EX(118.7).『水神宮外典・名もなき御使いの手記』④ ◆★△◇
『水神宮所蔵品・書簡五』抄
救いとは、ただ抱き起こすことではないのだと、私は後になって知った。
飢えた人へ糧を渡すこと。
眠ったままの人へ手を伸ばし、黄金の夢から呼び戻すこと。
泣き崩れる人の前に立って、もう大丈夫だと告げること。
それらは確かに救いだった。
けれど、その手をいつまでも離さずにいれば、人は歩き出せない。
貴女が差し出してくれた手は、私たちを座り込ませるためのものではなかった。
自分の足で立って、自分の手で火を守り、隣にいる人へ今度は自分の手を伸ばせるようになるためのものだった。
剣を持つ者は、過去から繋がるものを守るために。
帳簿を持つ者は、今日と明日の食卓を繋ぐために。
そして私は、貴女の言葉を、人が歩き出すための言葉へ変えるために。
私たちはそうやって貴女と共に歩いていく。
貴女に手を引かれなくても、同じ方へ。
御師匠様の部屋を出ると、廊下の向こうで若い神官が待っていた。
「カストール殿が、警備詰所でお待ちです」
「ありがとうございます」
私は小さく頭を下げる。
御師匠様から渡された文書の束は、思っていたより重かった。
紙の重さというより、そこに書かれている予定や役目の重さなのだと思う。
近隣の村々への視察。
復元予定地の確認。
聖地に繋がる道の警備。
それから、ミューズへ伝えるための人々の要望の聞き取り。
御師匠様に質問され、答えて、質問して、質問し返される。
やり取りの流れは、昔の講義と変わらないのに、立場と内容がまるで違う。
ミューズが笑って私の名前を書いてくれた朝が、少し遠いことのように感じる。
けれど、あの子の隣に立つと決めたのだから、逃げるわけにはいかない。
仮設神殿の裏手にある警備詰所は、同じく倉庫だった建物を改装したものだった。
入口には兵士が二人立ち、私を見ると姿勢を正す。
中に入ると革と金属、油の匂いがした。
「リディア様」
低い声。
出迎えてくれたのはカストールさんだった。
白い祭服姿の神官たちとは違い、カストールさんは簡素な鎧と外套を身につけている。
胸元には、ペリエレスの紋章ではなく、水と三枚葉を組み合わせた新しい印が留められていた。
それだけで、この人の立場が以前とは変わったのだと分かる。
「お待たせしました、カストールさん」
「いえ。こちらこそ、お呼び立てして申し訳ございません」
カストールさんはいつものように丁寧に頭を下げた。
けれど、その斜め後ろに立つ人影を見た瞬間、会釈を返そうとした私は一瞬止まってしまった。
カストールさんより若く見える男の人だった。
背筋を伸ばし、剣を帯び、こちらへ深く頭を下げている。
顔立ちは整っているけれど、どこか硬く、表情を動かさないようにしているのが分かった。
私はその顔を知っていた。
名前は後になってから知った。
オイバロス。
かつてはカストールさんの上官だった人。
この人がここにいることも、私は知っていた。
聖地が沈む直前、色々な都市から派遣されてきた部隊の間で対立があった。
だから、聖地を黄金から戻していったとき、兵士たちについては、急いで戻してはいけない、ということになった。
御師匠様とカストールさんたちで手順を決め、ミューズとイズミール様の力を借りて、アイオリスさんが居合わせた状態で一人ずつ、少しずつ呼び戻した。
戻された人たちは、最初に黄金の世界を見せられた。
森も、道も、見張り台も、逃げようとして固まった兵士たちも。
自分たちが最後に立っていた場所が、もう戦場ではなく、金色のまま止まった世界の一部になっているのだと見せられた。
それから、何が起きたのかを聞かせた。
聖地だけではなく世界が一度、水と黄金に沈んだこと。
