79.あなたと、わたし ◇★
「――あなたは、アイオリスって言うのね」
その声が聞こえた瞬間、闇の中に生じた光の波紋がまばゆく輝いた。
気づくと、白い世界にいた。
光に満ちているのに眩しさはない。
空とも地ともつかない白だった。
だが足元にだけは、薄く水を張った鏡のような気配があった。
踏みしめているはずなのに深さはなく、ただ凪いだ水面だけが白の底にひらいている。
どこからともなく、どく、どく、と鼓動に似た水音が響く。
神域で聞いたあの脈動が、そのまま世界そのものになったような音だった。
私はゆっくりと息を吐いた。いや、本当に息をしているのかも分からない。
ただ、胸の内に溜まっていた張りが、少しだけほどけた気がした。
そこでようやく、自分の身体を見下ろす。手足はある。
だが、手にしていたはずの戦斧がない。懐に収めたはずの瓶も。
それに、肩と背に刺さったままのはずの矢もない。
左肩にも、背にも、あの痛みがなかった。服は濡れても破れてもおらず、血の臭いもない。
代わりにあるのは、水の匂いだけだ。
清いとも違う、甘いとも違う、息苦しいほど濃い水の気配。
ここが現の延長ではないのだと、理解は不思議とすんなり胸へ落ちた。
だが、夢や幻を見ているとは思えない。奇妙な実感がある。
その時、白一色の視界の奥で何かが揺れた。
最初に見えたのは、金色の煌めきだった。
真っ白な水面から浮かび上がるように、イズミールが姿を現した。
私の知るものとは様相が違っていたが、その面差しだけは見間違えようもなかった。
光を撚って流したような長い髪が、ゆるやかに揺れている。
そこから覗く角も、瞳も、身に纏う薄衣も、みな黄金に染まっていた。
その顔に浮かぶ表情も、あの変わらない穏やかな微笑ではない。
唇の端が柔らかく持ち上がり、頬には熱のような色が差している。
こちらを見つめる眼差しは、静かなのに、ひどく近くて優しい。
金色の瞳が私を捉えると、ひどく嬉しそうに細められた。
呼ぶより早く、彼女が歩み寄ってきた。
いや、歩いたのかどうかも分からない。
白い世界の中では距離というものが曖昧で、気づけばもう目の前にいた。
金の髪が水のように流れ、細い腕がためらいなく私の背へ回る。
抱きしめられた。
どこまでも柔らかい。だが、人肌の温度とは違った。
冷たくない水に全身を沈めた時のような、輪郭の内側まで染み込んでくる感触だった。
背へ回された腕は細いのに、逃れようと考える余地さえ失くさせるほど優しい。
気づけば私の手もまた、彼女の背へ触れていた。
「イズ、ミール……」
喉から零れた声は、自分で思っていたより掠れていた。
すると彼女は腕の力をほんの少しだけ強め、私を抱いたまま顔を上げる。
金の睫毛のあいだから覗く瞳が、蜜のようにとろりと揺れた。
「ええ。そうよ」
微笑む。その笑みはやはり、私の知る穏やかなものとは違っていた。
もっと熱を含み、もっと親密で、どこか湿った甘さを帯びていた。
ああ、と私は思った。
ずっと触れたかった。
誰よりも近くにありたかった。
無事でいてほしいと願った、その続きに、確かにこの距離を欲した覚えがある。
言葉にしたことなど一度もないのに、その欲求だけを抜き出して、最初から知っていたみたいに叶えられてしまった。
何よりも、言葉が通じるようになっていることが大きい。
こちらの言葉が、意味のまま届き、言葉として返ってくる。
これまで何度もすれ違い、届かず、祈りや仕草に縋ってようやく繋いできた距離が、ここでは最初からないみたいだった。
「……やっと来てくれた」
驚きのない声だった。
待ち望んでいた歓びはあるのに、そこには疑いがない。
最初から、私が来ると知っていた声だった。
細い指が、私の背を辿った。
抱き寄せられたまま、左肩から背中へと細い指先が辿って撫でる。
矢が食い込み、熱と鈍痛が抜けなかったはずの場所だが、痛みは来なかった。
あるはずの傷ごと、最初からそこになかったみたいに、白く柔らかな指先がなぞっていく。
「……痛かったでしょう」
耳元で囁かれた声は、ひどく柔らかかった。哀れむようでも、慰めるようでもない。
ただ、そうであった事実を最初から知っていて、確かめるような響きだった。
彼女の腕はなお私の背に回ったままで、その細い指先だけが、矢のあるはずだった場所を優しく撫で続けていた。
「……ここは、一体」
問うと、彼女はすぐには答えなかった。
代わりに、頬を寄せたまま、くすりと笑う。
金の髪がするりと肩を滑り、黄金の枝角が白い光の中でやわらかく艶めいた。
「たぶん、わたしのなか……?」
抱き合ったまま、彼女は小首を傾げ、無邪気な少女のように微笑んだ。
自分の答えに確信を持っているようには見えなかった。
それなのに、ためらいなく返ってきたその言葉に、私は眉を寄せた。
「君の……なか?」
「ええ」
ようやく少しだけ身体を離し、それでも逃がす気などまるでない距離のまま、彼女は私を見上げた。
「だから、痛くないでしょう? こうして言葉も通じる。
あなたが苦しまなくていいように、ちゃんとなってる。素敵でしょ?」
まるで、それが当然であるかのように言う。
