26.尊きその名と共に ◇★△
14話「フィフスエレメント(前編)」/15話「フィフスエレメント(後編)」の別視点になります。
森が薄く湿って、木漏れ日がいつもより柔らかい日だった。
私は、泉へと続く獣道の途中で足が止まった。
微かな違和感。張り出した枝の折れ跡。下生えと土に残る乱れ――これは人が通った痕跡だ。
胸騒ぎがして、私は泉へと急いだ。
茂みを掻き分け、泉の畔へと辿り着いて、息を呑んだ。
土が掻き返され、草が踏み潰され、地面は泥濘が乾いた跡のような畝を作っていた。
地面に点々と残る黒い滴りの痕に、心臓が冷えた。
私が拵えた祭壇も形を保っておらず、砕けた木片が散乱していた。
杯は割れ、皿も泥に埋もれ、あの方に捧げた木彫りのルテアの花も見当たらない。
私がいない間に、ここで何かがあった。取り返しのつかないことが起きたのではないか。
「……泉の御方……?」
水面は小波一つなく、透き通っている。
だが、その静けさが不安を掻き立てる。
泉に突き立っていた斧の柄が、無い。
私は、泉の縁へと歩み寄る。乾いた泥を踏み砕く音が酷く厭わしい。
膝をつき、水面を覗き込んだ。
斧は水底に屍のように横たわっていた。
手を伸ばそうとして、自分の浅黒い肌――黒禍の穢れの残る肌が目について、手を止める。
故郷、オルセイス終焉の日の光景が脳裏に蘇る。
城壁が燃え、石が砕け、黒がすべてを塗り潰した夜。
そして、神秘の泉は私の見ている前で黒く染まっていったのだ。
この澄んだ泉に私が触れていいのか。あの光景が繰り返されるのではないか。
拳を握り込む。指がぎしりと軋んだ。
目の前が狭まって、暗くなっていくように感じる。
私がこの泉に穢れを持ち込んだのではないか。
それがあの貴く美しい御方に害を及ぼしたのだとしたら――
私は両手を組み、泉に向かって頭を下げた。
これは拝礼の形を借りた逃避だ。
水面に映る、穢れを帯びた黒い姿を、まともに見ていられなかった。
「泉の女神よ……お願いだ、どうかご無事で……っ」
祈りとは言えない、身勝手な願いを叫ぶ。
たとえ私が災いを持ち込んだのだとしても――それでも、失いたくない。
「どうか、お願いだ……もう奪わないでくれ……」
言葉が喉の奥で擦れて、音になりきらない。
誰に向けた願いか分からないまま、私は泉の水面を見た。
また、応えてくれないのではないか――恐れに心が曇る。
その時、水面が煮え立つように揺れた。
渦が生まれ、泡が立ち、泉の畔の一角から水柱が立ち上がった。
次の瞬間、形が――人の輪郭が、そこに生まれた。
白磁の肌。水の色を纏った髪。枝のような角。変わらないあの微笑。
私は反射で跪いた。畏敬が膝に重さを与えたのではない。安堵が、膝から力を抜いた。
生きていた。ここにいる。失われていなかった。
そう思った瞬間、胸の奥が熱くなりすぎて、危うく泣きそうになった。
「ご無事で……おられたのですね……」
涙を堪える私に、女神はあの微笑を浮かべたままゆっくりと首を横に振った。
心配することはない、と仰るように。
そして、私の方を見て、声を発せられた。
『――〜〜―〜〜IZMIR〜―IZMIR〜〜――〜―〜〜〜―――〜―』
女神の声は清流のせせらぎのような音色として聴こえてくる。それは、耳ではなく心に響いてくる。
私はその楽の音を言葉として捉えられない――そのはずだった。
「貴女は、“いずまいる”と仰るのか……?」
せせらぎの中に同じ音――いや、言葉が――二度聞こえた。
偶然かもしれない、幻聴だったかもしれない。
だが、私にはそれが名前のように聞こえた。
聞こえた音を無理やりな解釈で言葉に押し込めて、聞き返した。
