116.水から、深みに落ちる 〇★
この先、墓地 があるぞ
ああ――とても、ねむい。
瓶の口が砕けて、源流に触れた瞬間、世界があたたかく、やわらかくなった。
指先が、髪が、胸が、脚が、境目から静かに薄れていく。
痛みも苦しみもない。
ただ、輪郭がほどけていく。
とても恐ろしいことのはずなのに、奇妙なほど安らぎを感じる。
おかえり。
誰かにそう言われた気がした。
……。
違う。
違うだろ。
俺の帰る場所は、ここじゃない。
そう思ったはずなのに、反論する気力が溶けていく。
あまりにも眠い。
その時、俺の中にあった何かが遠ざかっていくのを感じた。
龍珠を通して繋がっていた、八つの海。
冷たい水も、荒い水も、深い水も、静かな水も、潮が引くように去っていく。
さっきまで動かしていた巨大な身体が、俺の水ではなくなってほどけた。
切り捨てられた。
そう分かった。
ジャガラモガラは言っていた。
俺が呑まれかけた時は、そうするって。
うん。
約束通りだな。
怒りは湧かなかった。
むしろ、ぼんやり納得していた。
俺一人に引きずられて、八つの海まで源流に溶けたら、それこそ全部終わりだ。
だから、切った。
グループを守るための合理的判断ってやつだ。
社長が解任かよ。
こんな時まで何考えてたんだ、俺。
ああ……また、ひとりか。
でも。
もう、ぼっちじゃない。
じゃあ、前よりはマシだろ。
ねむい。
……。
このまま眠ってしまえば、楽になれる。
もう、何も怖くない。
人間だった頃の鬱屈も。泉になった時の孤独も。祈られて変わっていく恐怖も。
全部、溶けて一つの流れに還る。
俺が俺じゃなくなる。
――それは、いやだ。
「イズミール!」
声がした。
近いのに、遠い。
でも、知っている。
アイオリスだ。
「イズミール、私を見ろ! 返事をするんだ!」
見ろ、と言われても、目がない。
返事をしろ、と言われても、喉がない。
必死な声だった。
普段の抑えた声じゃない。
森の泉で、俺を探して呼びかけた時みたいな声。
俺に、何が何でも応えを寄越せと迫ってくる声。
「イズミール!」
……ああ、うるせえな。
お前、近くでそんな声を出すなよ。
そんな声を聞かされたら、眠れなくなるだろうが。
俺は返事をしようとした。
けれど、声が出ない。
水がほどけて、音になる前に、源流へ薄まっていく。
そうだ、返事だ。
俺、こいつに帰ったら応えるって約束した。
まだだ。
まだ、言っていない。
俺はまだ、こいつに何も返していない。
俺が消えたらこいつはどうなる。
こいつはここで何を抱えて帰るんだ。
空っぽの割れた瓶か。
俺を守れなかった、失くしたって記憶か。
そんなものを抱えさせるために、ここまで来たんじゃない。
そう思った瞬間、少しだけ眠気が遠のいた。
俺はもう、保たない。
なら、俺は何を残せる。
このまま溶けて、誰でもない水になるくらいなら。
――お前の中がいい。
そう思った瞬間、金色の“わたし”が、隣で笑った気がした。
“あの人の中を流れる、赤いものになりたい”
そんな馬鹿なことを言ってたのを思い出す。
何言ってんだ、病気かこいつは、なんて本気で引いた。
でも、今なら少しだけ分かる。
このまま溶けて、ただの水に戻るなら、あいつの中の水になりたい。
俺は、ほどけかけた水を必死に集めた。
『……アイ、オリス』
声になったのかどうかも分からない。
それでも、あいつは顔を上げた。
「イズミール!」
『俺を……飲め』
アイオリスの目が見開かれる。
いきなり、こんなことを言われたら驚くよな。
俺だって馬鹿みたいだって思う。
でも、たまらなく眠いんだ。
『このまま、消える、なら……』
言葉がほどける。
あいつの顔が、泣きそうな、怒りそうな表情に歪んだ。
『お前の……中が……いい』
沈黙。
ほんの一瞬だったのかもしれない。
けれど、俺には長く感じた。
拒まれたらどうしよう、とは思わなかった。
もう、そういう余力もなかった。
「イズミール……」
アイオリスの指が、壊れた瓶の縁で一度だけ止まった。