ミューズが世界と人々を戻そうとしていること。
黒禍がもういないこと。
自分たちの都市が、今も黄金のまま止まっていることを知ったとき、多くの兵士が呆然としていた。
そして、帰る場所と争う理由もなくしたほとんどの人が、ミューズと聖地に従うことを選んだ。
オイバロスも、その中の一人だった。
彼が所属していたのは都市国家ペリエレス。
その名を思うだけで、あの夜の黄金の水場と、兵士たちの怒鳴り声を思い出す。
イズミール様と聖地の危機を伝えたのに、私は御師匠様と引き離され、天幕に閉じ込められた。
その命令系統の上にいたのが、オイバロスだった。
夜の森で、私はペリエレスとマグネスの双方からミュルナを引き渡すように迫られた。
矢が飛び交って、アイオリスさんが撃たれて、私が取り落としたせいで、ミュルナが地面に溶けた。
あの時、私はミュルナを死なせてしまったと思った。
今はミュルナも、ミュリナも、ミュシアも、一つのミューズとして笑っている。
それでも、あの夜、湿った泥を手で掻き集めようとしたときの感触は、すぐには消えてくれない。
あの夜のすべてを、この二人だけのせいにすることはできない。
それでも、二人とも深く悔いていることは知っている。
だからこそ、自分の都市の紋章を外してまで、この聖地を守ってくれている。
「リディア様」
カストールさんが、静かに呼んだ。
私がオイバロスを見て強張ったことに気づいたのだろう。
でも、カストールさんは言い訳をしなかった。
オイバロスも、何も言わずにもう一度頭を下げた。
また謝られても、私はきっと困ったと思う。
許してくださいと言われても、すぐに頷ける気はしない。
だから、その沈黙に少しだけ助けられた。
「……はい」
私は返事をして、机の前へ進んだ。
机の上には、地図が広げられている。
ズミュルナ湖を中心に、まだ黄金に眠る森、戻された道、見張りの位置、復元予定の村が細かく書き込まれていた。
「今回の視察は、慰問だけではありません」
カストールさんは地図の一点を指した。
「この村は、聖地へ薪と穀物を運んでいた集落です」
その指先が、地図の上を滑る。
そこに聖地と村を結ぶ道があって、人や物が行き来していたのだと教えてくれる。
「すでに周辺の道も一部戻されていますが、洪水の際に逃げ出した住人や家畜の所在、家屋の状態、井戸、倉、畑などを確認しなければなりません」
「戻せば、すぐ暮らせるわけではないんですね」
「はい。戻した場所に食糧がなく、水も使えず、周囲の道が黄金のままであれば、救済ではなく孤立になります」
その言い方は厳しかったけれど、だからこそ必要な話だと分かる。
「では、私は何をすれば……」
「村人たちの言葉を聞いていただきます」
カストールさんは迷わず答えた。
「御子様に戻していただきたい者、場所、畑、家畜。あるいは、今は戻さぬ方がよいもの。
それらを、ただの陳情ではなく、御子様へ届ける言葉として整える必要があります」
「私が、ですか」
「御子様へ、それを人の側の言葉として伝えられるのは、リディア様をおいて他におりません」
そう言われると、背筋が少し伸びる。
嬉しいわけではない。
ただ、逃げ道を塞がれたような気がした。
「警備も、そのためです」
カストールさんは続けた。
「御子様や女神様を害せる者は、もはやおりますまい。
ですが、御子様の言葉を人へ届ける者、神官長、帳簿を預かり、配給を握る者は皆、人間です」
私は息を呑んだ。
「脅すことも、騙すことも、取り込むことも出来る、ということですか」
「はい」
短い返事だった。
「ですから、我等がリディア様をお守りするのは、リディア様お一人を高く扱うためではありません。
御子様のお声が人々に届く道筋を守るためです」
