55.聖者は黄金より言葉を求める(中編) ◆★
水域の外縁部で出会った老魔術師サルディスと、その弟子リディア。
私は二人を、森の中の小さな家に招くことにした。
水域の外縁部を調査する拠点として設けた仮住まいだ。粗末な造りだが雨風は防げる。
獣避けに焚いた灰の匂いが床板に染み、湿った薪が壁際に積まれている。
扉を押し開け、二人を中へ通した。
「狭いが……入ってくれ」
リディアは玄関口で立ち止まり、室内を見回してから、ようやく息を吐いた。
目元にはまだ泣き腫らした痕があるが、視線の動きは落ち着き始めている。師のサルディスと再会できたことが大きいのだと思う。
だが指先はまだ、椀も持っていないのに微かに震えていた。
サルディスは一歩目で床板の軋みを測り、二歩目で窓の位置と逃げ道を見た。
老いて痩せているのに、動きが鈍いわけではない。
指先に絡めた水の糸をほどかぬまま、杖を壁に立てかけることすらせず、部屋の空気を嗅いだ。
煤と湿り気と、血の匂いの残り。私の斧にまとわりつく、ひやりとした“水”の気配。
値踏み――というより、習慣だ。危険地帯を歩き慣れた者の、それだ。
私は炉に火をくべ、湯を沸かした。
茶葉など贅沢品はない。乾燥させた香草の葉を少し入れた湯を椀に注ぎ、二人の前に置く。
安全だと示すために、先に口をつけてみせる。
私にとって言葉を並べるのは斧を振るうより難しい。だからこそ、行動で示す。
サルディスが頷くと、リディアが両手で椀を手に取り、湯を口にする。
温かいものが喉を通ると、ふっと肩の力が抜けた。
※※※※※
「改めて礼を言おう、アイオリス殿。弟子の命を救っていただき感謝する」
リディアが、あっ、と声をあげた。
椀を慌てて置いて、私に向かって頭を下げてくる。
「あ、あの、た、助けてくださって、ありがとうございました!」
サルディスが礼を口にしたのは、弟子が落ち着きを取り戻したのを見計らってのことなのだろう。
その関係性は師弟というより、祖父と孫のようにも見える。
同時に、私に対する恩義を示すことで、こちらが要望を口にしやすい場を整えているのだと察する。老獪というより、筋を通す者の手際だ。
「偶然、居合わせただけだ。だが、大きな怪我もなく、何よりだ」
怪我という言葉に、リディアの視線が私の服の裂けた箇所に向けられる。
破れ目の下に傷痕はない。御子様方が浄化してくださったお陰だ。
視線を追いかけたサルディスが、顎髭を撫でつけながら言う。
「女神と御子、そして“聖者”の噂は耳にしておったが、大げさなものばかりではなかったようだ」
私は手にした椀から立ち昇る湯気越しに二人を見る。
精霊の力を借りて魔法を行使する魔術師は、神と精霊を同列の存在として扱うのだという。
以前なら、神を値踏みするような視座は不敬だと感じていたかもしれない。
だが今となっては、そうした視点からの知識こそ不可欠だと感じる。
今ここで話すべきなのは、礼でも、武勇でもない。
私が求めたもの――神や精霊に届く「話し方」だ。
そのために私は、己の恥も、過去も、差し出す必要がある。
「まぁ、今はよい。アイオリス殿、先ほどの話の続きを聞かせてもらおう」
サルディスの物言いは直截だ。それが、むしろありがたい。
「……分かった。順に話そう」
自分の掌を見た。つい先ほど、黒禍の獣を叩き潰した感触がまだ残っている。
「私は元々、“深淵殺し”だった」
リディアが小さく息を呑む。
サルディスは頷かない。ただ目を細めた。
「……故郷が深淵に堕ち、復讐のために“深淵殺し”となった」
言葉にすると、ひどく単純だ。嘆きも、犠牲も、狂気も削ぎ落として、事実だけを述べる。
「世界樹の森に潜んでいた魔樹を討伐した時、私の浸蝕は引き返せないところまで来ていた。
正気を失いかけたまま彷徨ううちに、私はこの森の中の小さな泉に辿り着いた」
小さな泉という言葉に、サルディスの視線がわずかに動く。
「そこで、水面に立つ彼女――イズミールに出会い、彼女の放つ水流に浄化された」
