25.黄金の種を芽吹かせる者 ◆★
12話「黄金の種と、穢れをもたらすもの」/13話「勝利と、喪失」の別視点になります。
かつて、私は堅牢な城壁が安全な暮らしを守ってくれていると信じていた。
神々や精霊は、人に姿を見せずとも世界を見守っているものだと信じていた。
だが、城は落ちた。領主の旗は燃え、石壁は崩れ、何もかもが踏みにじられた。
人の力が及ばない災厄に、神も精霊も守ってはくれなかった。
オルセイスが深淵に沈んだあの夜、信仰は瓦礫の下で窒息した。
難民になって学んだのは、悲嘆と不幸がもたらす相場の変化だった。
泣き顔や困窮は相場を吊り上げさせる。
毛布一枚が夜ごとに値を変え、水袋の口が閉じているだけで値段が跳ねる。
弱みを見せれば高値を押し付けられ、見識が足らねば買い叩かれる。
以来、私が信じるのは黄金の重さだけだ。
ずしり、と掌に感じる冷たさ。天秤が教えてくれる純度の確かさ。
誰に祈らなくとも、積み上げれば増えるという単純な真理。
賎貨や手形は情勢によって容易く価値が減じる。
だが、黄金は発行元の国や都市が滅ぼうとも、確かな価値を残してくれる。
だから、私――商人ペッシヌスは、黄金の輝きと重さだけを信じる。
※※※※※
金の匂いは風聞の中に紛れて漂ってくる。
時には血臭や腐臭を伴う危険な噂の中に商機が潜んでいることもある。
私が嗅ぎ付けた金の匂いがする噂はこれだ。
――世界樹の森のどこかに魔樹が巣食っているのではないか。
――黒禍の化け物に襲われた者や村がある。
――森に隣接する街や国で不安を感じている者がいる。
この手の噂はその形を変えながら街道を流れる。
だが、その要点は同じ――人は恐怖から遠ざかろうとする。
人が集まらない場所では、物が不足する。不足は値を吊り上げる。
私は流民や難民に寄り添って、彼らの抱える財産を買い叩いて荷を軽くしてやった。
指輪、宝石、陶器、絵画。それらは黄金に比べて価値が脆い。崩れやすい。
悔しがりながら、泣きながら差し出されるたびに、私は心の中で舌打ちをする。
(馬鹿め、ものの価値を、時流を見誤ったのはお前だ)
(お前が盲信していたものが、黄金に劣っていただけだ)
荷を整え、森の縁の集落にも入り込み、欲するものを高く売りつけた。
薬。塩。油。縄。護身の刃。火打ち石。
恐怖を匂わせ、必要を煽り、値札を貼る。難しくはない。人は飢えだけでなく不安にも金を払う。
商いは上手くいった。
――だが、少々、上手くいきすぎた。
懐が暖かくなると、帳尻合わせをしようとやってくるものがある――油断。そして、不運だ。
※※※※※
ソレの咆哮は獣の声とはまるで違った。
湿った鉄を噛み砕くような、喉の奥から削り出される軋みのような唸り。
木々の影の隙間を「何か」が迫ってくる気配に気付いた時には遅かった。
歪な形をしたおぞましい化け物――黒禍だ。
安くない金で雇い入れた護衛は、自分の武器は“深淵殺し”なのだと嘯いていた。
その言葉に嘘は無かった。刀身に不気味な黒い筋の走るその剣は、確かに怪物に通じた。
だが、手傷を負わせられることと、勝てることは別だった。
護衛は怪物を一体仕留めたが、背後から現れたもう一体に押し倒され、頼みの武器を取り落とした。
それを見て私は即座に逃げに転じる決意を下す。
後ろで護衛の悲鳴が聞こえる。悲鳴がする間は追いつかれない。私は必死に駆けた。
背負い袋が肩を引きちぎりそうだった。金は重い。重いからこそ、捨てられない。
私は何度も頭の中で秤を振った――命か、袋か。
答えは簡単なはずなのに、足は袋を選ぶ。金を信じるとは、そういうことだ。
気づけば、獣道も川筋も分からなくなっていた。
走り、転び、泥を噛み、また走る。
咆哮が響く。背後に圧を感じる。
振り返ると、歪な肢で跳躍した怪物の姿がみるみる迫っていた。
私は悲鳴をあげ、背負い袋を投げ付けて逃げた。
捨てた瞬間、胸が空洞になった。
