ありすぎてすっかり忘れていた。
「……私が偶然履いてないだけです」
「そうか」
フィリアスは再び祭壇の上部を開くと、これまた古びて色褪せたブーツを取り出した。コート、短剣に続いて今度はブーツ。まるで何も持たない異世界人が来ることを見越していたかのように何でそんなにいろいろとしまってあるんだといぶかしむ秋に、フィリアスはブーツをぞんざいに投げて寄こした。
「履け」
またもや放たれた命令口調に少しむっとしながらもしっかりと受け取った秋は、庶民の感でそのブーツがお高い物であることに気付いた。靴紐も色褪せてよれよれではあったが、ブーツ本体はしっかりと形を保っており、黒い、多分皮であるだろう素材は鈍いながらも光を放っていた。見直してみれば、コートも短剣もそこら辺で大量生産されているような物には見えない。
今更ながら気後れを感じたが、秋はそれに気付かないふりをして持ち主不明のブーツに足を入れた。こういう場合、気にした方が負けなのだ。
改めて自分の姿を気にした秋は内心でため息を吐いた。フィリアスから渡された物はどれもこれも形が中世っぽい。なんだか秋自身もコスプレをしているような気分になってきた。似合う似合わないは別として、同学年の子達に見られたら失笑を買いそうだ。だが、まあこれも非日常の延長だと考えれば大したことではない。信じられないが黒髪が邪悪として見られるのならこのコートがあるのは助かるし、短剣も持ってるだけで安心する。ブーツだって、歩きやすいから問題はない。驚いたことに、コートもブーツも秋の体のサイズにぴったりだった。
装備した秋の姿を見たフィリアスはまた口の端を上げて嫌な笑いを浮かべた。まともに見られる状態ではないだろうとは思っていたが、実際にこういう反応をされると腹が立つ。秋はフードの下からフィリアスを睨んだが、当の本人は気付いていないようだった。
「まあ、それなら大丈夫だろう。……まずはこの城から出るぞ」
城。
その単語に秋は耳を疑った。この世界に城があるのはいいとしよう。遺物と化してはいるが現代にも城はある。だが、さっきこの男は今自分達がいるのは敵国だと言わなかったか。何でわざわざ敵国の城中にいるのだろう。この男、実は偵察か何かだろうか。
そんな秋の疑問を知ってか知らずか、何も言わずにフィリアスはコートを翻した。何をするのかと見つめる秋の前で、祭壇の後ろの何も無いつるつるの壁に手を這わせる。すぐに、探していたものを見つけたのかフィリアスはにやりと笑った。そして、不意にその前でパンっという乾いた音を部屋に響かせて勢いよく両手を打ち鳴らした。
瞬間、ブチィっと何かが裂けるような音がし、同時にフィリアスの前で青い稲妻が弾ける。一瞬の後には、そこに頑丈な扉が出現していた。
……何はともあれ、出口は確保された訳だ。
フィリアスが言う通りここが本当に異世界なら扉の向こうには一体どんな光景があるのだろう。
秋は首を振った。何がどうなろうとどうにでもなれだ。
扉を前にして、フィリアスが秋の方を振り返った。
「一応聞いておくが、お前、それを使えるな?」
一瞬きょとんとした秋は、『それ』が秋が手に握る短剣のことだと理解し、小さく頷いた。
刃物の扱いは、小さい頃から兄にしつこい程教えられてきた。刃物といっても使っていたのは竹刀や木刀だったが、まあ短剣も秋にとっては似たような物だ。複数の男が相手で無ければ十分正当防衛はできると自負している。
「俺が先に行く。なるべくお前の方には兵が行かないようにするが、もし来た場合は……好きにしろ」
もう一度頷いた。兵とやらが後ろから秋を狙う可能性もある十分ある訳だ。好きにしろというのは、正当防衛を口実に思う存分暴れてもいいぜという意味なのだろう。生憎、秋は人相手にドカバキグシャっとやりたい程溜まってはいないが。
「見つかるまではなるべく隠れて行く。着いてこい」