水が胸を貫いた瞬間の、あの冷たさを思い出す。
冷たいのに痛くない。痛いのに、黒いざらつきだけが“ほどけて”いく。
肺の奥の、言葉にならない重さが抜け落ちる感触。
私は自らが体験した奇跡を語った。
救いを得たことに酔った物言いにならぬよう、淡々と、確かめるように。
――異形と化していた部位が戻ったこと。髪や瞳、肌にだけ黒の名残が残ったこと。
――泉に通い詰め、二度目の邂逅で再び水流による浄化を受けたこと。
――供物として捧げたプルヌスの実の種が黄金と化したこと。
――三度目の邂逅で初めて、彼女の声の中に一つだけ、意味を持つ音を拾ったこと。
――それが名ではないかと感じ、息を止め、同じ響きを口にして確かめたこと。
――発声と発音を探りながら、「イズミール」という音を、彼女がはっきりと声に出したこと。
――以後、その名で呼びかけると、あの水面が、あの沈黙が、わずかに応えるようになったこと。
話の間、サルディスは無言と無表情を貫いた。
一方リディアは表情を変え、息を飲み、感嘆の声をあげかけて口を押えた。
何度も疑問を口にしかけ、押し黙る師に倣って沈黙した。
私は続けた。
――彼女から浄化された斧と、水の小瓶を授かって旅に出たこと。
――小瓶を通じて、彼女の浄化の力を借りられたこと。
――帰還の旅路の中でそれを用い、浸蝕を受けた人々を救ったこと。
――いつの間にか自分と彼女の名が広まり、森が開拓され、ゴルディウムができたこと。
――それから、泉がズミュルナ湖と呼ばれるほど大きくなるに至るまでの経緯を。
リディアは途中から口を開けっぱなしで、思い出したように冷めた湯で口を湿らせた。
サルディスもようやく椀に口をつけ、息も継がずに飲み干す。大きく息を吐いた。
※※※※※
「……ありえん」
吐き捨てではない。断言だ。
「どこからどこまでと区切るのも馬鹿馬鹿しいほどだが、嘘にしては真実味がなさすぎる」
その言葉にリディアが慌てたように、私とサルディスを交互に見る。
私がサルディスの物言いに怒り出すのではないかと思ったのかもしれない。
軽く手で制し、首を横に振ってから、老魔術師に続きを促した。
「特に、精霊と繋がりを学んでいない者が、言葉を介さぬ存在から、いきなり名を“聞き出す”。
それも向こうが名を差し出す形で……そんな都合の良い話は早々ない。
名は縁を結ぶ上での核となる。初手で触れてよいものではない。
もし名無しの精霊であったなら、名という概念を理解させることからして難しい」
彼の目が私を射抜く。
「アイオリス殿。おぬしは本当に、“聞き出した”のか?」
問われて、私は返せなかった。
聞き出した、と言い切るには、あの瞬間の私はあまりに必死だった。
彼女と言葉を交わすことに、ただ夢中だった。
あの時にはもう、私は彼女に恋をしていた。
サルディスは続ける。
「あるいは――おぬしが“命名者”となったのかもしれん。
おぬしの与えた名を、相手が己の名と認めたならば、何よりも強い繋がりとなる」
リディアが膝の上で手を握りしめる。師匠の言葉の「重さ」を感じ取っている。
私も同じだ。名が繋がり――その感覚は、肌で分かる。
彼女の名を知ってから、私はずっと惹かれている。
祈りでも使命でもなく、もっと根の部分で。
「だが、どちらにせよ」
サルディスは器を置いた。
「それほどの力を持つ水の精霊が――霊子や元素の何たるかも知らん人間に、名を明け渡すほど不用心とは到底思えん。
精霊でなくとも、出会って間もない、言葉も通じん相手に、白紙の証文を渡すような真似はするまいよ」
指摘はいちいち理屈に適っている。術師ではない私にも分かるように噛み砕いてくれている。
それでもなお、イズミールという存在は型破りなのだろう。サルディスの言葉の端に、その戸惑いと興奮が混ざる。
そして彼は、理屈を積み上げてきた者が世界の継ぎ目を覗いた時の顔で、堰を切った。
「泉から池、湖への拡大は分からんでもない……百年か千年か、それ以上あったならな!
