27.聖アイオリスの帰路 ◆★
16話「聖アイオリスの巡行」直後~
魔樹を形作る最後の裂け目が、空に縫い込まれるように消えた。
“向こう側”から漏れ出してくる毒気が収まり――私はようやく、息を吐いた。
私は腰の瓶に触れた。
封蝋は乾ききっていて、中の水はどこからも漏れていない。割らぬ限り、零れない。
瓶越しなのに、掌に触れると胸の奥に“泉の気配”が満ちてくる。
澄んだ冷えが、心臓の周りを一周して戻る。
※※※※※
斧と瓶、そして使命を授かった私は、示された方角で魔樹を見つけた。
広がりきって周辺を深淵に染め、空を裂き、世界を綻ばせる“亀裂”。
深淵殺しではなくなった私には、本来、決して届かないはずだった。
だが、銀の輝きを帯びた斧の刃は深淵に届き、降り注ぐ黒禍は祈りのたびに退いた。
この“一瓶の泉”は遠く離れたあの御方の泉と繋がっている。
私の祈りを届け、あの方の清らかな水の気配を返してくれる。
幾度となく膝が折れかけ、そのたびに胸の奥が洗われるように静まった。
――応えてくださっている。繋がっている。
崇敬が胸を満たす。また、あの御名を口ずさんでしまいそうになる。
※※※※※
「……アイオリス」
名を呼ばれた。零れかけた祈りを飲み込んで振り向く。
背後。深淵殺しの一団の先頭に立つ男――鎧の継ぎ目から、鱗が薄く浮き始めた皮膚が覗いている。
彼の声は硬い。折れそうな硬さだ。自らの芯に揺らぎを感じている者の硬さ。
私は戦斧の石突を大地に据えたまま、彼らへ向き直った。
彼らの武器は鞘の中で湿った呼吸をし、黒い血管のような筋が脈打つ。
深淵を殺すための道具であり、同時に持ち主を深淵へ近づける呪いでもある。
視線が合った瞬間、何人かが身を乗り出した。警戒と疑惑、そして隠しようもない羨望。
私は、かつて人前で兜を外せないほど異形化が進んでいた。
深淵殺し達は私の功績を称えながらも、私の有り様に自分たちの末路を見たはずだ。
だが私は今、黒に染まりながらも人の輪郭を取り戻している。
その事実が、彼らの根底を揺るがしている。
その気持ちが痛いほど分かる。
私も逆の立場なら同じ顔をしていた。
異形が進み、仲間の名を曖昧にし、刃を握る手が武器と馴染みすぎて離せなくなる者たちを見てきた。
誰もが正気と狂気の縁に立ち、最後は狂気の側へ足を滑らせる。
その奥底に、救いを欲する声を飲み込んだまま。
隊長格の男が半歩前へ出た。
「答えろ。あんたは……本当に、あのアイオリスなのか」
言葉と表情は尋問の形をしている。
だが、渇望が滲んでいる。
「……救われた、とは何だ。終わりではないと言うなら……今、ここで語れ」
視線が私の斧に突き刺さる。
清い銀の刃。黒禍の粘液の匂いもしない。深淵殺しの常識から外れる事象。
――それだけが通じると信じていたからこそ、狂気に身を浸せた。誰よりも、この私がそうだった。
彼らは私の姿を見て、希望を知ってしまったのだ。
取り戻せるのではないか。あの忌まわしい武器を、いつか捨てられるのではないか。
私は戦斧から手を離し、胸元に拳を当てた。
祈りの所作ではない。誓いの所作だ。自分を固めるための。
私が彼らに“多くを語れない”と告げようとしたのは、あの方の存在を世に伝えてよいか迷いがあったからだ。
その裁可をあの方に仰ぐべきだと――そう思い込もうとしていた。
だが、本当は違う。私は恐れていたのだ。
人々が、世界が、あの尊く美しい御方を知ってしまうことを。
知れば、渇きが集まる。救いを求める手が泉を囲む。
好奇と欲と権力が、あの微笑へ群がる。あの方の沈黙に勝手な言葉を貼り付け、都合よく祀り上げる。
あの慈悲深い微笑は、あまねく者にも等しく向けられるだろう。
私は浅ましくも、その眼差しと救いを独占したいという私心を抱いていた。
(ああ、なんという醜さだ、アイオリス……っ)
私の髪や瞳、肌が黒に染まったままなのは、この欲望への罰のように思えた。
だから、あの方はこの瓶を授け、私をお試しになられたのだろう。
――お前は救いを分かち合うことが出来るのか、と。
私は一度、深く息を吸った。