私の言葉に女神は僅かに身を乗り出して、頷かれたように見えた。
「やはり……“いずまいる”……それが、御身の名前なのですね……!」
先程までの嘆きと不安がどこかへ吹き飛んでしまう程の衝撃を受けた。
神秘が、祈りを捧げる高みの存在が、私に声をかけ、名を教えてくださった。
『――〜――〜〜IZMIR―〜〜――〜』
もう一度、今度も、はっきりと聞こえた。
私は息を呑んだ。名だ、と直感した。
だが、私の発音や抑揚が正しいか、確信が持てない。
胸に手を当てて、一拍おいてからもう一度、慎重に音を組み立てた。
「……いず……まぃる……ですか?」
正しい音へ近づこうとするほど、ずれているように感じる。
私の拙い問い返しに、女神は穏やかな笑みを称えたまま見守っている。
頷いてはくださらない。どこか誤りがあるようだ。
「では、い、いず……みあぃる……違うでしょうか?」
言葉の途中で女神が掌を向けてこられた。これも違うらしい。
ふと、あることに気付いて私は呼吸を止めた。
今、自然に女神と仕草による意思の疎通を行っていた。
人がするような仕草で私の誤りが正された、それを自然に受け取っていた。
気付かないうちに、私は目の前の存在――人知を超えた神秘――の中に、人に似た意思と心を見出してしまっていたのだ。
あまりにも不敬だ。
だが、一度それを意識してしまうと、崇敬とは違う感情が浮かびそうになる。
人のように……ましてや、女性として見るなど、あってはならない。
女神がしなやかな指で御自身の胸元に触れ、それから泉を指し示された。
私は反射で視線を逸らした。直視すべきではない。不敬だ。邪念だ。
この御方がこの泉を己の領域としているのは自明だ。
泉から現れ、泉から現れる様を目の当たりにしてきた。
――ならば、この仕草の意味するものは何か。
――今、その御名を言葉を尽くして明かそうとされるのは何故か。
私はこの方を、神、精霊――神秘という”概念”として捉えていた。
だが、この方はご自身が名を持った”個”であることを示されているのではないか。
その事実が、畏敬や信仰よりも深いものを胸に生んだ。
祈りの相手が、ただの“現象”ではなく、“誰か”として輪郭を持つ。
私は、その輪郭に触れたくなってしまう。
いけない。
私は胸の奥で自分を叱った。私は救われた者であり、守る者であり、捧げる者だ。
欲しがる者になってはならない。近づいた気になるな。
『I Z MIR』
女神が再び発したのは、はっきりとした言葉の形をしていた。
私が何度も聞き違えてしまう最初の部分だけを、聞き取れる言葉で紡いでくれた。
まるで、幼子に言葉を教えるように、心を砕いてくださっている。
――私に、ご自分の名前を伝えるだけのために。
その時、私は崇拝者の顔をしていなかっただろう。
ただの人間、ただの男として目の前の存在に惹かれてしまった。
胸が苦しい、心臓の鼓動が抑えがたい。
胸を押さえ、頭を下げ、深く息を吸う。
最初の三音は”いずみ”、それは明らかになった。もう間違えない。
「理解しました、”いずみ”――御身の名は、……女神"いずみーる"……」
訂正いただいた部分を復唱し、指摘を受けなかった柔らかな語尾へと繋げた。
(”いずみる”……”いずみーる”……イズミール)
心の中で名を唱える度に、すとんと腑に落ちるものを感じる。
顔を上げ、煌めく水面のような瞳を見つめて、今一度その名を唱える。
「――イズミール」
それ以上、言葉を続けられなかった。
続けるほどに、自分の感情が溢れてしまう気がした。
『~~――~ーー~――~――イズミール―~―~』