だが、プルヌスの種が黄金に? 水の精霊が? 何をどうしたらそうなる?!
御子? 眷属か? 一年やそこらで精霊が数十も生まれる霊場などあってたまるか!」
サルディスは癇癪を起こしたように叫ぶ。
だが、その表情には怒りよりも呆れ、呆れ以上に、興味と興奮が見て取れた。
リディアは師がこんな風に声を荒げるところを見たことがなかったのか、遠慮がちに声をかける。
「お、御師匠様、で、でも、あの、私も見ました。さ、三体……あ、四体? ですけど……」
「ハッ、あの水溜まりに精霊が四体か? 小魚や虫より精霊の方が多くいるのではないか?」
老魔術師の興味が、彼女や御子様そのものに向かい過ぎるのは困る。
どう声をかけるかを思いあぐねていたところ、灰色の眉の下で、じろりと瞳がこちらを向いた。
「――アイオリス殿。おぬし、昔から水の精霊と縁があったのではないか?」
どうやら話の本筋から意識と興味が完全に逸れたわけではないようだった。
安堵しつつ、問いかけが心に刺さる。
水の精霊との縁――私にとって苦い記憶だ。
私は首を振った。
「故郷、オルセイスには……泉があった。城の中庭にあった泉だ。精霊が宿ると言われていた。
だが私は、精霊に会ったことはなかった」
口にしただけで胸の奥が痛む。
「魔樹が発生し、黒禍が迫りつつある中で、泉に呼びかけたが応えはなかった。
そして城が落ちた日……泉は黒く染まった。精霊は既に去っていたのだと、私はそう思っていた」
サルディスは、こちらを見て言った。
「オルセイスの泉。おぬしが見たことがないと言っても、泉の方はおぬしを見ていた可能性がある。
泉の精霊が、どこかでおぬしに縁を与えたのかもしれん。
おぬしがイズミールという名に触れられたことには……それ以前からの縁があった可能性が高い」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
ぴちゃん、という小さな水音だ。
私は息を止めた。
オルセイスから逃げ出したあの日。
静まり返った城内の中庭で目を覚ましたあの朝。
泉の傍らで、あの水音を聞いて目を覚ました。
戦っていたのか逃げ回っていたのかさえ記憶になかった。
たまたま生き残ったのだと思っていた。
神秘は最後まで何もしてくれなかったのだと。助けてくれなかったのだと、決めつけていた。
だが今、サルディスの言葉が、その音を別の形に変える。
“縁”。
あれは、応えだったのか。
私があの場を生き永らえたのも、巡り巡って泉のもとへ辿り着けたのも――自分の執念や運だけではなく、あの泉が私を支えてくれていたからなのか。
喉が渇いた。
私は器に手を伸ばし、空になった椀を掴んだ。指が少しだけ震える。
自分の震えを、私は久しく許していなかった。乾いているのは身体ではなく、胸の内側だ。
「……もし、それが本当なら」
声が掠れた。
「私は、救われていたのか」
※※※※※
サルディスは、こちらを急かさない。術師の沈黙は、相手に考えさせるための沈黙だ。
リディアが、恐る恐る言った。
「お、御師匠様……じゃあ、アイオリスさんは……」
言いかけて止まる。弟子は師の前で、勝手に結論を言ってはいけないと知っている。
サルディスはようやく頷いた。
「あくまでも可能性の話だ。だが、おぬしには泉の精霊への並々ならぬ縁がある。
いや、“流れ”と言ってもいい……それは我々、魔術師の世界では“偶然”と片づけにくいものだ」
彼の話が真実だとしたら、私が神秘への崇敬を捨てたことは逆恨みでしかない。
恩義に報いることも、不義理を詫びることも、最早叶わない。
「おぬしや、その泉の精霊が何を思っているかはわからん。
オルセイスの泉の精霊が、去ったのか滅んだのかもわからん」
老魔術師の口調は静かで、そこには慰めも断定もない。
「我々、魔術師はな、精霊を“意志を持った元素”と考える。
元素の力は世界を巡り続ける大河のようなものだ。
精霊の意志がほどけても、元素という源流は巡り続ける。
人と精霊の一番の違いはそこにあるのだと、私はそう教わったよ」