迷いではない。
俺を失うことへの恐怖が、その一瞬だけ手を強張らせた。
「ずっと、君と共にある」
それだけ言って、アイオリスは瓶を口元へ近づけた。
瓶の中でとぷんと揺れる。
温かいものに触れた。
唇。
舌。
喉。
人間の中は、暗くて、湿っていて、熱くて、どくんどくんとうるさい。
あいつが生きていることを、俺に教えてくれる熱と音だ。
今、その中にいる。
それが、どうしようもなく安心できてしまった。
もう、声は聞こえない。
もう、何も見えない。
温かい暗がりの中で、俺の意識は、ぷつりと途切れた。
※※※※※
……。
目が覚めた。
いや、目なんてない。
まぶたもない。
手も足もない。
喉もない。
俺は、ただの水だった。
前にもこんなことがあった気がする。
暗くて、静かで。
自分が何なのか分からなくて。
ただ、そこに溜まっている水として目覚めた。
森の中の小さな泉。
意識の中を通り抜けていく小魚。
俺はその時、初めて、自分が水になったと知った。
でも、ここは森じゃない。
眼球がなくても、自分の水面に映るものが視える。
水の中にあるもの、底にあるものが判る。
金色の石床の窪みの中に俺はある。
階段というにはデカすぎる段々。
祭壇めいた平面。
崩れた柱。
そのすべてが黄金に染まっている。
龍宮。
東の海の底にあった、黄金化した巨大遺跡。
龍神ジャガラモガラの住処だ。
ただし、水が妙に少ない。
いや、少ないどころじゃない。
そもそも、深い海底にあったはずの場所なのに、青空が見える。風が水面を揺らす。
海底だったはずの龍宮が、今だけ干上がった谷底みたいに露出している。
そして、黄金の石床の窪みのあちこちには浅い水が残っている。
そのうちの一つ。
石床の窪みに溜まった、小さな水たまり。
それが、俺だった。
……は?
いや、待て。
何だこれ。
俺、今度は水たまりからやり直しか?
異世界転生一話に戻されたのか?
強くてニューゲームどころか、身体サイズまでリセットされてんじゃねえか。
身体っていうか、水だけど。
水たまりだけど。
俺、生きているのか?
生きている、でいいのか?
混乱して水面がぴちゃりと跳ねた。
その水面を、誰かが覗き込んでいた。
濡れた金の髪。
青い目。
ひどく顔色が悪いくせに、今にも泣きそうな顔。
アイオリス。
俺の水面が、ばしゃっと跳ねた。
生きてる!
こいつ、生きてる!
俺も、水たまりだけど、意識がある。
じゃあ、リセットじゃない、コンティニューだ。
俺は、生きている。
「イズミール」
アイオリスは笑おうとして、失敗したみたいな顔をしていた。
それでも俺の名だけは、ちゃんと形にして呼んだ。
その声が震えていた。
やめろ。
そんな声で呼ぶな。
こっちは今、水たまりなんだぞ。
涙腺もないのに、何かが決壊しそうになるだろうが。
アイオリスは水面に手を伸ばしかけて、止めた。
触っていいのか分からない、という顔だ。
水たまりの俺は、ばしゃばしゃ跳ねた。
ああ、くそ、水が少なすぎて、身体が創れない。
周りは黄金の石床ばかりで、動かせる水そのものが近くにない。畜生。
おい。
俺はここだ。
ここにいるぞ。
生きてるんだ。
なんか言えよ、おい。
馬鹿、やめろって、泣くな。
顔を上げろって……やっぱ上げなくていい。
全部、声にはならなかった。
水たまりが、ばしゃばしゃ跳ねるだけだった。
クソが。
『――目覚めたか』
横から、声がかかった。
高く細い声なのに、響きは妙に重々しい。
水面に白い影が映りこんだ。
そこにいたのは、巨大な白い龍ではなかった。
白く長い髪。
太い眉、やたら偉そうな目つき。
角と、耳のあたりに揺れるヒレ。
幼い少女めいた小さな身体を包む白い装束。
そして、古い海の気配。
のじゃ様だった。
アイオリスは、のじゃ様に一度だけ顔を向けて、また俺を覗き込んだ。
のじゃ様は咎めるでも頷き返すでもなく、そこにいる。
水面が、ぶくぶく泡立つ。
問いたい、問い詰めたい。
何だこの状況は。