あの御方の意志を代弁するなど畏れ多い。不遜だ。
だが、あの方の名は遠からず世に轟く。深淵はそれほど蔓延っている――あの清浄な泉にも届くほどに。
あの御方は限りない慈愛と、深淵に対する断固たる意志をお持ちだ。
しかし、人の言葉を解されない。そこに誤解と曲解が生じる。
ならば私は、守り手として語るべきではないか。
私利私欲に塗れた者、救いだけを求めて泉を穢そうとする者――そうした人の垢から、あの方を遠ざけるために。
それに。
今、ここで彼らを突き放すことは、あの日救われた自分を見捨てることと同義だ。
私には出来ない。――あの御方も、きっと見捨てはなさらない。
私は瓶を掌に包み、胸元へ寄せた。
「分かった……話そう」
言葉が空気に沈む。
誰かがホッと息を漏らす音、武器を握り締める力がわずかに緩む音がした。
「私の救いが、誰かの救いになると信じたい――だからこそ、軽々しくは扱えないと思っていた」
隊長格の男が唇を噛んだ。
噛んだ血の味を飲み込む音が聞こえそうなほど、静かだ。
「……教えてくれ。あんたは何に祈っている」
逃げ道のない問いだ。
私は瞬き一つ分だけ迷った。
迷いの中で、あの微笑が浮かぶ。
私の迷いも醜さも受け止めてくださるだろう、あの微笑が。
私は息と一緒に、名を落とした。
「――イズミール。ある清浄な泉に住まう女神が、私の救い主だ」
名を口にした瞬間、心の中で祈った。
直後、空気が一段澄んだ。
彼らも感じたはずだ。手にした“深淵殺し”が、その清浄な気配に怯えるように、わずかに震えたのを。
誰かが呟いた。
「……いず、みーる……」
その音が喉を通るだけで、彼の目がわずかに潤む。
恐怖ではない。渇きが満ちかける時の反射。
私は言葉を続けた。
「慈悲深く、偉大な女神だ。あの御方は深淵を認めない。黒禍を、この世に在ってはならぬものとして退ける意志を持っておられる」
銀の斧に視線が集まる。
深淵殺しは神秘を信じない。頼らない。だからこそ、深淵の力で深淵に立ち向かう。
だが、神秘の力を借りた私が魔樹を断ったという事実を、彼らは目の前で見た。
それは言葉よりも雄弁な証しとなる。
「この瓶には、あの御方の泉の水が込められている」
「この水を通して、あの御方は私の祈りに応え、私を浄め、深淵を祓う力を授けてくださる」
隊長格の男が喉を鳴らした。
声にならない呻きだ。疑念と渇望、畏怖が混ざり合っている。
「……それは、俺達にも……」
「それはまだ、分からない。だが、お見捨てにはならないだろうと思う」
先に救われた者の立場からの、気休めと安請け合いだと恥じる心がある。
それでも、確信がある。あの方は心から救いを求める者を見捨てない。
「この場所に私を遣わしたのは御方だ。私は一度戻らねばならない」
彼らの何人かが息を呑んだ。
泉。女神の座。救いの起点。
隊長格の男が絞り出すように言う。
「……お前は、その姿を取り戻しても、まだ戦うのか」
「私は深淵への憎しみで武器を取った。それは今も変わらない」
彼らの目に、恐れや渇望だけではない光が戻った。
それは戦意だ。
復讐心、功名心、故郷や家族を守るという意思。
それを燃料に、自分を焦がしながら戦う道を選んだのが私達だ。
深淵殺しは狂気と共に在る。
しかし、その本質は理不尽に抗い、戦う者だ。
「あの御方は私に力と意味を授けてくださった。だから、戦える」
彼らが地に膝をつけたのはほぼ同時だった。
救いを求める渇きと、戦場へ赴く時の決意がその顔に見えた。
「アイオリス……どうか、俺達をそこに連れて行ってくれ」
「祈りを、教えてくれ」
私は一人ひとりの目を見た。
黒筋の走る目。涙を堪える目。怒りと憎しみで自らを立たせている目。
「わかった……道すがら、話そう」
私は彼らを伴って泉に戻ることを決めた。
その選択が、この先のすべてを分ける岐路になる――そう覚悟して。
※※※※※
彼らを見捨てないことが、あの方の裁可に反するのかどうかは分からない。
あの御方にとって重荷となるかもしれない。
――きっと、なる。
だが、女神イズミールに救いを求める者はこれから膨れ上がっていく。
その御力の及ばないところにまでも。
