54.聖者は黄金より言葉を求める(前編) ◇★
53話「守りたがりの木こり野郎」のアイオリス視点
黒い獣の頭が弾けた瞬間、嫌な手応えが柄越しに遅れて腕へ返ってきた。
骨を砕いた感触とも、木を割った感触とも違う。
中身の詰まった皮袋を、石ごと叩き潰したような鈍い破裂。
飛び散った泥と血が頬にかかり、鼻の奥に血と蜜を溶かしたような腐臭が刺さる。
私は一歩だけ踏み込み直し、戦斧の刃を下げたまま周囲を見た。
まだ終わっていない可能性を、体が先に疑う。
黒禍の獣は、倒れてからの方が厄介なことがある。
痙攣のように跳ねることも、死に際に黒い泥を撒き散らすこともある。
だが、獣だったものは泥の上で二、三度ひくついただけで、輪郭を保てなくなっていった。
表面を覆っていた黒い触手じみたものが霧のようにほどけ、ぬかるみに吸われるように消えていく。
残ったのは、原形の判然としない肉塊と、荒い自分の息だけだった。
黒禍だけを削ぎ、浄めるようなゆとりが無かった。
人間、そして、御子様が狙われた瞬間、殺める覚悟を決めていた。
(……間に合ったか)
そう思った途端、止めていた痛みが一気に噴き出した。
左腕。脛。脇腹。突進を受けた時に、爪か触手か何かが抉っていったらしい。
熱いというより、痺れたところを遅れて焼かれるような痛みだ。
しかも、傷口の奥に黒禍特有のざらつく違和感がある。
舌打ちしかけて、寸前で飲み込む。
目の前に、茶色い髪の小柄な少女がいた。
腰が抜けたのか、その場にへたり込み、目だけを見開いてこちらを見ている。
年の頃は、まだ子供と言っていい。
外套の裾は泥にまみれ、片手には折れた細杖のようなものを握っていた。
前髪の合間から覗く額に黒い痣――救いを求めてやって来た巡礼者か。
逃げ切れずに立ち尽くしていたところへ、獣が追いついたのだろう。
あと一呼吸遅ければ、斧が届く前に喰われて、黒い泥の一部にされていたところだ。
「――――」
喉が焼けて声にならない息が漏れる。
少女に「大丈夫だ」と言おうとして、代わりに手で短く示した。
刺激しないように、獣の死骸と少女の間に自分の体を残したまま。
その時、背後で水音が跳ねた。
視線を向ける。
龍の徴を備えた水の幼子――御子様の一人が、所在なさげに空でふよ、と揺れていた。
その後ろの水場にはもう二人の御子様が水面に立って、こちらを見上げている。
その小さな体に、黒い濁りが浮いていないことを確認して、深い息を吐く。
「……無事、か」
思わず、少女より先にそちらへ言葉を落としていた。
順序が逆だと分かっている。分かっているのに、口が勝手にそう動いた。
あの方と同様に言葉が通じないだろうことは承知だが、問わずにはいられなかった。
御子様が人に宿った黒禍を浄化する様を幾度となく見てきた。
だが、あの獣の黒禍は重かった。御子様が受ければ無事では済まないと思った。
オルセイスの泉のように、黒い泥を沈めたまま黙る水を、もう見たくなかった。
御子様がそうなれば、彼女もきっと悲しむ。だから、身を挺してでも守るべきだと思った。
後悔などない。やっと守れた、今度こそ間に合ったという達成感すらあった。
私の言葉を理解したわけではないだろうが、御子様がくるりとその場で回った。
その元気な姿を見ただけで、張り詰めていた息が少し抜ける。
「御子様、ご無事で何よりです……」
水の幼子からは戸惑いと不安のようなものが感じられた。
私が負傷したことで心配をかけてしまったのだろうか?