私は彼女の言葉を反芻した。
苦しまなくていいように。
ちゃんとなってる。
仕組みを知ったうえで語る口ぶりではない。
幼子が、自分の手の中にある大切なものは壊れないのだと信じて疑わないのに似た響きだった。
「君にも、分からないのか」
「知らないわ」
あっさりと、彼女は言った。
その返答に、今度こそ私は息を止める。
彼女は少しも恥じる様子がない。
むしろ、どうでもいいことを問われたように、小さく首を傾げただけだった。
「でも、そんなこと、今はもう、いいじゃない」
白い世界の中で、どくり、と水の鼓動が鳴る。
彼女は再び私の背へ手を回し、傷のあった場所を包むように撫でた。
その仕草だけはどこまでも優しい。壊れものに触れるみたいに丁寧で、執着めいていた。
「あなたがここにいて、ちゃんとわたしに触れられる。それで十分だもの」
その声には、疑いがなかった。
私が来ることも、こうして抱き締められることも、彼女の中では最初から決まっていたみたいだった。
「ここには、あの黒いのも、人間たちも、届かない」
彼女はふっと目を細めた。
声は同じように柔らかいのに、その一瞬だけ、そこに混じる温度が変わる。
「みんな沈めるの。邪魔なもの、いらないもの、全部ね」
その言葉が落ちた瞬間、足元の白がわずかに波打った。
凪いだ水面のような白に、黒い湖岸の影が一瞬だけ滲んだ。
せり上がる水、地を這う金色の筋――だが次の瞬間には、元の白へと戻っていた。
ぞくり、と背筋の奥が冷えた。
彼女はすぐにまた微笑んだ。
今の一言さえ、何でもないことだったみたいに。
「一つだけ、心残りがあったの。
いらないもの全部、沈めて、黄金に変えても……あなたは、わたしのものにならない」
彼女の言っていることに理解が追い付かない。
――全部を沈めて黄金に変える。
彼女以外が口にすれば妄言でしかない。
なのに彼女は、それをもう決まったことのように言う。
しかも同じ重さで、私を欲しいとも。
「心残り」という言い方が、妙に胸へ引っかかった。
まるで、もう後へは戻らないと決めた者の言葉みたいだった。
「イズミール……君は、何を言っている」
絞り出した声に、彼女は不思議そうに瞬いた。
責められたとは思っていない。
ただ、どうして伝わらないのだろうとでも言いたげな、あまりにも無垢な顔だった。
「何って……そのままよ」
彼女は私の胸に手を当てた。
押すでもなく、縋るでもなく、そこにあるのが当然のものに触れる手つきだった。
「あなたを傷つけるもの、利用しようとするもの、あなたを奪おうとするもの。
ああいうの、みんないらないでしょう?」
「それは――」
「だから沈めるの」
言い切る声音は、あまりにも穏やかだった。
「黒いのも、人間たちも、みんなあなたに触ろうとするもの。
痛くするもの。連れていこうとするもの。わたし、ああいうの、きらい」
最後の一言だけ、淡く冷えた。
怒りとも憎しみとも違う。
もっと静かな拒絶だ。冬の水がひと息に熱を奪うような、ためらいのない冷たさだった。
だが、次の瞬間にはもう、その温度は消えていた。
彼女は再び私を見上げ、柔らかく目を細める。
「でも、もう大丈夫。ここには誰も寄せ付けない。誰にも邪魔はさせない。
ね、いいでしょう?」
そう言いながら、彼女は返答など最初から求めていない。
私は息を呑む。
「だが、心残りというのは……」
ようやくそこまで口にすると、彼女は嬉しそうに笑った。
「ああ。やっぱり、そこを聞いてくれるのね」
その言い方に、胸の奥がざわつく。
まるで、私が何を気にかけるかまで初めから知っていたみたいだった。
彼女は私から半歩も離れないまま、私の薄藍のサッシュを指先でなぞった。
白い世界の中で、金の髪が水草みたいにゆるやかに揺れる。
「わたしはね、大きい流れに繋がったの」
「流れ……?」
「ええ。ずっと下に、もっと大きな水があるの。
どこまででも届きそうな、深くて、重たい流れ」
うっとりするように目を伏せて、彼女は囁いた。
「あなたを傷つけるものを、全部、届かないところへ沈めるには、わたしだけじゃ足りなかったから」
その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。
ただ、背筋の奥を、いやな冷たさが這い上がる。
「……それで、君はどうなる」
問うた瞬間、彼女はきょとんとした。
それから、子どもが秘密を打ち明ける前みたいに、少しだけ肩をすくめた。
「たぶん、このままだと溶けるわ」
あまりにもあっさりと告げられて、私は言葉を失った。
彼女は構わず続けた。
「いなくなる、とは少し違うの。
わたしが、わたしのままでいられなくなるだけ。
もっとひろくなって、もっと曖昧になってしまうの」
「……それを、平気だと?」
「あなたが来る前までは、嫌だったわ」
その答えに、私は息を止めた。
彼女は、笑っていた。
哀しんでいるのでも、虚勢を張っているのでもない。
ただ、ようやく納得のいく答えを見つけた者の笑みだった。
「だって、あなたを傷つけるもののせいで溶けるなんて、悔しいじゃない?
