124.水から、巡る物語④ 〇★△
稽古場を囲んでいた水流の壁がほどけると、アイオリスとミュカレが並んで戻ってくる。
どちらも怪我らしい怪我はなく、ミュカレは稽古の時に変えた男の姿のままだった。
『父上、ありがとうございました。前よりは、少し形になったと思います』
「ああ。受けるだけでなく、相手を動かすこともよく考えられていた。
だが、最後の踏み込みは少し急いだな。あれでは狙いが透けて見える」
『はい。僕も、振った後でそう思いました』
「自分で気づけたなら、次に繋げられる。こちらも良い稽古になった」
反省会まで楽しそうだな、お前ら。
「お疲れさん。そのまま水底のリフォーム工事を始めるのかと思ったぞ」
「すまない。少し熱が入った」
『父上がお付き合いくださったので、つい』
「揃って反省してる顔じゃねえな」
俺が呆れていると、待ってましたとばかりに双子が飛び出してきた。
『『とうさまが、すっとして、ぶんってやったとこ、すごかった!』』
二人揃って両腕を横へ振る。
『『にいさま、しゃーってして、しゅっ、くるっ、どーん!』』
今度は同時に一回転し、最後だけ両手を上げた。
たぶん本人たちの頭の中でだけは、さっきの手合わせが完璧に再現されている。
「主語と擬音しかねえんだよ。何がどう凄かったのか一個も分からん」
『ああ、最後の打ち合いですね。父上が踏み込まれた時の』
「私が間合いを外したところまでよく見ていたな。
その後の、ミュカレが軸をずらしたところは良かった」
アイオリスが普通に頷いた。
『『うん! とうさま、すってして、にいさまがね、しゅっ!』』
今度は二人で身体を横へ滑らせて、当たらないパンチを繰り出しながら流れていく。
するとミュカレまで、『あれは偶々です』と苦笑いした。
「なんであれで会話が成立してんだよ」
わけの分からん独自規格を勝手に策定すんな。技適を通せ。
俺だけ置き去りで勝手に盛り上がりやがって。
まあ、どいつもこいつも満足そうだからヨシとしてやるか。
ミュカレが社の脇へ棒を立てかけると、その衣の端を掴んでくっついてきたリュキアが、アイオリスとミュカレを交互に見上げた。
『ねえさま、とうさま……けんか……ヤー』
アイオリスがリュキアの方へ膝を折った。
「リュキア、あれは喧嘩ではないよ。互いの技を確かめていたんだ」
それを聞いても、リュキアはすぐには頷かず、今度はミュカレを見た。
ミュカレも腰を屈め、微笑みかける。
『そうだよ。喧嘩じゃなくて、教えてもらいたいことがあって、僕から父上にお願いしたんだ。
心配してくれてありがとう、リュキア』
二人の顔を確かめてから、ようやく、よかったと言うように小さな手の力が抜けた。
『……うん』
稽古をするたび、この確認までが恒例になっている。
アイオリスもミュカレも、またかとは言わない。その都度、同じように答えて安心させる。
あれだけ派手にやり合ってりゃ、見ていてハラハラするのも分かる。
そのやり取りを眺めていたら、つい笑いが漏れた。生まれて早々、父親を敵認定して俺との間に立ってた奴が、今じゃそいつと並んで「喧嘩じゃないよ」と説明してやがるんだからな。
『……母上?』
「いや、なんでもねえ。お前もすっかり教える側だなと思ってさ」
ミュカレは少し不思議そうな顔をしたが、リュキアが手を握ってくると、そちらへ向き直った。
今さら黒歴史を暴露するほど、俺も鬼じゃない。
『『あとね、あとね、とうさまがばーんって――』』
ひとしきり双子が騒いだところで、俺はリディアへ話を戻した。
「で、そろそろ聞いてもいいか。ミューズを驚かせるって、結局何するんだ?」
俺が訊くと、ミュカレもリディアへ顔を向ける。
『僕も気になっていました。僕は何を手伝えばいいんでしょうか?』
『『それもないしょ? ないしょのないしょ!』』
当たり前のようにアイオリスの両隣を占拠する双子が、ろくに話も聞かないうちから騒ぎ出す。
「その『内緒』の中身を聞いてんだよ。打ち合わせだけじゃなくて準備にも時間が必要だろうが」
「そんなに特別なことをするわけではありません。ただ、少しびっくりさせようと思って」
「それは昼間も聞いた。こっちにも段取り教えろよ」
「実は、それも含めて今から考えようと思っていまして。
歌や踊り、贈り物は、もうたくさん受け取っているでしょうから」
「まさかのノープランかよ。お前にしちゃ珍しいな」
「おかあさんたちが帰ってきていること自体が、あの子には一番の贈り物になりますからね。
みんなで揃って出迎えて、祝ってあげれば十分かなと思っています」
「まあ、今から芸を考えろって言われても困るし、そんなところか」
『では、僕たちはここに集まっていればいいんですね』
「はい。ミュカレには、その子たちが外に飛び出さないように見ていてほしくて」
『『とびださないよ?』』
「言いながらもう身体が浮き出してるんだが?」
「大丈夫だ、私もついている」
アイオリスが左右の腕で一人ずつ抱えると、双子は満足そうに収まった。
口で注意するより、あいつの近くに置いておく方が早い。子守りというより重りとして。
「じゃあ帰ってきたら、いっせーのーせで、おめでとうって言う感じか」
「ええ。でも、きっちり揃えなくても、ミューズは喜びますよ」
『『わたしたち、そろうよ!』』
「お前らは、いつでも揃ってんだろうが」
外じゃ救世神聖誕百周年だの、ご大層な行事になっているが、俺からすれば、うちの馬鹿娘の祝いの日だ。神殿で散々ヨイショされて疲れてるかもしんねえ。
帰ってきたら家族で祝う。それでいい。
「じゃあ、せめて配置くらいは決めておいた方がよくないか?