何で、海の水ぜんぶ抜いちゃいましたみたいなことになってる。
何で俺は助かった。何がどうなった。
『申したいことは分かる。今は呑み込め』
ばしゃっ。
飲み込む喉がねえんだよ。
のじゃ様――ジャガラモガラは、黄金の石床の上にちょこんと立っていた。
しかし、その姿は妙に作り物めいている。
よく見れば、表情も口も動いてないし、姿勢も棒立ちのままだった。
『汝はありったけの水を寄越せと申した。ゆえに、あるだけを送った結果がこの様よ。
今の吾は、龍体を保つ水すら足りぬ。源流から新たな水が湧くのを待つしかない』
そう言われて、ようやく周囲の水の少なさに納得した。
なるほどね。
俺、確かにじゃんじゃん送れって言ったわ。
言ったけど、全部送れとは言ってないじゃん!?
ありったけと言ったからって、全財産を現場に突っ込むなよ。
しかも、ママからの仕送り待ちって何なんだよ、威厳があるのかねえのかハッキリしろ!
……いや、まぁ。
あのクソデカ重機を造るのに、水を寄越せって言ったの俺なんだけど。はい。
正直、すまんかった。
そう思ったら、少しだけ水面がしょんぼりした。
『案ずるな。汝は見事成し遂げたのだ。
源流に巣食う深淵を、番と共に消し去った。賞賛に値する』
アイオリスが俺のすぐ傍で膝をついて、何やら誇らしげに頷いた。
それを見て、いろいろと思い出した俺は固まった。
水だから固まらないが、気分的には氷だ。凍ったこともないが。
俺、こいつに飲まれたんだよな。
俺から言ったんだ、飲んでくれって。
このまま消えるくらいなら、お前の中がいい、とか言ってしまった気がする。
気がするじゃない。
確実に言ったし、そう思ってた。
氷気分の水面が瞬時に熱くなった気がした。
水たまりなのに、沸騰して蒸発しそうな気分だ。
「イズミール」
アイオリスが、そっと俺の名を呼ぶ。
やめろ。
今こっち見るな。声をかけるな。
俺は今、自分のあれこれを思い出して沸騰しそうになってるんだよ。
この上、余計な燃料を注ぐな。そんな目で俺を見るな。
のじゃ様の仮設ボディが、少しだけ目を細めたように見えた。
『まず、何が起きたか話そう』
よし、状況確認が先だ、情緒は水に流せ。
『汝の瓶が砕け、汝の核は源流に触れた。あの時、汝は還りかけていた』
分かっている。
抗うことすら忘れそうになるくらい、自然に眠りに誘われた。
『吾らは、約定通り汝との繋がりを断った。
八海を束ね、一つの海となった汝が還れば、吾らも同じ道を辿る。
吾らは、世界を元の姿に戻さねばならぬ。ゆえに、汝を切り捨てた』
水面が小さく揺れる。
怒りはない。
あれだけ大口を叩いておきながら、詰めをしくじったのは俺だ。
むしろ、今、こうして無事なのが不思議なくらいだ。
源流と直接繋がりかけたあの感覚は忘れられない。
どうして俺は助かったんだ。
疑問に、水面へさざ波が立つ。
『汝との繋がりを断つ前に、吾は己の龍珠の内に小さき身体を創り、核を移した。
そして、汝の見様見真似で、水路を繋ぎ直し、あの巨神を造り直した。
せめてキコリヤロウだけでも引き上げるためにな』
のじゃ様は簡単に言ってのけたが、とんでもないことだ。
一刻も早く接続を切らなければ、共倒れになるという状況の中で、即断即決したってことになる。
『正直に申そう』
ジャガラモガラの声が低くなる。
『吾は、汝はもはや還ったものと思っていた』
アイオリスの方に注意を向けると、その手がわずかに握り込まれていた。
その顔を見れば分かる。
あいつは、あの後のことを覚えているんだ。
源流の中で、俺を飲み込んで。
俺が無事かどうかも分からないまま、引き上げられた。
水たまりの俺は、何も言えなかった。
声がなくてよかったのかもしれない。
あったら、どう言葉にしていいか分からなかった。
『だが、汝は失われてはおらなんだ』
アイオリスが俺を見た。
『源流から引き上げた後、キコリヤロウの吐き出した水の中に、汝の核が残っておった。
汝の核は、キコリヤロウを器として源流に溶け切らずに済んだのだ』
はぁ!?