御使い、聖女としての役割があるからこそ守る。
そう言いながらも、カストールさんは、私を聖女様ではなく「リディア様」と呼んでくれる。
この人は真面目すぎる。
だから、あの時も死のうとしたのだと思う。
私が、この服や呼び名に押し潰されないか。
そんなことまで気にしてくれているのかもしれない。
でも、私はもう、この役割を降りるつもりはない。
「……カストールさん」
「はい」
「私は、ペリエレスのことを、まだ怖いと思っています」
言ってから、少しだけ指先が冷えた。
オイバロスが、わずかに肩を動かした気がした。
でも、何も言わなかった。
「それでも、皆さんが今、聖地を守ろうとしているのも知っています。
だから……すぐに平気にはなれませんけど、自分の仕事をします。
皆さんが守ってくれることも、信じようと思います」
カストールさんは、深く頭を下げた。
「感謝いたします」
その声には、少しだけ掠れたものが混じっていた。
「我々もまた、許されたからここにいるのではありません。
生きて咎を贖えとの裁定を受け、御子様やリディア様を御守りするという誓いのため、ここにおります」
泡の丘で、イズミール様の水を浴びせられて、死ぬのを止められた時のカストールさんの顔を思い出す。
心の中でもつれた糸は、消えてなくなったわけではないけれど、今のこの人たちは聖地を守るために必要だ。
「明後日の朝、東の街道に向けて出発します。
護衛は十名。指揮は私が執ります」
「分かりました」
私が頷くと、カストールさんは地図を畳んだ。
詰所を出る時、オイバロスが横へ退き、道を空けた。
すれ違いざま、彼は声を出さずに頭を下げた。
私は少し迷ってから、小さく頭を下げ返した。
許したわけではない。
怖くなくなったわけでもない。
ただ、あの人たちもまた、眠ったままの世界から起こされたのだと思った。
黒禍を恐れ、御子を奪ってでも助かろうとした時代から、ミューズと共に広げていく新しい時代へ。
その場所で、何をして生きるのかを、これから選ばなければならないのだ。
※※※※※
警備詰所を出た後、私は神殿の裏手から仮執務所へ向かった。
同じ仮設の建物なのに、そこは詰所とはまるで空気が違っていた。
剣や鎧の匂いはなく、代わりに紙と墨と乾いた木札の匂いがする。
机の上には、帳簿が何冊も積まれていた。
壁には配給の割当表、復元予定地の一覧、働き手の名簿。
小さな木札を入れた箱が、いくつも並んでいる。
開け放たれた窓の外では、荷車を押す人たちが行き来していた。
木箱を抱えた若者が札を見せ、係の人が帳面に印をつける。
ただの木札一枚で、人の流れが変わっている。
「これは御使い様」
奥の机にいたヘレノスさんが、静かに立ち上がった。
相変わらず、隙のない礼だった。
慇懃で、丁寧で、こちらが逃げられないくらい正しい角度で頭を下げる。
御師匠様は、この人の名を出す時、いつも少しだけ眉間を険しくする。
でも、帳簿の前に立つヘレノスさんは、怖いというより、ひどく静かな人に見えた。
「お時間をいただき、恐れ入ります」
「いえ。神官長から、聖地の内情について聞くように言われています」
「神官長殿には、いつも話が早くて助けられております」
そう言って、ヘレノスさんは机の上の木札を一枚、私の前へ置いた。
札には、簡単な印と数字が刻まれている。
「これ、配給券ですよね?」
「はい。現在は、主にキーロとの引き換えに用いております」
「キーロ……」
私はその名を口の中で転がす。
それは、ある日、空から降ってきたあの巨大な黄金の大魚を指す言葉だった。
あれは遠い海を治める龍神様から、私たち人間に向けて贈られたものなのだという。
ミューズはその神様を「キーロイチゴー」「キイロイチゴウ」と呼び、慕っているようだった。