俺とアイオリスは、社の後ろに隠れて後から出て来るとかさ……」
「いえ、おかあさんたちはそのままでいいです」
「なんでだよ」
「おかあさんだからです」
「おい、なんだそれ理由になってねえ」
リディアとそんな押し問答をしていると、アイオリスの視線が俺の背後へ動いた。
「……ミューズ?」
なんだ、と思った次の瞬間、
『――わっ!』
「ぎゃああああッ!?」
すぐ後ろで声がして、背中を押された。俺に心臓はないが、今だけは絶対あった。めちゃくちゃ止まりかけた。
反射的に振り返ると、そこには、してやったりと目を細めたミューズがいた。
俺の悲鳴がよほどお気に召したのか、口元まで笑いを隠せていない。
『ママ! びっくりした?』
「したわ! 殺す気か! 俺を誰だと思って――って、おい」
文句を言いかけて、別のところで言葉が止まる。
「お前、なんでそんな恰好で――」
「ミューズ、そこに――」
俺の言葉へ、アイオリスの声が重なった。
双子を抱えたまま上半身を捻っているが、その視線の先は俺の背後じゃない。
『あ』
あいつの向いた先に、もう一人、ミューズがいた。
驚かせようと伸ばしかけた手を、中途半端なところで止めている。
アイオリスも動きを止め、そのミューズから俺の横へ視線を戻した。一人目がまだ笑っているのを見て、もう一度、目の前の顔を確かめる。
「……?」
僅かに首を傾げたその時。
『わっ!』
「――ッ!」
さらに別方向から三人目が飛び出し、さすがのアイオリスも肩を跳ねさせた。
双子ごと半歩だけ身を引くと、三人目はそれを見てガッツポーズ。一人目も二人目も、同じ顔で笑っている。
『やった!』
『きこりやろうも、びっくりした!』
『ミュィィ! やったぁー!』
『『とうさま、びくってなった!』』
双子の歓声に、アイオリスは背後を確かめ、それから目の前の顔をもう一度見る。
三人を見終えて、ようやく息を吐いた。細かな泡が上っていく。
「……これは、驚いた」
リュキアがミュカレの衣へ身を寄せ、その脇から三人を覗いている。
ミュカレも目を丸くしたままだし、リディアまで口を開いたままだ。
「ちょ、待て待て待て」
俺は三人を順番に見た。視線を動かすたび、同じ顔がこっちを見返す。
三人とも「やった」と言いたげな顔をしているのが実に腹立たしい。
真っ先に浮かんだのは、ミュルナとミュリナとミュシアが、一人ずつミューズの姿を取っているという答えだった。
ところが、水を感じ取れば、一人目にもミュルナがいて、ミュリナがいて、ミュシアもいる。
二人目も、三人目も、同じだ。
俺がこいつらの水を間違えるはずがない。
目の前の三人は、どれもミューズだった。
「……なんだこれ」
そこで、リディアが小さく咳払いをした。
「ごめんなさい、おかあさん。私、ひとつだけ嘘を吐いてました」
「お前もグルかよ!」
『……義姉上が、嘘を?』
ミュカレまで三人の姉からリディアへ顔を向けた。
ショック受けるとこはそこじゃねえだろ。
リディアはその顔を見て、申し訳なさそうに笑った。
「ミューズにはまだ伝えていないって言いましたけど、あれが嘘だったんです。
家族でお祝いをするのも、ミュカレに手伝ってもらうのも本当ですよ」
「じゃあさっきの『びっくりさせる』って」
「はい。お二人を、です。大祭の間にお二人が帰っていらしたら、こちらから驚かせようって、ミューズと前から話していたんです」
サプライズを仕掛ける相談を受けたと思ったら、それ自体がサプライズだった。
してやられたが、まだ説明されていないことがある。俺は三人のミューズを指差した。
「じゃあ、これは?」
「……いえ」
リディアも三人を見た。
「これは聞いてません。お二人を驚かせるところは、任せてほしいって言われたので……」
「お前も知らねえのかよ!」
『『『リディアも、引っかかった!』』』
三重奏がうるせえ。共犯者まで被害者側にしてんじゃねえか。
「つーか、お前、本当なら夜更けまで祭りだったろ。なんで今もういるんだよ」
『今日は、ちゃんとお話して、先に帰ってきたの』