死ぬ、死んでしまう――まだ奪われた分も取り戻してもいないのに、どうして。
無我夢中で走って、走って、気が付くと目の前に泉が迫っていた。
しかし、急には止まれない。草地が唐突に途切れ、水面が口を開けていた。
足を踏み出した先にはもう地面がなく、私はそのまま水に落ちた。
冷たい水の中、恐慌から手足を振り回して藻掻く。
水底に足が着いた。水面から顔を出して肺に空気を取り込む。
思考が状況に追いついてくる。溺れる心配はなくなった。だが、追われていた事実は変わらない。
心が恐怖と絶望に染まり、身体が震え、股座から温いものが漏れ出す。
次に漏らすのは血か臓物になるだろう。
――その時、水面が、ぐらりと煮立った。
激しく波打って、泡立って、私を中心に渦を巻く。
そして、泉の畔付近の水面から水柱が立ち上がって――女が現れた。
この世のものとは思えない、という言葉を私は嫌っていた。安い修辞だ。詐欺師がよく使う。
だが、あれは本当に「この世のものではなかった」。
肌は白磁のようで、髪は水の色を纏い、枝のような角が頭から伸びていた。
纏う衣は水流がそのまま形を成しているかのようで、髪も衣も宙に漂うように流れる。
胸も、脚も、彫刻のように均整が取れていて――その顔に浮かぶのは穏やかな微笑。
息を呑む以前に、喉が乾いた。
私は、祈りそうになった。
オルセイスで死んだはずの信仰が、骨の奥から勝手に立ち上がる。
この美しいものは人ではありえない。「精霊」だ。「神秘」だ。
守ってくれるものが、まだ世界に残っていたのか――と。
その瞬間。
木陰から、異形が飛び出した。
左右で長さと太さの違う歪な四肢、地面をガリガリと引っ掻きながら歩くおぞましい歩き方。赤黒い汚濁に塗れた毛皮の下で肉と骨が蠢いていて、元が何の獣であったかも分からない。
黒禍の獣。魔樹に浸蝕された成れ果ての怪物。
「ひぃぃぃぃっ!!」
故郷を追われた時の悪夢が蘇り、悲鳴が漏れる。
『――~~―――~』
私の悲鳴に重ねるように、清流のせせらぎのような音が――いや、声が聞こえた。言葉なのか歌なのか分からない。
女はおぞましい獣を前にしても、あの変わらぬ微笑を湛えていた。
私は水に漬かったまま悲鳴を忘れてその横顔に目を奪われた――女が、手を上げた。
泉の水が立ち上がった。巨大な水の蛇が鎌首をもたげるように獣を見下ろす。
恐れをなしたように獣が後ずさり、怯えたような唸りを発する。
『~~―――~――~~―~~~――』
女が再び唄う。波打ち、ざわめいていた水面が一瞬で鏡のように凪いだ。
水に浸かった私が震えても、水面は波を立てない。
巨大な水の蛇が、音も、波一つ立てることなく凪いだ泉の中へと戻っていった。
あれほど巨大なものが沈むのに、水位は不自然に動く。
水面が静かに窪み、私はその窪みの底に取り残されていた。
泉の水は外へ向かって静かに溢れ出している。
一体何が起こっている。何を見せられているのだ。
奇跡は続く。
女が獣に手を向けると、水の球が、人型の水が、奇妙な形の水が、次々に現れて獣に相対した。
それはまるで泉と女を守る兵団のようだった。
『――~~――~―~』
『――~~―~』
『~~~――~』
奇妙な水の兵団は、女の唄声に呼応するように獣を追い詰めた。
水は黒禍の獣に苦悶の叫びを上げさせる。
獣の反撃を受けて水の兵の体が砕けても、形を失った水はなお動いていた。
『――~~―~~―~~―~~―~~~~』
女は水面に立って身動き一つしない。
微笑を浮かべ、清流のような声で歌い続ける。
そして、泉の周囲に溢れ出していた水が、生き物のように這い回って獣をあっという間に飲み込んだ。戦いにすらなっていなかった――
水の球に閉じ込められた獣の歪な体が溶け、崩れていく。
だが、それはただ壊れていくだけではなかった。崩れた体が少しずつ、一つの形に収まっていく。
セルバスだ。