私がミューズの言葉を人々に伝えている中で、聖地ではいつの間にかあの魚をキーロと呼ぶようになっていた。
キーロ。
今でも聖地の食卓を支えている、神様からの贈り物。
「キーロは、黄金のまま留めおけば永久に腐らぬ食糧ですが、食料である以上、消費されます。
我々で在庫と流通を管理し、八龍様方から追加で供給された分も別帳簿で管理しております」
「別帳簿、ですか?」
「通常の収入や資産に組み込まないためです」
ヘレノスさんは、当たり前のように言った。
「聖地ゴルディウムは、元々、食糧の生産を外部へ依存しておりました。
この聖地は、祈りと商いと建設の場所であって、広い畑を抱えた農村ではございません」
私は壁の割当表を見る。
薪。
水。
穀物。
乳。
キーロ。
働き手。
これから戻す場所。
人が生きるための言葉が、細かな線と数字になって並んでいた。
「だから、皆にキーロを配っているんですよね」
「はい。キーロのお陰で聖地の食糧事情は大きく前進しました。
明日の食事を心配する者に家を建てろ、道を戻せ、畑を起こせと言っても無理な話ですから」
ヘレノスさんが帳簿の端を押さえると、薄い紙がかさりと鳴った。
そこには、見慣れない数字と、キーロの印が細かく並んでいる。
「当初は公平な配給制度で回しておりましたが、現在は、労働への対価としても配給券を渡しています。
配給券は確実にキーロへ替えられることを保証しています。そうなれば、人はその札を信用します」
「お金の代わりになっていると聞きました」
「ええ、その通りです」
少しも嬉しそうではない声だった。
「昔の貨幣は、今は信用が落ちています。
発行元の都市も商会も、まだ眠っておりますから。
金貨を持っていても、今日の食事に替えられるとは限りません」
ヘレノスさんは窓の外に目を向けて、薄く笑った。
「今や、黄金と食糧の価値は逆転しております。
対して、この札は食糧へ替えられます。
今後は備蓄を増やし、穀物への交換にも応じる予定です」
ヘレノスさんは、木札を指先で軽く叩いた。
「人は、食べていける明日を何よりも信じます」
とても簡単な言葉だった。
けれど、そこに含まれているものは重い。
泡の丘で、ミュルナたちが持ち帰るものに頼って暮らす日々は不安だらけだった。
神様からの贈り物のお陰で、その不安が減ったからこそ、町や村を早くに戻せた。
キーロは今も、日々の食事を支え、働くための理由にもなっている。
この木札があれば、明日の食事に困ることはないと信じられている。
「でも、それなら良いことではないんですか?」
私は思わずそう聞いた。
「キーロがあるから、皆さんは飢えずにいられるんですよね」
「良いことです」
ヘレノスさんは、すぐに肯定した。
「少なくとも、当座を凌ぐ手としては最善に近い。
私はこの仕組みを恥じてはおりません」
そして、少しだけ目を伏せる。
「ですが、これに頼り続けるならば、聖地はいつまでも神の恩寵なしには立てぬ場所になります」
その言葉で、胸の奥が少し沈んだ。
神の恩寵。
人々が感謝して受け取っているものを、ヘレノスさんはそう呼んだ。
冷たい言い方にも聞こえる。
でも、たぶん冷めた目線にしなければ見えないものがあるのだと思う。
「かつて、私の主は、女神イズミールの奇跡を看板に、この聖地に人と金を集めました」
ペッシヌス。
その名は口にされなかったけれど、誰のことかは分かった。
「救いを求める心、黒禍への恐怖、信仰。
主はそうしたもので、人を動かしてきました。
奇跡には、人を働かせ、金を出させ、同じ場所へ留まらせる力がありました」
「……今、していることも、同じ……なんでしょうか」
聞くのが少し怖かった。
ヘレノスさんは、誤魔化さなかった。