何か見つかるのが前提のようだ。
が、秋が頷くのを確認する前に、フィリアスは扉を開いた。勢いよく飛び出した彼の後に秋も続く。
フィリアスの横から最初に見えたのは、前方に長く続く薄暗い廊下だった。同じ大きさの窓が左の壁にずっと並んでいる人気のない廊下。いつの間にか夜になっていたらしく、その窓から入る月の光に廊下がぼんやりと染まっていた。右手の壁には何も無く、大理石のような白は滑らかだ。真っすぐな廊下の先には小さく扉が見える。どうやらまずはそこへ向かって走るらしい。
何にせよ、見覚えのある物は何一つ無かった。もしかしたら学校の廊下かも、という秋の希望は砕け散った。
音を立てずに走るフィリアスの背中を見つめて、秋はつくづくと訳の分からないことになったと思う。殺されそうになり転送され、異世界だと言われた上にこの脱出劇。滅多なことでは驚きが顔に出ないと言われる秋だったが、正直な所これには頭が文字通りに破裂しそうだった。できるだけ早く兄と義姉のいる家に戻りたかったが、とりあえずはこの城とやらから出ないことにはどうしようもない。
二つの階段を下りて三つの扉を抜け、いくつかの廊下を曲がった時、初めて人の気配がした。目前にある扉の向こう、男の声がした。若い男の声と、しわがれた老年の男の声。扉を守る衛兵だろうか、木の扉一枚を隔ててわずかに会話が聞こえてくる。
「……リ様は失敗なさったと聞きました。とすれば、あの国が動きだすということなんですよね?」
「ああ、そういうことになるな」
「前王はあの国を落とそうと躍起だったと聞きます。ヴェルディア王もそうでしょうか?」
「光と影を統合させるというのは魅力的な話だからな。だが今回は難しいだろう。なにしろ悪魔の……」
その時不意に、フィリアスが何も言わずに扉を開いた。
あ、と思う間もなくバキッ、ドサッという音が秋の耳に届く。フィリアスの真後ろにいた秋には見えなかったが、音から判断するにどうやら二人を昏倒させたらしい。ひょっこりと顔をのぞかせると、案の定、テレビでしか見ないような鎧を着た男が二人、床に倒れていた。地面が絨毯に変わっていた為、倒れた音はあまり響かなかった。
それにしても何という早業。遺憾ながら秋は感嘆した。体術はできるし、どこを狙えば一発で人が気を失うかも分かる。けれどそれにしても、あまりにも速かった。扉を開いた瞬間に倒したようなものだ。
フィリアスが二人を扉の内側へ引っ張りこもうとした時、廊下を曲がった奥の方から複数の足音と声が聞こえてきた。それらはどやどやとこちらへ近付いてくる。
「……間が悪い」
表情を変えずに吐き捨てたフィリアスを手伝い、秋も兵士達を引っ張る。
鎧のせいで無駄に重い兵士をなんとか引っ張りこみ、扉を閉めた瞬間、はっきりとした声が聞こえた。
「おい、あの扉を守る衛兵はどうした」
威張った男の声。フィリアスが秋の隣で舌打ちをするのが聞こえた。
「え?あれ、おかしいですね。ちゃんと配属されてるはずなのに。……扉の中でしょうか」
「困るよ君。外を守る衛兵が中にいてどうするんだ」
「すみません、閣下。あ、わたくしが開けますゆえ」
集団を離れて、一人の足音が秋とフィリアスと昏倒した兵士達のいる扉へと近付いてくる。後ろを振り返るが、廊下を曲がれるまでが遠い。もちろんそこまでに逃げ込めそうな他の扉はなかった。
これは中々危ない状況なのでは?
とりあえずフィリアスを見上げれば、これ以上ない程の渋面を作っていた。けれどどこか楽しそうに青い目が輝いている。渋面のくせして野生獣が舌なめずりしているように見えるのはなぜだろう。
どうやらこの男、秋とは違って複数の人間相手にドカバキグシャっとやりたいくらいには溜まっているらしい。
「……強行突破ですか」
答えは分かっているような気がしたが一応聞いてみれば、一言、ああ、という簡潔な答えが返ってきた。