水面が弾けた。
じゃあ、俺ってこいつが吐き戻した水なのかよ!
理屈は分かるし、それ以外に手段なんかないだろうけど!
でも、水として吐き出されるのは、なんか複雑っていうか。
だって、俺はおいしい水のはずで、こいつに飲まれ……て……。
うぅ、自爆した。
また沸騰しそうだ。
完全に情緒がおかしくなってる。
アイオリスが、少し苦しそうに息を吐いた。
「私は、ずっと君の存在を感じていた。
君が、そこにいると分かっていた」
その指先が、黄金の床を強く掴む。
「それでも、君が目覚めるまでの時間は耐え難かった」
その表情と言葉で、こいつがどれだけ心配していたかが痛いほど分かった。
俺は結局、こいつに失くすかもしれない痛みを感じさせてしまっていた。
渦を巻くほど水がなくて、水面がみっともなくぷるぷる波打つ。
畜生、本当に情けねえ。
散々言い合って同行を認めさせておいて、このザマだ。
足を引っ張るどころか、最悪のトラウマを植え付けるとこだった。
帰ってこれたのなんて結果論だ。
無事に済んでた保証もない。
……待て。
帰って来れたなら、やることがあるだろうが。
アイオリスへの返事だ。
好いた女だの、欲しているだの。
こっちの正気ゲージをガリガリ削ってくる告白をされた時に先送りにした。
俺は、帰ったら応えると約束してしまった。
水たまりの俺は、急にばしゃばしゃと騒ぎ始めた。
まずい。
気まずい。
気持ちがまずい。
どうする。
やるのか!? 今……! ここで!
でもほら、口も喉もないし。
どうやって言うんだ。
泡で文字でも書くか?
「愛」とか一文字を水面に浮かべるか?
無理だろ。何だその演出。俺が死ぬ。
いや、そもそも「愛」なのか?
「愛」ってなんだ?
「……イズミール、苦しいのか」
アイオリスが身を乗り出す。
違う。
苦しいが、そういう苦しさじゃない。
いや、ある意味では苦しいが、なんかもうわからん!
俺は水面をばちゃんと跳ねさせた。
『苦しくはないらしい』
のじゃ様が、妙に分かった顔で頷いた。
おい、腹立つなこのノジャロリ!
聞こえてんなら、お前が伝えろよ!
あ、駄目だ。
お前が言うな。それは違う。モヤッとくる。絶対駄目だ。
『そう返答を急ぐ必要はあるまい』
穏やかな物言い。
水面がぴたりと止まった。
嫌な予感がする。
このパターン、前にもあった気がする。
おい、よせ、言うな。
『汝らは、もう成っておる』
成っている。
何が。
「成っている、とは」
アイオリスが尋ねた。
おい、尋ねんな! 空気を読め!
いや読めないよな。知らないもんな。俺も知らねえもん!
のじゃ様は、古い龍神らしい厳かな口調で告げた。
ちびたちに似せたその姿は、威厳が全く足りてないが。
『うむ、結魂よ』
水たまりが爆ぜた。
ばしゃん、と自分でも引くくらい盛大に跳ねた。
泡が立つ。
水面が沸き立つ。
割り箸くらいの小さな水柱が一本、抗議のようにピューッと立って、すぐ崩れた。
はあああああああああ!?