「はい、似た状況だと思っております」
静かな声だった。
「神々のもたらす奇跡や恩寵に札を付け、人を動かし、労働へ替えている。
その点だけを見れば、かつての聖地と大きく変わりません」
指先が、膝の上でぎゅっと丸まった。
ミューズの優しさを、誰かを縛る鎖にしたいわけではない。
けれど、今ここで配給を止めれば、人は飢える。
働くためにも、明日を作るためにも、食べ物は必要だ。
でも、その必要は、ミューズを縛る鎖にもなる。
「だからこそ、今の状況からの出口を作らねばなりません」
ヘレノスさんは、机の上に別の地図を広げた。
そこには、カストールさんが見せてくれた地図とは違う印がついていた。
畑。
倉。
牧草地。
街道。
市場。
工房。
「キーロをこの聖地の柱にし続けてはいけません。
これは村を戻し、畑を起こし、道と市を繋ぎ直すまでの時間を得るための猶予です」
「猶予……」
「はい。神々の恩寵を当然のものとして組み込めば、我々はそれらを帳簿上の数字と見ます。
神々を信用しないわけではありませんが、それらが失われたとき、人は路頭に迷うでしょう」
ヘレノスさんは机の上の木札を手に取って、引き出しにしまい込んだ。
「対価なく得られるものを、信用にしてはいけません。
そうすれば、私どもは恩寵に頼り切った暮らしから降りられなくなる」
ヘレノスさんの言葉は、帳簿の話をしているのに、どこか祈りに似ていた。
けれど、ただ信じて祈るのとも違っているように感じた。
「御使い様」
「はい」
「貴女の御言葉は、この札の信用を左右するものです」
私は木札を見下ろした。
「私の、言葉が」
「御子様は人々を飢えさせない。
御使い様がそう告げれば、人は安心します。
札を受け取り、働き、配給の列を信じて待つことが出来ます。
逆に、不安を感じさせれば、その信用は揺らぎます」
重い。
聖女様。
御使い様。
リディア様。
その呼び名が、今度は食べ物と仕事と札の信用に結びついていく。
「では、私は何と言えばいいんでしょうか」
自分でも、少し情けない声だった。
ヘレノスさんは、すぐには答えなかった。
少し考えてから、丁寧な口調で言った。
「神々の恩寵は、人を座らせたまま養い続けるためのものではございません。
飢えた者が自らの足で立ち上がり、歩めるようになるのを、支えるための糧です」
その言葉は口調ほど優しいものではなかった。
聞いた時、まず、ミューズの顔が浮かんだ。
大丈夫、と言ってくれるあの子。
水の手を伸ばして、人を救おうとするあの子。
でも、あの子もきっと、ずっと救う側でい続けることを望んでいるわけではない。
本当のあの子は、お母さんと一緒にいたい、遊びたい幼い子どもだ。
縋り付かれて、引っ張り上げるだけじゃなくて、ただ仲良くするために手を繋ぎたい。
そして、「行こう」と言ってくれる。
そういう子だ。
「自分の足で立って、歩き出すために」
私がそう言うと、ヘレノスさんは静かに頷いた。
「働ける者にまで、何も生み出さぬまま座っていてもらう余力はない、とも言いますが」
窓の外で、人の声がした。
兵士が巡回の合図を返し、荷を運ぶ人たちが道を空ける。
遠くでは、建設現場の槌の音も聞こえてくる。
剣を持つ人。
帳簿を持つ人。
柱を立てる人。
火を守る人。
皆が、ミューズの奇跡の上で、でも奇跡だけではない明日を作ろうとしている。
私は木札をもう一度見た。
ただの札だ。
けれど、そこには食事があり、仕事があり、不安をこらえて待つ人たちの明日がある。
ミューズの言葉を伝えるということは、優しい言葉だけを選ぶことではない。
人が座り込んだまま動けなくならないように。
神の手を借りても、最後には自分の足で立てるように。
私は、そのための言葉を選ばなければならない。