腰を落として目線を合わせ、声が硬くならないように気をつけて話しかける。
「この通り、私は大丈夫です。ご心配なく」
浸蝕の気配がする傷を、水袋を開けて洗い流す。
あの方が浄化した水場から汲んだものだ。黒禍には酒や薬などよりよほど効く。
しかし、治療の実演など、幼子に見せたところで安心するはずもなかった。
御子様は落ち着かない様子で、私の周りを漂っている。
こういう時、自分の不器用さが嫌になる。
人を安心させるための話術や表情を作るのは、どうにも苦手意識がある。
応急手当を施しながら、内心、嘆息する。
※※※※※
外縁の巡回を続ける中で、こういう事態も増えてきた。
水が広がれば、人も寄る。人が寄れば、黒禍も寄る。
黒禍は、神や精霊の力で消し去ることが出来る。
だが、逆に精霊の住まう場を穢してしまう。両者は互いに天敵同士なのだ。
湖を囲う柵を急がせている理由が、今日ほどはっきり形になったことはなかった。
以前、発生した魔樹は、向かわせた討伐隊によって破壊できた。
だが、また近くで発生したのだろう。今回の獣はただの流れにしては大きすぎた。
背後から駆け寄る足音がいくつも聞こえる。
遅れて追ってきていた連中か、近くで作業していた者たちか。
人の気配が増えるにつれ、少女ははっと我に返ったように肩を震わせ、やっと息を吸った。
「ご、ごめんなさい……っ、ごめんなさいっ」
震えた声だった。泣きそうなのを堪えている声。
私は改めて少女へ向き直った。
「立てるか」
言葉が通じているかどうかより、まず呼吸の調子と目の焦点を見る。
瞳は怯えきっているが、意識ははっきりしている。外傷も見える範囲には大きいものはない。
額の浸蝕痕には新しい傷が無い、もっと以前に受けたものだろうと見て取れた。
ゴルディウムが各地からの巡礼者の受け皿を担っている。
だが、水域の拡大を受けて、街を素通りして水場を訪れる者も増えている。
道に迷った者、貧しい者、浄化の水を独占しようとする者、様々だ。
いずれにしても、一度、ゴルディウムへ連れて行かねばならないだろう。
そんなことを考えていた私の耳に、水音が三つ、続けて跳ねた。
「せ、精霊……? 三体も……?」
少女が驚いたような声を漏らした。
いつの間にか、御子様方が集まって、私と少女の周囲を漂っていた。
小さな体で落ち着きなく揺れながら、傷口や血の匂いを確かめるように近づいては離れる。
その仕草は、心配そうに様子を窺う子供そのもので、思わず息を吞んだ。
今まで以上に意思と感情を思わせる動きを見せている。
周囲で駆けつけた人々がざわめき、誰かが膝をつく気配がした。
祈りの熱が立つ。私はそちらへ目をやらず、御子様方から視線を外さない。
私が庇った御子様と思われる一人が、まっすぐ傷口へ手を伸ばしてきた。
「……御子様、私は大丈夫です。どうか触れないように――」
私は思わず一歩引いた。恐れからではない。
自分が居ながら、御子様を危険に晒してしまったという後ろめたさが先に立った。
自分は後でいい、先に少女を、と口にしたかった。
黒禍から負った傷を軽視しているつもりはない。
だが、"深淵殺し"として戦っていた時も、使命の旅の最中も、このくらいの負傷は珍しいことではなかった。
感触的に、浄化の水で洗い流せば、あとは普通の傷として治療出来る範囲だ。
だが動いた拍子にまだ処置の途中だった脚の傷から、血がぽたりと滴り落ちた。
それを見たのか、御子様の揺れがぴたりと止まった。
三人の御子様が私を囲うように飛び回り始めた。
次の瞬間、三体が一斉に飛び込んできたかと思うと、直前でその身体がほどけて混ざり合う。
呆気にとられていると、一塊の水球になった御子様方がこちらに飛び込んできた。
「……ッ!?」
冷たい、と思う間もなく、球になった水が視界を包んだ。
耳が塞がり、外の喧騒がくぐもる。
全身の傷へ澄んだ圧がまとわりつき、皮膚の下を這っていた黒い疼きが、熱した鉄を水に突っ込んだ時みたいにじゅっと薄れていく。
肺が反射的に息を求める。だが同時に、水流が口元を押し、喉の奥へ流れ込んできた。
息苦しさはある。だが、清浄な水は身体の隅々まで染み込むように伝わり、身体の中に感じたざらつきを消し去る。
浄化だ、と頭では分かっていても、むせる。
生き物としての本能が勝手に抵抗しようとする。
けれど抵抗するよりも、体の中の黒禍の気配が完全に消える方が先だった。
その瞬間、水球が弾ける。
私は泥の上へ膝をつき、咳き込みながら地面を掴んだ。
背にあたたかく小さな手が触れてきた。
さっきの少女だ。恐怖で震えたまま、それでもこちらの背をさすろうとしている。
「だ、だい、じょうぶ……ですか、あの、あの……!」
言葉が上ずっている。私は咳の合間に片手を上げ、無事を示した。
傷口の痛みを確かめるように腕を見下ろす。完全に塞がっていた。
浸蝕痕ともども、この世にあってはならない傷だとでも言うように、跡形もない。
だが、私は自分の呼吸や、少女の気遣いよりも、御子様方に濁りを移してしまっていないかの方が気がかりだった。
そんな私の目の前で、地面に零れ落ちた水が再び浮き上がり、みるみる透き通っていく。
そして、そこから三人の御子様が欠けも濁りもない身体で現れ、ぴょん、ぴょこ、と忙しなく動き出した。