森に棲むただの獣――黒禍の怪物がただの獣に変わった――いや、元の姿を取り戻したのだ。
ついさっきまで異形の怪物だったはずの獣は、自らの足で立ち上がり、怯えた声で鳴いて駆けて行った。
“深淵殺し”なら、異形と化したものを殺せる。だが、一度染まったものは元には戻らない。
人も、獣も、あらゆるものが――その筈だった。
私は膝から崩れた。助かった、と思ったのではない。理解が追いつかなかったのだ。
「救い」「奇跡」という言葉が現実の形を持って目の前に現れると、人はただ圧倒されてしまう。
女が、こちらを見た。どこまでも穏やかな微笑。
獣を追い詰めた時も、今もまるで変わらない。
私のすべてを見通し、見透かすような微笑みから、私は目を逸らした。
責められているのではない。責められている気がするだけだ。
……だが、その「気がする」ほど、私は自分の手を綺麗だと思っていない。
その時、私の目が澄んだ水の底に輝くものを捉えた。
砂の上で揺らめく光に照らされたそれは、種のように見えた。
だが、植物の種があの光沢を持つはずがない。
鉱物の黄金の照り。作り物ではありえない精緻さ。
神秘の泉に沈む黄金。
それを見た瞬間、捨てたはずの空洞に、その輝きが滑り込んだ。
私は、水の冷たさも忘れて手を伸ばし、それを掴む。
掌の中で、黄金は冷たく、私の信じる重さで応えてくれた。
その応えに、喉が鳴るのを感じた。
泉の神秘、奇跡に対する畏敬が唾と共に臓腑の中に沈んでいく。
代わりに浮き上がってくるのは、信仰を失って以来、自分を動かしてきた欲と打算だ。
拾い上げた黄金の種を懐にしまい込む。
『――~~』
女が短い音を発した。水滴が静かな湖面を打つような微かな音。
その声が私の行いを咎めているように感じて、焦りが生じる。
女から再び目を逸らす。すると泉の縁に、斧が刺さっているのが見えた。
柄は古いが、水の中に沈んだ刃は銀色の光を帯びていて、ただの斧ではないと感じさせる。
この種を持ってすぐにここを離れるべきだ、と直感が告げる。
だが、私は欲を張った。手を伸ばし、斧の柄に手を掛ける――持ち上がらない。
『―~~―~―~~~――~――』
女が私の方を見て、また、せせらぎの唄を口ずさんだ。
その微笑は私を憐れむようでもあり、赦すようでもあり、どこまでも静謐で穏やかだった。
その時、私の中に生じたのは怒りだ。
結局、救いは気まぐれに選ぶ。結局、私は“選ばれない側”だ。
あの日、救われなかった。信じたものに裏切られた。
「やめろ! 私をその目で見るな……!」
私は喚き、持ち上がらない斧の柄を遮二無二に揺らした。
水底で泥煙が立ち、銀の刃が見えなくなる。
難民の列の中から振り返った時、オルセイスの城壁の内から火の手が上がり、黒煙に包まれた。
その光景と重なって見えて、吐き気が込み上げてくる。
よろめき、柄を支えようとした時、斧は水底に没した。
泥中に沈んだそれを最早拾おうとは思えず、私は逃げ出した。
「信じるものか!!! 信じられるものは金だけだ――っ!!?」
私は、逃げた。黄金の種だけを握りしめて。
『~――~~~~―――』
女は水の大蛇や兵団を差し向けるでもなく、追っても来なかった。
楽の音のようなあの声だけが背中に響いてくる。
あの微笑が向けられているのを見たくなくて、振り返ることなく走り続けた。
どれほど走っただろうか。
息が切れて、肺が焼けるように痛んで、ようやく私は倒れ込んだ。
時間の感覚が無い。ずっと走り続けていたように思える。
そこで初めて、自分の衣服に大きな爪痕が刻まれているのを見た。
布が裂けて肌が露出し、布地に血の染みがこびり付いていた。
知らぬ間に、あの獣に切り裂かれていたのだ。
背筋に悪寒が走る。黒禍から負った傷は浸蝕を伴う。
だが、痛みはなく、皮膚が裂けていない。
代わりに、既に塞がった傷痕がそこにあった。黒い染みもない。
これはなんだ? なにが起こった?