女神イズミールはあの微笑みを浮かべたまま、清流の唄声に尊き御名を織り交ぜて、もう一度私に聞かせてくれた。
私は胸の裡で何度も、何度も、その美しい名を繰り返した。
※※※※※
その後、私はどうにかして自分の名を伝えようとした。
身振り、手振りを交えて、自分を指し示して名を告げても、私の言葉が伝わらない。
それはあの方も同じようで、私に何かを問いかけ、伝えようとして届かないことにもどかしさを覚えているようにも感じた。
それでも、私に付き合って伝わらぬ言葉を交わし合うその時間は――
イズミールという御名で呼びかけると、眼差しを向けてくださる。
通じない言葉の応酬を無為と切り捨てず、根気よく付き合ってくださった。
不敬を承知で認めよう――至福の時だった。
ふと、女神イズミールが水面に顔を向けた。
細い指先を向けたその先には私の斧が沈んでいる。
「……イズミール?」
真意を計りかねて問いかけると、もう一度、斧を指差された。
そして、森のある方角に向けて手を振るった。
それは、まるでこの斧を手に、そちらへ向かえと言っているようで。
”使命”、という言葉が思い浮かんだ。
黒禍を祓い清められた斧を、私に預け、進むべき道を示されたのではないか。
だが、私にその”使命”を受け取る資格が本当にあるのだろうか。
穢れたこの身が清い水に触れて、あの銀の輝きに触れることが赦されるのか。
浸蝕の痕の残る掌を何度も握り直す。
私の迷いを見透かしたように、女神が唄う。
『――~~~~―――~―~―~』
女神は、私の逡巡など意に介さぬように、手を上げた。
次の瞬間、泉が割れた。
「泉に道が……!」
水が左右に押し退けられ、透明な壁となって静止する。
畔から水底まで、一本の空洞が生まれた。そこへ外気が滑り込み、湿った砂利の匂いが立った。
水の中にあるはずの斧が、乾いた空気の中で、別の物質のように輝く。
女神が、その斧を指した。
私は硬直した。泉へ踏み入れることの不敬が、体に染みついている。
だが、女神の指先は迷いがない。私の躊躇を赦さない力強さがあった。
そうだ、この方はただ穏やかで優しいだけではない。
黒禍を、深淵の存在をこの世に認めない、強い意志を兼ね備えておられる。
私は、自分がこの斧を拾う資格があるのか、ないのか、それを測る術を持たない。
だが、女神イズミールは私に道を示された。
ご自分の領域――水底に私を招き、あの銀の斧へと導いている。
女神が私に資格があると示されたのだ。
――その裁定に否と叫ぶ心を私は持たない。
私は水の壁に触れぬように畔から水底へと降りた。
湿った砂利が靴底に鳴り、奇跡によって浮かび上がった道を進む。
斧の柄に両手をかける。冷たく、重い。
だが、私の手は拒まれることなく、それを手にすることが出来た。
斧を手にした瞬間、胸の奥の何かが、ようやく定位置に戻った気がした。
失ったものを拾い直したのではない。女神から”使命”と共に”授かった”のだと感じた。
斧を手に、膝をつき、頭を垂れて拝領の意を示す。
「我が女神……イズミール……」
(この身、この心は、ただ貴女の為に)
私はそのまま指し示された方角へと向かうつもりでいた。
だが、短い声が届いた。
『――~―』
制止の声だと感じて、その場に跪く。
水の壁の中から、球状の水の塊が現れ、私の前へと漂ってきた。
その中に一本の瓶が浮かんでいる。
分厚いガラスの瓶、蓋が蝋で封されている。これはおそらく油瓶だ。
だが、中身は透明に見える。
これは一体。
女神は瓶を指差してから、ご自身の胸元に手を当て、次いで、私の手を指差した。
まさか。
あの中には泉の水が入っているのか。
それを、私にお預けになる?
