プロローグ
高校を卒業して、京都で一人暮らしを始める準備をしていた頃のことだ。
俺の名前は響。当時18歳の、高校球児上がりだ。
最後の夏はベスト16、悔しかったけど三年間やってきたことは決して無駄じゃないと思っている。
そんなこんなで高校まで丸坊主で追いかけていた白球を、
大学進学を機に手放すことにした。
何か新しいことを始めたくて、そこで目に留まったのは"音楽"だった。
高二の頃にハマったバンド系のアニメと、昔から音楽を聴くのが好きだったこと。
始める理由には困らなかった。
問題は、何の楽器をやるかだった。
決めかねたまま、引っ越しの準備で実家の荷物を整理していた時のことだ。
物置の奥から、埃を被った黒いハードケースが出てきた。
留め具を外し、蓋を開けると、カビ臭い匂いと共に姿を現したのは——
サンバーストのベースギター。
「あ、それお父さんのだよ」
隣で段ボールを畳んでいた母さんが、何でもないことのように言った。
お父さん。
その言葉が、妙に耳に残った。馴染みがないのだ、
当たり前のように口に出すには。
俺には父親がいない。生まれる前に、もう亡くなっていたらしい。
顔も、声も、笑い方の癖すら知らない。
実家のアルバムに数枚残っている写真も、どれもピントがぼやけていて、輪郭さえはっきりしない。
唯一形として残っているのが、このベースだった。
「弾いてたの?」
「うん、昔ね」
母さんはそれだけ言うと、また段ボールに向き直った。
それ以上は、続かなかった。
俺は埃を払い、ケースごと新居に持っていくことにした。
理由は自分でもよく分からない。ただ、なんとなく
——このまま物置に戻してはいけない気がした。
それから、一年と少しが経った。
大学に入って二度目の夏休みが、静かに終わろうとしていた。
蝉の鳴き声より、秋茜の羽音が目立つようになった頃だ。
軽音サークルに入って一年。それなりに楽しくやっている、とは思う。
とはいえ、俺はいまだに"初心者"という肩書きにあぐらをかいたままだった。
あのベースは6畳の部屋の隅に立て掛けてあるだけで、
練習と呼べるほどのことは、思い出したようにアンプに繋いで、
◯ッチリやら、◯とまよみたいな有名なフレーズを数回程度弾くことしかない。
冷めたフリをするのは得意だったが、
あの日弦を弾いた時の感触だけは、忘れられずにいた。
「響、今日暇なん?新京極行こうや」
サークルの友人、利來にそう誘われたのは、夏休み最後の週末だった。
断る理由もなく、俺は言われるがまま新京極商店街を歩いていた。
人混みと土産物屋の喧騒の中、
利來が「ちょっとこっち」と路地に入っていく。
その路地裏に、小さなレコードショップがあった。
「暇な時、たまに寄るんよ。掘り出し物があってさ」
利來の後をついて店に入ると、狭い店内には古いレコードとCD、そしてカセットテープが所狭しと並んでいた。俺は特に目的もなく棚を眺めていたが、その中の一本に、なぜか目が留まった。
ラベルもジャケットもない、無地のカセットテープ。
値札もついていない。
店主に聞くと、少し考えるような顔をして、
「ああ、それは……売り物やったかどうか」と、要領を得ないことを言った。
なんとなく気になった。
このテープの中身はなんなのかと。
それでも構わないから欲しい、と伝えると、
店主はなぜか少し驚いた顔をしてから、「持っていき」とだけ言って、
金も受け取らずに紙袋に入れてくれた。
妙な話だとは思ったが、深くは考えなかった。
家に帰り、部屋の隅に置きっぱなしだったベースを久しぶりに手に取った。
ついでに、カセットテーププレーヤーを出し、
買ってきた(もらった)カセットを差し込み、ヘッドホンに繋げる。
特に理由はない。
ただ、なんとなく——このベースと一緒に聴いてみたい気がした。
再生ボタンを押す。
流れてきたのは、ノイズだった。アナログテレビの砂嵐のような音の向こうに、
微かに、旋律らしきものが聞こえた気がした。
全てを統率し、曲全体のレベルを底上げするドラム、
俺を見ろと言わんばかりの技術の高さを感じるギター、
粗削りだが、リズムキープが上手く、ここぞという時に魅せるベース。
そんな音の断片が、確かに聞こえた。
——イントロ部分だろうか、聴いたことのない曲のはずなのに、なぜか懐かしい。
その違和感に気を取られた瞬間、指先が無意識に弦をなぞっていた。
ヘッドホンから聞こえるノイズと、
俺の弾いたベースの音が、部屋の中で共鳴する。
次の瞬間、視界が白く弾けた。
耳の奥で、けたたましいノイズが鳴り響く。
立っていられず、床に崩れ落ちる感覚。
ひどい頭痛と共に意識が、急速に暗転していく。
——あのテープ、もらうんじゃなかった……。
そう思ったのを最後に、俺の意識は途切れた。
目を覚ました時、俺は見知らぬ雑踏の中に立っていた。
古い看板、行き交う人々の服装、耳に届く音楽。
何もかもが、俺の知る京都と違う。
それでいて、どこか既視感がある景色だった。
「デジャヴか?いや、違う。」
四条河原町——だと思う。だが、様子がおかしい。
見覚えはあるのに記憶にはない街の風景だった。
俺はまだ、何も理解していなかった。