待て待て待て待て。
俺はまだ何も言ってない。
なんか言おうかなって思ってたことはあったけど!
たぶん、言うつもりだった。
おそらく、近いうちに言う予定だった。
でもまだ言ってない。
まだスタート地点にいるのに、ゴールの方が飛んでくるな。
署名もしてない婚姻届を提出前に受理してんじゃねえ。
『源流の内で成ったのではない。
さもなくば、キコリヤロウも還っておったところだ』
怖いことをさらっと言うな。
アイオリスの顔もわずかに強張った。
あいつも今になって、理解したんだろう。
俺を飲んだあの行為そのものが、あいつを源流へ溶かしかねなかったのだと。
一歩間違えれば心中になっていた。
『源流は、汝らの帰還を認めた。それで十分であろうよ』
ジャガラモガラは淡々と続けた。
『そも、番に己が核を飲ませるなど、己のすべてをその者に捧ぐに等しい』
やめろ。
水たまりがぶくぶく泡立つ。
何だその言い方。
俺が言ったのは「飲め」だけだ。
わけわかんねぇ価値観を押し付けんな。
なんか感情的にわかっちまうのが嫌すぎるんだよ。
『源流も、御許であのような交わりを見ては、認めざるを得まいよ。
しかし若き水よ、汝も広く深き水になったとはいえ、清き水の慎みを忘れてはならぬぞ』
水面が派手に跳ねる。
知らねえよ!
そんな仕様もマナーも知るか!
俺は死にかけてたんだよ!
ただ死ぬくらいならって思いつきでやっただけだ!
いや今思い返すとだいぶアレだけど!
だからって、なんか親の前でなんかやらかしたみたいに言うな!
のじゃ様は、まるで羽目を外した新婚バカップルを諭す親戚のまとめ役みたいな顔をした。
『吾ら八海も見ておったが、あれほどの睦み合いを目の当たりにするとは思わなんだ。
還る間際の行いと思えばこそ、止めるのも憚られたが……ともあれ、無事で何よりぞ』
水たまりが沸騰した。
睦み合いとか言うな。
見せつけたんじゃねえ。
人前で濃厚な何かを見せたみたいに言い換えるな!
アイオリスの顔も赤くなっていた。
だが、目を逸らさなかった。
そこがまた腹立たしい。
なんでお前は恥ずかしがりながらも否定しないんだよ。
「私は、君を連れて帰ることが出来たなら、それだけでいい」
アイオリスは静かに言った。
「それが何と呼ばれようとも、ひとつも後悔はない」
水面が、また跳ねた。
やめろ。
そういうのを真顔で言うな。
俺が死ぬ。
死ななかったけど、今度こそ羞恥で蒸発する。
『さて、吾がこれ以上おると、若き水が沸き干上がりかねぬ』
のじゃ様が両手を広げた。
周囲の床の窪みに溜まっていた少量の水が集まってくる。
『後は若い者同士で語らえ。汝は己の言葉で伝えたいのであろう?』
そう言って、のじゃ様の小さな身体がほどけ始めた。
白い髪も、角も、幼い身体も、水へ戻っていく。
ちょっ、お前、待て待て。
説明責任を果たしてから帰れ!
感覚的に、消えてなくなるわけじゃないのは分かる。
ここに居たのは、仮の身体で、本体はあの源流の入り口付近の深みにある。
ただ、身体を水に戻すだけだ。
俺とアイオリスを置いて。
(日が昇り直したら戻る。気にせず、ゆるりと語らうが良い。
この侘しき殯宮が縁組の場になる日が来ようとはな……まこと面白い)
最後に、水に混ざってそんな言葉が伝わってきたかと思うと、その存在がふっと遠くなった。
おいやめろよ、その生ぬるい気遣い!
居た堪れなくなるだろうが!