あの御方の手が届かない場所に、救いをもたらす者が必要だ。
私だけでは、その役目を果たし切れないだろう。
だから、彼らに手を差し伸べるこの行為は、綺麗な救いではない。
私はただ女神のために、彼らを再び地獄へ送り出す後押しをしている。
あの御方は、こんな私を御赦しになるだろうか。
あの微笑みと眼差しで、赦されてしまうのだろう。
泉へと向かう足が鈍りかける。
だが、その迷いを歩みで押し殺す。
私は瓶に触れ、胸の奥で名を唱えた。
(イズミール)
応えが、少し遅れて返ってくる。
その僅かな“間”が、私を嗜めておられるように感じた。
この先、多くの人々がこの尊き御名を口にするだろう。
そうなれば祈りへの応えも、今のようには感じられなくなるかもしれない。
けれど、今この一時は、この“間”さえも、私のものだ。
ああ、また罪深いことを考えている。
私は自省と自制を働かせながら、口では深淵殺し達に崇敬と節制を説く。
この矛盾を捨てられねば、私はいつか間違いを犯してしまうだろう。
あの御方の元に帰るまでに、せめてこの我欲を抑えねばならない。
※※※※※
帰還の旅路は、予想外の時を要した。
魔樹討伐の報が先に走ったのだろう。道の分岐に立つたび、人がいた。
半信半疑の目で、けれど縋るような目で、私を待っていた。
深淵殺しが一人、また一人と合流する。
鎧の継ぎ目から覗く鱗、黒筋、震え。
彼らは皆、問いを同じ形で抱えていた――“戻れるのか”と。
私はそのたびに語った。女神の実在を。その御名を、軽々しく使わぬことを。
祈りが願望に堕ちれば、必ず歪むことを。そして、祈りの所作を教えた。
救いを約束する資格は私にない。それでも、縋る手を払いのけることはできなかった。
やがて同行を求める者は、深淵殺しだけではなくなった。
浸蝕で身体の輪郭を失いかけた者。
深淵に故郷を奪われ、憎しみだけで生き延びてきた者。
家族の遺骨すら拾えず、帰る場所だけを欲する者。
列は長くなり、歩幅はばらばらになり、私の“帰路”は私一人のものではなくなっていった。
帰路でも黒禍は現れた。
魔樹の種、芽、裂け目の残滓。異形化した獣や人。
私は銀の斧を振るい、瓶に触れ、名を胸の奥で唱えた。
そのたびに澄んだ気配が満ち、身を蝕む毒気が退く。
――だが、祈りの“応え”は、少しずつ遠くなっていく気がした。
呼ぶ声が増えるほど、返るまでの“間”が伸びる。
それが私の欲のせいか、世の渇きのせいか――判別できない。
それでも、必ず祈りは届く。
あの御方は私も、救いを求める者たちも、切り捨てはなさらない。
黒禍の浸蝕に身体が耐え切れず、瀕死のまま言葉も祈りも失った少女がいた。
私は彼女を抱え、瓶の水に額を寄せて名を唱えた。
(イズミール)
返ってきたのは、遅れて届く澄んだ気配だった。
少女の黒ずみは引き、呼吸が――戻った。
救いは甘やかしではない。
あの御方の“線引き”は時に厳しい。だが、その根にあるのは、尽きぬ慈愛だ。
そして、こうした場面を幾度も重ねるうちに、同行者たちは私を別の名で呼び始めた。
女神の代行者。聖者。――“聖アイオリス”。
違う、と喉まで出かけて、飲み込む。
否定は容易い。だが否定の言葉は、彼らの最後の支えを折る刃にもなり得た。
私は自分を戒める言葉だけを、より強く胸に刻む。
選ばれたのではない。特別でもない。
ただ早く出会っただけだ。――それを、特別にしたがる心こそが最も卑しい。
足は遅れ、三ヶ月を要した。
ようやく、女神の泉を擁する森の“入口”が見えたとき――異変は、遠目にも分かった。
響く伐採の斧の音。幾重にも重なる釘を打つ音。荷車の軋み。人の声。
深く静謐で、獣道しかなかったはずの森の縁に、粗い“営み”が生まれていた。
切り出された丸太が積まれ、杭が打たれ、縄が張られている。
地面には踏み固められた新しい道の筋。
そして――森の奥、泉の方角を示すかのような印が目に留まった。
「……これは、一体……」
胸の奥で、嫌な予感が形を持つ。
いや――泉の瓶は、祈りには応えてくださっていた。
胸騒ぎを覚えながらも、私はその新しく生まれつつある人里に向かった。