「救世神様が自分の百周年祭を早退していいのかよ」
『明日も明後日もあるから大丈夫!』
「その大丈夫、どの程度信用していいんだ」
まあ、勝手にバックレてきたわけではないらしい。
「俺らが帰ってきてんのも、知ってたのか?」
『うん。お昼から分かってたよ』
「私も、お二人にお会いする前から知っていました」
「昼から仕込んでやがったのか……」
俺が呆れている横で、アナトリアとイオニアが何を思ったのか、揃って胸を張った。
『『だましてわるいがー!』』
「お前らは何もしてねえだろ」
『『えへへー』』
得意げに笑った直後、二人は三人のミューズを見比べ、今度は同時に首を傾げた。
『『ねえさまたち、なんでいっぱい?』』
聞きたいこと自体は俺も同じだ。答えを待っていると、三人のミューズは待ってましたとばかりに顔を輝かせた。
『ミューズは、三人で一人なの』
「知ってるし、そこじゃねえ」
別のミューズが指を三本立てる。
『三人だから、三倍えらい』
「単位がおかしい気もするが、そこもまあいい」
右のミューズまで胸を張り、左の奴も頷いている。
三倍えらい理論を議論していると先へ進まないので、続きを促した。
『それでね、みんなのお水を三つに分けるの。
ミュルナのお水も、ミュリナのお水も、ミュシアのお水も三分の一ずつ!』
「ほう」
そりゃあ、水だから分けるくらいはできる。
『それで、ミュルナの三分の一と』
『ミュリナの三分の一と』
『ミュシアの三分の一を、いっしょにするの』
三人が並んで、それぞれ両手を合わせた。
『『『一人分えらいミューズ! 完成!』』』
「……」
俺は一回だけ頭の中で計算した。三分の一が三つなら一で、算数としては合ってる。
問題は、分数の上に乗ってるのが、こいつら自身だってことだ。
『それで、まだ、三分の二、残ってるでしょ?』
『もう一回できる』
『オマケにもう一回もできる!』
三人がそれぞれ自分を指した。
『『『だから、一人分えらいミューズが、三人!』』』
「そうはならんやろ!」
だが、目の前には確かにミューズが三人いて、三人とも小首を傾げ、どこが分からなかったのかと俺の顔を見ていた。
「……なっとるやろがい」
現物を前に否定しても始まらない。ひとまず話を整理するために片手を上げた。
「よーし、分かった。足し算と割り算は合ってる。水を分けて動かすのも分かる。
けどな……なんで分けた先のどこにも、お前ら三人が揃ってんだよ!?」
『『『お水だから?』』』
「水だから、で済ますにはだいぶ飛躍してねえか!?」
『『『でも、できたよ?』』』
「できてんのは見りゃ分かるんだよ!」
『『ねえさまたち、すごい! いっぱい!』』
双子は大喜び。リディアも口元を押さえている。
俺は別に笑わせようとしてるわけじゃねえぞ。
そもそも、水の精霊に人間の身体感覚を当てはめようとしているのが間違いなのかもしれない。
でも俺も水の精霊で、こいつらの母親なんだぞ。なんで俺が一番分からねえんだよ。
「三人とも、今の三箇所を全部見てんのか?」
三人は少しだけ顔を見合わせた。
『三人とも一緒に見て、別々に動かしてるよ』
一人が比較的まともに答えた。たぶん今の説明はミュリナ寄りだ。
その同じ口が、今度はあっけらかんと続ける。
『どのお水もミューズだもの。動くよ?』
おう出たな、ミュルナ理論。「どれも自分の水だから動く」で全部済ませんな。
今度は別のミューズが、ミュシアらしい弾んだ声を上げた。
『いっぱい見えて、おもしろーい!』
「同じ質問への解像度がバラバラすぎる!」
水をまとめて動かすことなら、俺にも覚えはある。
水域が広がりきった時、一つ一つの場所へ意識を動かしてたんじゃ間に合わないから、まとめて見て、まとめて動かした。水なんて元から一続きなんだから、そういう扱いができてもおかしくはない。
でもこいつらは、三人それぞれを三つに分けて、三組とも「一人のミューズ」に組み直した挙げ句、全部まとめて「私たち」で済ませている。
「何? チームミューズ内で三班に分けたってこと?」
言ってから違う気がした。