転んだ子供が強がって元気に振る舞う、そんな印象を受けた。
さらにその中の一人が、ぎこちなくこちらへ向けて頭を下げた。
遅れて残り二体も、慌てたように真似をする。
少女の口から、わぁ、と感嘆の声が聞こえてきた。
私は思わず、ぽかんと口を開けた。
礼を言われている――そう感じたからだ。言葉ではなく、形で。
胸の奥で何かが熱くなり、次いで情けないほど柔らかく崩れた。
御子様が成長している。それが実感できる仕草だった。
以前より感情豊かに、人へ心遣いを身に着けている様子がある。
彼女――イズミールは、人を恐れながら、どこか人を見捨てきれないようにも見える。
あるいは、そんな彼女の気質がそのまま御子様に移っているのかもしれない。
「……ありがとう」
掠れた声で返す。通じるかどうかは分からない。それでも言わずにいられなかった。
御子様方は一瞬だけ揺れを止め、それから風に散る泡みたいにふっと離れていく。
今、彼女がどうしているのか尋ねたかったが、言葉が通じないことを思い出し、飲み込む。
※※※※※
小柄な少女は、まだ呆然とした目でその様子を見ていた。
泥と血と祈りのざわめきの中で、彼女だけが別のものを見た顔をしている。
恐怖と混乱はまだ残っているが、別の種類の驚愕と、理解しようとする焦り。
目が御子様の去った水場と私、斧と獣の遺骸を、忙しく往復していた。
腰の細杖、衣の仕立て、目線の運びから、魔術師なのでは、と直感した。
黒禍への怯えはあるが、見えないものを見分けようとする癖を感じさせる目だ。
「……君は、魔術師なのか?」
問うと、少女はびくりと肩を跳ねさせ、すぐ西の奥――獣が出てきた茂みとは別の方角を指した。
「あ、あの、わ、私、アレに会って、驚いてっ、先に逃げちゃって……っ、お、御師匠様、置いてきちゃって、それでっ、あの、えっと」
言葉にして感情を整理するタイプではなく、自分の言葉で感情が揺れてしまう性質なのだろう。
途中から半泣きになる。自分を責めているのが分かる声音だった。
「……私はアイオリスという。君の名を教えてくれ」
落ち着きを取り戻させるために、私はあえて彼女の言葉を拾わずに、名を尋ねることにした。
少女はびくりと肩を震わせ、緑色の瞳を忙しなく左右に揺らしてからごくりと唾を飲み込む。
胸に手を当て、深い息をしてからやっと顔を上げた。
怯えた小動物のような目。でも、視線は水場と斧と私を見比べている。
恐怖を“見分けよう”としている目だった。
「私、リディアっていいます。えっと、魔術師……見習いで――」
リディア、と名乗った少女が言い終えるより先に、風向きが変わった。
湿った草と泥の匂いの奥に、張り詰めた水の気配が混じる。人の気配だ。
だが、ただの巡礼者とは違う。
細い糸をいくつも張って周囲を探るような、澄んだ緊張がある。
茂みの向こうで枝が鳴り、灰の混じる髪を後ろで束ねた老魔術師が姿を現した。
旅装の外套は裂け、袖には泥が跳ねている。老いて痩せた体つきだが、足取りに無駄がない。
片手には細杖、もう片方の指先には、陽に透ける水の糸みたいな光が絡みついていた。
「リディア!」
低く鋭い声に、少女がびくりと肩を揺らす。
「お、御師匠様ぁ、私、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
男は駆け寄りかけて、途中でぴたりと止まった。
視線が、泣き顔の弟子から、黒禍の獣の死骸、私の戦斧、足元の水場へと走る。
最後に、まだ水面に残る御子様方の気配へ向いたところで、その目の色が変わった。
何かが“見えた”者の目だった。
驚き。警戒。計るような観察。
それを一息で呑み込み、男は私へ浅く一礼する。
「弟子が助けていただいたようだ。礼を言う、戦士殿。……私はサルディス。旅の魔術師だ」
名乗りながらも、老魔術師の視線は戦斧から離れない。
刃でもなく、柄でもなく――そこに残るものを見ている目だった。
「しかし、戦士殿。お見受けしたところ、魔術師でもない、"深淵殺し"でもなかろう」
老魔術師が左手の指を振るうと、水の糸が斧の方にするりと伸びて、触れる直前に止まった。
眉間の皺が深まる。
「その斧から強い水の気配がする――この地に降臨したという"女神"のものか?」
「それとも――"女神の祝福"と呼んだ方が良いかね」
サルディスと名乗った老魔術師は、礼を述べながらも目を離さない。
感謝しているのは本当だろう。だが同じだけ、こちらを値踏みしている。
それを隠す気もないらしい。
"女神"という呼び方に、わずかな含みを感じた。
神殿と野の魔術師では、神や精霊の見方が違うと聞く。
この男も、突如現れた彼女を疑っているのかもしれない。――動機は違えど、今の私のように。
「……私もこの斧も、かつて“深淵殺し”だった。彼女に浄められた」
「呼び名は、あなたの好きに呼べばいい」
「だが、私は彼女をただ祀りたいのではない」
老魔術師が片眉を持ち上げた。興味を引かれたような表情だ。
ぐずぐずとベソをかいているリディアという少女の頭を撫でながら、続きを促すように見てきた。
「この斧に水が見えるというなら、あなたに頼みたい」
「神や精霊に届く話し方を、教えてもらえないだろうか」