<おまけ>
16.5.彼女着信中 〇
※16話「聖アイオリスの巡行」魔樹交戦中/17話「とまらない、やめられない」裏話
◆◆◆◆◆
水面が、ふる、と震えた。
空気が揺れるんじゃない。泉そのものが先に音を受け取っている。
“届いた”感覚がある。俺の体に声が触れて、震わせてくる。
『――イ…ズ……ミ……ル……』 ◆アイオリス:HP20%
低く、真摯で、腹の底から絞るような熱っぽい声。
寄り掛かってくるみたいに、引っ張り上げてくるみたいに、重たくて強い声。
距離の概念がない。俺のすぐ横で囁かれているみたいだ。
「――ひぃ!?な、なな……っ!? き、きき、木こり野郎ぉ……っ!?」
水面がぞわっと泡立つ。さっきの粘土弾より怖い。
見回すが誰もいない。いないのに「居る」。完全にホラー。
『――イズ…ミール……』 ◆アイオリス:HP12%
また来た。意識すると、さっきよりはっきり聞こえる気がする。
名前を囁かれると、ゴボゴボと水が湧きだして俺を満たす。いや、満たされてしまう。
あいつが祈りを捧げている時の感覚、そのものだ。
あの野郎が、どこかで、俺に祈っている。
嫌な想像が浮かぶ。
瓶だ。
あの中には俺の水が入ってる。たぶん。
俺はあの野郎に瓶を押し付けた。捨てろって思って。
でも、よくよく考えてみたら、あの野郎が、俺から受け取ったものを手放す筈がなかった。
あいつはそういう奴だ。
(おい……まさか、飲まずに持ち歩いてんのか?)
推しグッズどころか御神体だ。たぶん、拝んでる。
で、あれが中継になってる? 俺とあいつを結ぶホットライン。携帯代わり。
そんな馬鹿な。
『……イズミール――』 ◆アイオリス:HP6%
ゾワッと、じゅわっと来た。
ヤバい。ヤバいものをヤバい奴に渡した。
(お前、イケボASMRとか誰得なんだよ! やめろ! 囁くな! 祈るな!)
祈りが強くなると、水柱の圧も上がる気がした。連動してる。連動するな。
俺は歯を食いしばって腹の底に力を込めた。
操作じゃ届かない。
そうなると俺にできるのは――これ。
浄化。
よく分からないが気合いだ。気合いがあれば何でもできる!
囁き「来た」と思った瞬間、全力で、必死で浄化をぶち込む。
『――イズみ「うっるせぇぇぇ! 黙れやボケ! ぶっ飛ばすぞ!!!」』 ◆アイオリス:HP1%→100%
浄化、浄化、浄化。
それっきり祈りの声は途絶えた。
「……ふぅ……効くじゃねえか」
俺は前髪をかき上げ、息を吐くフリをする。
理屈は分からない。だが浄化は色々に効いてきた。
――また来たら浄化、とりあえず試してみよう。
あと、木こり野郎、てめぇは今度来たらぶっ飛ばす。
グーで殴る。泣くまで殴る。決めた。
※※※※※
後日、奴からの「着信」は時々来る。
この時々がミソ、一番イラッとくるわけ。
俺が「既読」をつけないと、連投してきそうで怖いから応えてるが、ぶっちゃけウザったい。
慣れたらパパッと返せそうな気もするが慣れたくない。
「アホ、ボケカス、俺の都合を察しろ!もっと俺のことを考えろ!」
悪態を吐く、当然返事はない。あってたまるか。ゾッとするわ。
――いや、待った。
“俺のことを考えろ”――は、なんか駄目な気がする。うん、ヤバい気がする。
考えるな、俺のことは考えるな、思い浮かべるな。祈るな。
『――イズミール』 ◆重度浸蝕者:HP5%
はい、来た。また、あのイケボ、木こり野郎の声。
思った矢先にこれだよ。なんなんだよ。
あの腐れイケメン、ちょっとツラが良いからって彼氏面か?
束縛系彼氏ってやつか? 顔が良ければ許されると思ってんだろてめぇ!
(無視無視、もう知らねぇ。俺、なーんも聞こえてませーん)
ヒレ耳に手を当てて聞こえてないフリをする。
デッカすぎて手で隠しきれねぇでやんの……。
『イズミール……』 ◆重度浸蝕者:HP2%
……。
お前さぁ……ほんと、お前さぁ……っ。
俺は腹が立ってきたので、森に響く声で叫ぶ。
「うるせぇーーーーっ! 知らねぇーーーーっ!!!」
結局、「既読」はつけた。 ◆軽度浸蝕者:HP52%
クソが。