「……つまり、だ」
サルディスは指先で机を二度、軽く叩いた。
「おぬしが“泉に不義理を働いた”などと考えるのは、人間の理屈だ。精霊は契約の帳面をつけん。
助けたから礼を返せ、返さねば罰する――そういう発想は、神殿か商人のものだ」
胸が、ひくりと痛んだ。
それでも痛みは消えない。消えるはずがない。
私は、あの泉が応えなかったのだと決めつけ、黒く染まった水面に背を向けた。
「……だが、私は」
声が低く沈む。
「あの泉を、見捨てた」
「見捨てたのではない」
サルディスは即座に言い切った。慰めではない、論理として。
「おぬしは生き延びた。生き延びた者は次の流れへ行くしかない。
泉が縁を結んだのなら、それは“おぬしを次へ流す”ためだろうよ。
流れた先で、おぬしが何をするか――そこまでを、泉が握る必要はない」
反論が出ない。理屈が、私の罪悪感の形を変えていく。
罪が消えるのではない。重さの置き場が変わる。
リディアが、膝の上で握っていた手をほどき、震える指で椀の縁を撫でた。
「……わ、私、さっき」
小さな声だった。
「に、逃げました。お、御師匠様を置いて、走って……それで、すごく、すごく……」
言葉が詰まる。目尻が赤くなる。
「でも、御師匠様は、怒らなかったです。生きてたから、って……」
サルディスが鼻で短く息を吐く。肯定の合図だった。
リディアは私を見た。泣き腫らした目で、それでも真っ直ぐに。
「生きてるのって……それだけで、もう、えらいことだと思うんです」
「だから……泉の精霊さんも、きっと……アイオリスさんが生きたこと、よかったって……」
その言葉は、理屈ではない。
だが理屈より先に、胸の内側の乾いた場所へ落ちた。
私は視線を落とし、斧に目を向けた。
そこに宿る水の気配。浄められた鉄。私がいま握れる力。
すべてが、過去の泉と、いま生きているイズミールへ繋がっている。
「……そうだな」
掠れた声が出た。
「私がいまできるのは、過去へ詫びることではない」
イズミールの名を口の中で転がす。水音のように。
「今、生きている彼女の助けになることだ」
サルディスが、ようやく小さく頷いた。
「ならば話は早い。――次は“話し方”に関する講義としようか、聖者殿」
<おまけ>
19.5.名もなき泉の精霊の最後の一滴 ◆
※19話「深淵殺しのアイオリス(前編)」裏話
◆◆◆◆◆
わたしは、泉だ。
石で縁取られた小さな水面。人の造った“たてもの”に囲まれた小さな清水がわたしだ。
ここに集まる水の冷たさと、映り込む空の色、揺れた時の音――それが、わたしの全部だ。
わたしはここから動けない。
わたしは流れる水じゃなくて、湧き出して留まる水だから。
できるのは、澄ませることと、ほんの少し揺らすことだけ。
それでも、長く見てきた。
季節が巡るたび、空の色が変わる。落ち葉が増え、雪が薄く積もっては溶ける。
同じように、足音が来て、わたしの前で膝が折れて、掌が水を掬う。
喉の渇きの温度と、指先の震えと、祈りの重さだけが、わたしに届く。
あの人は、背が高かった。昇りきる前の太陽に似た金色の髪をしていた。
手にはいつも鉄の気配がした。水面を覗く時は、覗くというより“見張る”みたいな目をしていた。
彼が来ると、水の表面が少しだけ緊張した。
怖いのではない――あの人は水じゃなくて、わたしを見ようとしていたと思うから。
その次に来る人は、似ていた。
金の髪も、掌の大きさも、祈りの癖も。
けれど目が柔らかかった。水を飲む前に、必ず一息置く。
余裕を作るふりをして、実は自分の不安を鎮めていた。
あの人の金の髪がくすんでいった頃、小さな子が顔を見せるようになった。
水面に映る髪が、光の粒みたいに揺れる。目は澄んだ青で、空の色より深い。
青い瞳にわたしが映り込むと、自分が深い泉になれたみたいに感じて嬉しくなる。
彼はよく来た。
同じ場所に座り、同じ角度で掌を浸し、同じ速度で水を掬う。
喉が渇いている時も、渇いていない時も。
彼は大きくなるにつれて、よく怪我をするようになった。