「いや、どの班にも全員いるじゃねえか。班分けになってねえ」
『『『みんなでチームのミューズだよ?』』』
「それはもういい!」
横で黙って聞いていたアイオリスが、三人のミューズを順に見ながら言った。
「つまり、三人の意識が、三つの身体すべてを同時に知覚し、動かしているということか」
『『『そう!』』』
「先ほどの奇襲は見事だった。二人目までは気づけたのだが」
『二人いたから、びっくりした?』
「ああ。どちらも君だと分かったので、余計にな」
『『『やったぁ!』』』
気配察知の達人対策が、物量作戦と認識バグ。卑怯だが有効らしい。
「お前も納得してんじゃねえよ!」
「君も三人いる」
「俺のとは違うだろうが! こいつらは、一つの身体に三人ずつ入って、それが三つあるんだぞ!」
三人を順に指して数えかけ、ますます分からなくなった。
さっき家族で野球チーム一つ分揃ったと思ったばかりなのに、今度はこいつらだけで一チームできてやがる。
「九人じゃねえか! お前らまでミューズ・ナインを結成してんじゃねえ!」
『『『三人だよ?』』』
「もうやだこの水算数!」
ミュカレは三人に増えた姉を感心したように見ていた。
『姉上。いつから、このようなことができるようになったんですか?』
『新しくできるようになったの』
『いっぱい練習したよ』
『リディアに内緒で!』
三人は一斉に笑った。
完全に遊ばれてるんだが、リディアもとうとう堪えきれずに笑い出す。
「おい、共犯者兼被害者。笑ってないで騙されたことを抗議したらどうだ」
「すみません。でも、ミューズらしいなって、おかしくて、ふふっ」
『『わたしたちも、いっぱいになりたーい!』』
双子がアイオリスの両腕に収まったまま、ツッコミどころしかないことを言って笑う。
ミュカレの陰から三人を見ていたリュキアも、いつの間にか衣を離していた。
俺と目が合うと、皆につられたように小さく笑う。
「……満足したか、お前ら」
『『『うん!』』』
「いい返事しやがって」
百年経って、新しく覚えた技の使い道がこれかよ。
どうしてこうなった。……いや、うちの子だわ。
三人はそのまま互いへ近づき、顔を見合わせて笑いながら手を取った。
触れ合ったところから輪郭がほどけ、髪も、腕も、衣も、透明な水へ戻っていく。
三つの流れが中央へ寄って重なると、渦巻く水がもう一度、人の形を取った。
枝分かれした大きな青い角と、頭上に戴く氷の冠。
胸元には八海の龍珠をつけ、伸びやかな身体に白と青の衣と水そのものを纏い、長い裾をゆったり揺らしている。
そこに浮かんでいたのは、いつものミューズだった。
目を開けて俺たちを見た顔には、さっき三人で悪戯を成功させていた時と同じ笑みが残っていた。
『お帰りなさい、ママ、きこりやろう』
<TIPS>
「救世神ミューズ」
浄化と裁定の女神イズミールの愛娘にして、水を統べる大いなる女神。
三つの御名をその内に秘めた、偉大なる、偉大なる、偉大なる御方。
氷冠を戴き、八海の龍珠を胸に抱く女神は、人の祈りを聞き、その営みを見守る。
されど、人の歩む先を己が御心によって定めることはなかった。
救いとは、ただ神より与えられるものにあらず。
人が立ち上がり、手を取り、己が足で明日へ歩む時、その傍らにこそ女神は在る。
女神は御座所を擁するゴルディウムを、神都とはなされず、森都とされた。
そこは神が人を治むる都ではなく、人が集い、人が治め、母なる泉を抱く森と共に育つ都である。
故にその名へ己が威光を刻まず、森への敬意を留め、その治世を人の手へ委ねられた。
また、風も、火も、土も、木も、女神の臣下とはならなかった。
女神と名もなき御使いが残した凪の声は水辺を越え、人と精霊は互いに問い、互いに答え、共に歩む術を知った。
かくして、水のみが人を導く時代は終わった。
水より生まれた道は水を離れ、人と精霊の世へと流れ出したのである。
かつて母の腕に抱かれ、やがて人の傍らに立ち、なお来たる世を見守る御方。
水の女神は、世を水のものに留めず、その流るるを良しとなされた。