「ヘレノスさん」
「何でございましょうか」
「さっきの言い方、私にも使わせてくれませんか」
ヘレノスさんは、少しだけ目を細めた。
どういう種類の笑みなのかは、私にはよく分からない。
「もちろんでございます、御使い様」
御使い様。
その呼び名は、やっぱりまだ慣れない。
でも、その言葉で守れるものがあるなら。
その言葉で、人が歩き出すための道を示せるなら。
私は、その呼び名に、少しずつでも応えられるようにならなければならないのだと思った。
<おまけ>
118.3++.物言わぬ再会 ◇(118.3話「終末の後始末」の数か月後)
※※※※※
――ペリエレスのオイバロス。
その名を、私は以前から知っていた。
聖者と呼ばれるようになってからでも、深淵殺しになってからでもない。
故郷オルセイスが健在だった頃、最も近しい同盟関係にあった都市の一つがペリエレスだった。
父に連れられ、初めてペリエレスを訪れたのは十歳の頃だったと思う。
そこで、領主一族に連なる三つ下の少年と顔を合わせた。
その頃の私は、もう大人用の剣を扱えるようになっていた。
それが特別なことだとは、あまり思っていなかった。
親善のための試合で、ペリエレスの兵と打ち合った。
木剣を抱えた少年は、ずっとこちらを見ていた。
試合が終わると、彼は目を輝かせて、私の剣を褒めた。
手放しに褒められることに慣れていなかった私は、どう返せばよいか分からず、ひどく面映ゆい思いをした。
それから時が経った。
オルセイスは落ち、私は故郷を失い、父を失い、信じていたものの多くを失った。
それでも、イズミールと出会い、失ったものを抱えたままでも守りたいものを得た。
その後で、私はオイバロスの名を再び聞いた。
彼は、物言わぬ黄金になっていた。
カストールから上官の名を聞いた時、耳を疑った。
聖地への影響力と、自都市の安定のために、御子を確保し、ペリエレスへ連れ帰ろうとした者。
それが、かつて私を眩しそうに見上げていた少年だというのか。
だが、同時に得心もいった。
オルセイスが失陥した日、彼もまた知ったのだろう。
城壁も、同盟も、武名も、黒禍の前では絶対ではないのだと。
そして、かつて見上げた相手が故郷を守りきれず、深淵殺しなどと呼ばれる姿になったことにも、失望したかもしれない。
それは彼の罪を軽くする理由にはならない。
母のもとから御子を奪い去ろうとした判断は誤りだった。
リディアを怯えさせ、幼い御子を危険に晒し、母であるイズミールの心を傷つけた事実も消えない。
だが、あの時代は、誰もが少しずつ壊れていた。
黒禍は街を呑むだけではない。
まだ生きている者の心にも、次は自分たちだという恐怖を植え付ける。
守るものが多い者ほど、遠くの誰かを切り捨てる理屈を覚える。
私は、黄金となった彼の前に立った。
かつての少年は、御子を確保しろと叫びかけた顔のまま固まっていた。
怒りよりも、野心よりも、そこには焦りが濃く残っているように見えた。
赦すために戻すのではない。
責めるためだけに戻すのでもない。
彼にも示さなければならない。
黒禍に怯えていた時代が終わったことを。
そして、これからの世で何を守っていくのかを、自分で選ばせなければならない。
もし、彼がカストールのように己の行いを悔い、命を絶とうとするならば、今度こそ私が止める。
死は、償いにはならない。
生きて咎を贖え。
あの時、私はそれをイズミールの裁定として告げた。
だが、その言葉は、私自身の願いでもあった。
ミューズが、私を見上げた。
私は頷いた。
水が、黄金の頬へ触れた。
金色に固まっていた肌が色を取り戻していき、唇が、わずかに息を吸う形へほどけた。
私は、その最初の息を聞き逃すまいと、彼の前に立っていた。