わたしのいるこの広場では、人が木や金属の棒をぶつけ合って、時には身体を叩き合う。
嫌い合っているのかと思えば、終わると笑ったりしていて、人は不思議だ。
人の祈りの言葉は、わたしには音の束にしか聞こえない。
けれど、その束が“頼りたさ”でできているのは分かった。
生きたい。守りたい。帰りたい。失くしたくない。
そういう重さが、声の奥から水面に落ちてくる。
応えてあげたかった。
ほんの少し、水を澄ませる。
ほんの少し、冷たさを整える。
ほんの少しだけ、怖さを沈める。
わたしにできるのは、それくらいだ。
水をきれいに保って、ほんの少しの願いを溶かす。
あなたが元気でいられますように。
あなたがまた、わたしの元に戻ってきますように。
彼らは、濡れた手を引っ込めるたび、なにかを“持ち帰った”みたいな顔をした。
言葉では通じ合えないけれど、気持ちは通じたと思えて嬉しかった。
※※※※※
■■■が来たのは、あの子の背が、あの人たちと並んだあたりのことだった。
あってはならないもの。水だけじゃない、あらゆるものを染めて腐らせるもの。
"外"から流れ込む、黒いわざわい。
最初に侵されたのは、人ではなかった。
泉でもなかった。
もっと奥――わたしがいつも触れている水の道、地の底の水脈が先に汚れ始めた。
底から、墨を落としたような筋が伸びてくる。
冷たさが、重さに変わる。澄んだ音が、濁った唸りに変わる。
水面はいつも通りなのに、底だけが別の世界になっていく。
祈りが来ても、応える余裕がなくなった。
わたしは祈りへ手を伸ばす代わりに、水脈を押さえつけることに全てを使った。
ここを侵されたら、この泉だけじゃない。
この土地の水が、まるごと死ぬ。そういう怖さがあった。
祈りに応えなければ、人は見捨てられたと思うかもしれない。
けれど、わたしが応えれば、■■■はこの"たてもの"への道筋を覚える。
水音を伝って、もっと早くここに辿り着く。
"たてもの"の外にはもっとたくさんの人が暮らしているのを、わたしは知っている。
苦い選択だった。
わたしは、苦い選択しかできないくらい、弱かった。弱ってしまった。
"たてもの"が最期を迎えようとした夜。
金属の音と、火の匂いと、悲鳴が石を震わせていた。
泉の縁に、血の味が落ちた。
重い足音が近づき、崩れるように膝がつき、掌が水を掴む――掴むというより、縋った。
金の髪の子だ。
いつもの青い目が、濁って見えた。
濁りは水面の反射じゃない。彼の内側に■■■が絡みついている。
水脈の侵され方と同じ臭いがする。皮膚の内側に、別の理が刺さっている。
もう少しで、落ちる。落ちたら――戻れない。
わたしは迷わなかった。もう迷う余裕がなかった。
水の底の結び目――わたしの核が、きし、と鳴る。
これをほどけば、わたしは消える。ここに残るのは“ただの水”だけになる。
それでも、ほどいた。
水が一瞬だけ熱くなる。
わたしの冷たさが、彼の熱に溶けていく。
黒い筋が、ぎし、と嫌な音を立てて引き剥がされる。
祓いきれない。押し返せない。この■■■は強い。
けれど、わたしも世界を巡る水の力の流れ――その“結び目”の一つだ。
結び目は、ほどける時に強い流れを生み出す。
ほどけて生じた強い波が彼の奥へ潜り込む。
彼の中に絡みついた■■■を包み、薄めて溶かす。
完全に救えないとしても――落ちきらせない。踏みとどまらせる。
この子が次の水へ辿り着けるだけの“一歩ぶん”の余白を残したかった。
……声を持たないわたしが出せるのは、音だけだ。
ぴちゃん。
水音が、彼の耳に残るように。
金の髪が青い目のまま、明日を見られるように。
どうか、■■■に飲まれないで。
あなたは生きて。
そして、どうか、わたしを忘れないで。
わたしは、ほどけきって、ただの水の力の流れに戻った。
泉は泉のまま、昨日までと同じように空を映す。
けれど、水の底には意思の元になっていた"結び目"は、もうない。
残ったのは、夜の中庭に小さく響く――ひとつぶんの水音だけだった。