答えは一つだ。
あの泉の水に触れたとき。
あの女――泉の女神の奇跡だ。
私は、笑った。……泣き笑いだったかもしれない。
今日一日でどれほど奇跡を目の当たりにしたことか。
あの日、どれほど望んでも現れなかった奇跡が、帳尻合わせのように群れをなしてやってきた。
あの女神は黒禍を畏れもせず、事も無げに浄化してのけた。
神秘は気まぐれに人を助け、人を見捨てる。所詮、人ではないものなのだ。
本当は、人の祈りや願いなど意にも介していないのだろう。
お前たちが自分の都合で好き勝手しようというのなら――今度はこちらが好きに使わせてもらう。
水の兵団。怪物を戻す力。傷を塞ぐ恩寵。
そして、黄金を生む“何か”。
私は泉から持ち帰った“種”を陽の光にかざした。
黄金の輝きは、私の心に平穏と熱を与えてくれる。
これは文字通り、金のなる木の種だ。
泉と女神は――金になる。
お前たちに人を救う気があろうとなかろうと関係ない。
その奇跡が本物であれば、如何様にも売り方はある。
神秘を信じなくなった私が、神秘を「商品」として信じ直す瞬間だった。
※※※※※
まず必要なのは、物語だ。
人は実体のない奇跡を買わない。奇跡に金を出させるには“実績”と“筋書き”が必要だ。
“実績”は十分すぎるほどにある。浄化と治癒の奇跡を証明するものは今はない。
だが、この黄金の種は確かにここにある。
この造形は人知を超えたものだ。これが泉の神秘を信じさせる一つ目の足掛かりだ。
そしてもう一つは、先に“場”を作ることだ。
あの場所を聖地に仕立て上げる。社、祭壇、神殿を建て、人を送り込む。
聖地の看板に人を集め、街にして、あの泉を囲い込む。
――女神の住まう神聖なる泉、救われた男、奇跡が顕現した地。
今はただの幻想に過ぎない。だが、私はその実在を知っている。
どんな形であれ、もう一度顕現した瞬間に、あの女は“実績”になる。
私は森の縁の集落に戻り、話を撒いた。
「黒禍を祓い、人を救う女神の住まう泉がある」
「いかなる傷をも癒す水が湧く」
「泉は富をもたらす」
真実と虚偽を混ぜる。混ぜた方が飲みやすい。
真実だけでは薄い。虚偽だけでは臭う。商いの基本だ。
次に、目に見える証拠――黄金の種を用いて、出資者を募る。
元手を得たら、それを転がしてより大きな金を集められる“筋書き”を作る。
真実かどうかなど誰も気にしない。
この“筋書き”に乗れば、奇跡を求める者たちから金を吸い上げられる――そう信じさせればいい。
護符、瓶詰めの水、女神のもたらした黄金。手に取れるもの。持ち帰れるもの。
誰かに見せびらかせるものを用意して、売り捌く。
物語は独り歩きして、やがて黄金を背負って帰ってくる。
私は大工を雇った。
狙いは出来栄えではない。
まず人を泉へ近づけ、女神がどう振る舞うかを見ること。
社は、その最初の起点に過ぎない。粗くても立てばいい。
目印になり、人が手を合わせる“形”になれば十分だ。
危険な辺境行きを渋ろうとも、金の力があれば頷かせた。
そうして、社を建てさせた。
効果は覿面だった。
あの女神は軽率にも大工たちに神秘を体験させたらしい。
戻ってきた時、彼らは信奉者の顔をしていた。
これで、私の証言以外の“実績”が生まれた。
黄金の種はプルヌスの種の形をしていた。
だから試しに――華美な皿に、プルヌスの実を山と盛って供えさせることにした。
これも試しだ。あの女神に黄金を生む力があるのかどうか。
無かったとしても別に構わない。新たな黄金の種が生まれれば僥倖だが、この種が唯一無二のままなら、それはそれで価値を吊り上げられる。
もう、この黄金の種は芽吹いたのだ。
後は奇跡を信じる者たちを土壌に、芽を育て、金のなる木へと伸ばしていくだけだ。
※※※※※
準備を進めているうちに、別の噂が流れてきた。
――“深淵殺し”のアイオリスが、生きていたというものだ。
私はその名を“深淵殺し”として名が知れ渡る前から知っていた。
城塞都市オルセイスの若君。その名が英雄譚のように語られる滑稽さに笑ったものだ。
流民となったオルセイスの民を見捨て、“深淵殺し”として死んでいくのか。
世界樹の森で消息を絶った、死んだ、と噂されていた。
噂自体が実体を持たないものであったり、古い情報なことは多々ある。
だが今回の噂は、妙に具体的だった。
異形化が収まった姿で現れた。銀の斧を振るった。魔樹を一人で討伐した。
そして――ある女神の名を唱えていたのだという。
“深淵殺し”たちの間で、アイオリスと彼が信ずる女神の名が、希望の象徴のように広まりつつあるのだと聞いた。
――その女神の名は『イズミール』
歴史や伝承の中にも聞き覚えのないその音に、私は何の畏敬も抱かない。
だが、アイオリスにまつわる噂には、私の体験といくつか符号を感じた。
異形化からの復帰、銀の斧、そして女神。
泉の女神には、名前が必要だ。
作品を商品として売り出すには、題名が重要なのだ。
私はこれらに使い道を理解した。
アイオリスの功績も、泉の女神の売り込みに使える。
英雄が口にした名は、人を動かす。人は英雄の背中を見て、安心して金を払う。
関係や真実など、どうでもいい。
奇跡の泉の女神を『イズミール』として売り出す。
アイオリスはその加護を受けた聖者に祭り上げる。
噂を作って、それを真実にする。
人は「真実」を信じるのではない。「信じたい話」を真実だと呼ぶ。
私は黄金の種を掌で転がした。冷たく、重い。
これから行うことは、神話と信仰の捏造だが、その全ては投機だ。
元手が増えるかどうかは、私の腕次第。
金だけを信じる私が、神を“売りもの”する。
神の側がそれを望まなくても、関係ない。
――女神よ、私がお前を黄金に換えてやる。