使命の旅路の中でも、私と共にあるのだと、そう仰るのか。
私は息を呑み、震える手を差し出した。
水の球は私の掌の上で形を失くし、穢れた指に清く冷たい水が触れた。
皮膚の上を滑るその温度に、胸の奥がひくりと跳ねる。
拒まれなかった。罰も、痛みも何も起きない。
残ったのは瓶の重みだけだ。
透明な水が封の内側で微かに揺れ、日差しを返して細い光を折る。
油瓶の形をしているのに、油の匂いがしない。
蝋の封には漏れも濁りもない。矛盾の塊が、当たり前の顔で私の掌に座っている。
「……私と共に……」
声が勝手に零れた。
言葉にした瞬間、背筋を冷たいものが走る。
――違う。これは私のものではない。
私が「持つ」などという言い方をしてよいはずがない。
これは預けられたのだ。私はこの水――女神の分け身を運ぶ手足に過ぎない。
女神イズミールは微笑んでいる。
その微笑の前で、私は自分の心がいかに卑しく軽いかを思い知らされる。
瓶の意味を、都合よく解釈したくなる。
これを握っている限り、私は一人ではないのだと。
どこへ行っても、泉は私の背にあるのだと。
だが、同時に思う。
――これほどの神秘を携えて歩くことの意味を。
私の一歩が、誰かの渇きと欲を呼ぶ。
私の言葉が、女神の意志として曲解される。
私の失敗が、女神の名を汚す。
私が倒れれば、瓶は割れ、水は穢される。
私は瓶を胸の前に抱え、斧の柄を握り直した。
重い。だが、この重さは罰ではない。責めではない。――試されているのだ。
私は女神を見上げた。
「……イズミール」
呼ぶと、胸の奥が熱を帯びた。
それは高揚ではない。飢えでもない。もっと厄介な、誓いに似た熱だ。
私の中の何かが「定まる」感覚。言い訳も逃げ道も削られていく感覚。
女神は、森の方角を指したまま、微かに首を傾けた。
急かすのではない。追い立てるのでもない。
――ただ、道がそこにあると示している。
進むかどうかは私に託されている。
私は深く頭を下げた。
拝礼という形ではある。だが、さきほどのような縋りではない。
私は祈りに溺れるためにここへ来たのではない。
救われたことを免罪符にするためでもない。
(この身は、貴女の名を運ぶだけの器だ。
器の底が濁れば、運ぶ水も濁る――それだけは、決して)
立ち上がると、膝が僅かに震えた。
恐怖の震えだ。だが、逃げたい震えではない。
覚悟を持つための震えだと、自分に言い聞かせる。
水の壁に囲まれる水底を歩き、畔へ戻る。
足元の砂利が鳴るたびに、私は現実へ引き戻される。
奇跡の中から、黒禍の蔓延る森へ。
この先は奇跡だけでは進めない。私は人の足で歩かねばならない。
畔に上がった瞬間、荒れた祭壇が視界に刺さった。
砕けた木片。割れた杯。埋もれた皿。消えた花。
ここで起きたことの痕だ。
私が守ると決めた聖域が、私の不在で容易く汚れた痕だ。
そして、同じような理不尽がこの世には満ち溢れている。
胸が痛む。だが、その痛みを「悔い」に変えるのは簡単で、危険だった。
悔いは人を誤った道へと滑らせる。私はそれを身を以て知っている。
私は一度だけ、祭壇の残骸に視線を落とし、それから森の方角を見た。
この先に待つのは何であろうか。
魔樹か、黒禍に怯える者たちか、浸蝕を抱え、救いに縋る者たちか。
“深淵殺し”ではなくなった私に、それらを祓い、救うことが出来るのか。
不安はある。確証はどこにもない。
――それでも行く。
私は斧を肩に担ぎ、瓶を確かめるように握った。
瓶の中で、とぷんと水が揺れる感触が、私に進む力を与えてくれる。
振り返れば、また名を呼びたくなる。
あの微笑みを浮かべた瞳に、私を映して貰いたくなる。
だから私は、振り返らないまま、もう一度だけ胸の内で名を唱えた。
(イズミール)
木々の影へ踏み込む。
湿った土の匂いが濃くなり、光は薄くなり、森が私の輪郭を呑み込んでいく。
私は、歩き出した。
女神の名を胸に、託された銀の斧と、この“一瓶の泉”と共に。