それに、水の底へ沈んだあなたを、ひとりで置いていくのも嫌だったわ」
「……何を」
「でも、今は違う」
言葉を遮って、彼女はもう一度、私の胸へ頬を寄せた。
その所作は甘えているようでいて、強い決意を感じさせた。
選び取った場所へ戻るような迷いのなさがある。
「あなた……自分から来てくれたでしょう」
どく、どく、と世界の水音が脈打つ。
それはもう、遠くから聞こえるものではなかった。
彼女の声と重なって、私の内側を叩いてくる。
「痛くて、苦しいのに、わたしの為にここまで来てくれた。
やっと名前を教えてくれて、こうして触れて話せるようになった」
「それは……君を」
「うれしかった」
即座に返ってきた言葉は、静かなのに重かった。
彼女は私を抱く腕に、わずかに力を込めた。
「ずっと、そうしてほしかったの。
わたしのところへ来て、わたしだけを見て、触って、わたしの名前を呼んで。
全部、ぜんぶ、あなたがわたしにくれた気持ち」
蜜のような金の瞳が、まっすぐに私を映している。
その眼差しの中では、私が彼女を求めたことも、欲したことも、すべて疑いようのない事実として並べられていた。
「だからね、これ以上はもう思い残すことはないの」
彼女の指が、私の背中をゆっくり撫で下ろす。
矢のあった場所。傷のあった場所。痛みに焼けた場所。
そこをなぞられるたび、痛みの記憶まで優しく塗り替えられていくようで、ぞっとした。
「あなたがここにいてくれるなら、わたし、いっしょに溶けてもいい」
「よくない」
反射的にそう言っていた。
彼女が、ぱち、と瞬く。
拒まれると思っていなかったのだろう。
けれど傷ついた顔にはならない。ただ、少しだけ不思議そうに私を見た。
「どうして?」
「どうして、だと……」
喉がひりつく。
抱きしめられている。温かい。苦しくない。言葉も通じる。
ずっと欲しかったものが、この場所にはある。
それなのに、その中心で彼女は自分が溶けることを、ただ水が流れる先を語るみたいに軽く口にする。
「君がいなくなることを、私が望むと思うのか」
そう告げると、彼女はしばらく黙っていた。
やがて、金の睫毛がゆっくり伏せられる。
その沈黙は怒りでも悲しみでもなかった。
むしろ、予想もしなかった贈り物を手の中で転がし、その形を確かめているような静けさだった。
「……そう」
小さく、彼女は呟く。
それから、ひどく嬉しそうに笑った。
ひどく満ち足りた笑みだった。
なのにその奥で、何かが静かに深まっていくのが分かる。
「――やっぱり、そう言ってくれるのね」
白い世界のどこかで、どくん、とひときわ大きく脈動が鳴った。
水の気配が濃くなる。
光は変わらず白いままなのに、足元のないはずの世界が、波立つ前の水面のように揺れた。
彼女は私を見上げたまま、囁いた。
「だから、もっと欲しくなってしまうの」
指先が、今度は私の頬へ伸びた。
壊れものに触れるみたいに優しいのに、逃がす気は少しもない。
「なら、あなたの全部をわたしに頂戴。わたしと一つになって、一緒に溶けて」
その声音は、恋の告白に似ていた。
けれど、彼女が差し出している願いは、ひどく危うかった。
それなのに、今の彼女には恐れも躊躇いも感じられない。
私の知るイズミールは、もっと臆病で、けれど、優しかった。
自分の起こした奇跡に怯え、群衆から逃げ出したくせに、本当に救いが必要な者や、泣く幼子を見捨てきれない――そういうひとだった。
今の彼女が偽りかと言えば、そうでもない。
こんな顔をさせたのは、きっと私だ。
近づきたかった。触れたかった。特別でありたかった。
言葉にも出来なかったそんな欲を、彼女は拾い上げて、まるごと叶えようとしている。
だとしたら、これは彼女の救いではない。
「イズミール」
名を呼び、細い肩にそっと手を置く。
そのまま引き寄せて口づけてしまいたい衝動をこらえ、私は一歩だけ距離を取った。
「それは救いじゃない。
君がいなくなるのを、私は望まない。
私は私のままでいたいし、君にも君のままでいてほしい」
金色の瞳が揺れる。
続きを言えば、傷つけてしまうかもしれない。
それでも、伝えなければいけない。
「……だから、君に全てを差し出すことは出来ない」