※※※※※
残されたのは、俺とアイオリスだけだった。
のじゃ様だった水が、俺の水たまりに降り注いで水量が増す。
身体を創るのに十分な量が確保できてしまった。
どうすんだよこれ。
もう完全に「部屋に二人きりで残されたお見合いシーン」じゃねえか。
お見合いどころか、魂約も結魂も成立済みだったわ。
ハハハ……はぁ。
アイオリスは何を言うでもなく俺を見つめている。
しかもこいつは、ただ見てるんじゃない。
俺が姿を現すのを待っている。
俺が約束に応えるのを待っている。
その無言の圧に耐えきれなくなって、俺は身体を創り始める。
水たまりの底から浮き上がるみたいに、角が生え、髪が広がる。
頭。
肩。
胸。
腕。
腹。
腰。
脚。
水が立ち上がりながら女の形を取っていく。
俺が男だった頃の性癖を詰め込んで創りあげた理想の女の身体。
今は、この金髪イケメン木こり野郎――アイオリスに欲されている身体。
それも身体だけじゃなくて、中身ごと。
何かの冗談だって思いたい。
何がどうしてこうなった。
「……あー、」
俺はまず何か言おうとした。
何を言えばいいのかなんて、完全に蒸発してる。
けど、言葉を思いつく前に、アイオリスに抱きしめられた。
「――っ」
鎧を着た大柄な男の全力の抱擁。
俺が水じゃなかったら、抱き潰されていたかもしれない。
でも、痛みはないし、苦しくもない。
それでも、抱きしめる腕には抑えきれない力がこもっていた。
二度と離すまいとするみたいに、俺を抱え込んでくる。
「お、おい……っ」
逃げようと思えば、たぶん逃げられる。
でも、逃げたらきっと傷つける。
だから、逃げない。
「帰ってきた」
アイオリスが、俺のヒレに唇を寄せて言った。
低い声だった。
安堵で掠れていて、少し震えていた。
俺のヒレもビビビと震えて、その波が肌に波紋のように広がる。
「……みっ、見りゃ分かるだろ」
そう返した声も、自分で思ったより弱かった。
「ああ、君がいる……触れても消えない」
アイオリスの腕に、少しだけ力がこもる。
「だから、何度でも確かめたくなる」
「……お前、そういうの、本当にさあ」
文句を言うつもりだった。
でも、手が勝手に動いていた。
アイオリスの背に腕を回していた。
黄金の鎧の感触は硬くて冷たい。
けれど、その奥に体温があって、鼓動と呼吸がある。
生きている。
俺も、こいつも生きている。
その事実に、胸の奥がぐしゃぐしゃになる。
そんなもの、水の身体にあるのか知らないが、確かにそこが熱かった。
「イズミール」
「……何だよ」
「君の言葉を、聞かせてほしい」
来た。
ついに来やがった。
俺は、抱きしめられたまま固まった。
「いや、だから、その」
喉が詰まる。
「ほら、結魂だか何だか、もう成ってるんだろ。だったら今さら言わなくても――」
「源流や神の裁定ではなく」
アイオリスが俺の言葉を遮った。
静かに。
けれど、逃げ道を塞ぐように。
「私はただ、君の言葉だけが欲しい」
俺は口を閉じた。
ずるい。
こいつは本当にずるい。
怒鳴るでも泣き落とすでもない。
ただ、まっすぐに伝えてくる。
答えは、俺の中にもうある。
でも、言いたくない。
俺がこいつを、その……アレだと、認めたら、俺が俺だっていう拠り所にしてきたものが壊れる。
水になってる時点で、男とか女とか無意味だし、異世界な時点で社畜もオタクも無い。
大体、もうとっくに認めたようなもんだろ。
「お前の中がいい」とか言って飲まれておいて何を今さら。
水の神様界隈では、親と親戚の前で激重求愛をかました扱いらしいぞ。
それで言葉だけ渋るとか、逆に何なんだ。
うるさい。
俺の内心まで説教するな、俺。
拠り所なんて言いつつ、グラグラで穴だらけで、最初から役立たずな代物なんてこと、最初からわかってた。
でも、ずっとそれを足場にここで生きてきたんだ。
そう簡単に変われたら苦労しねえんだよ。
俺は顔を上げて、アイオリスの様子を窺う。
青い瞳は真っ直ぐ俺に向けられたままだった。
駄目だ、この目で見られていると、おかしなことを口走ってしまいそうになる。
駄目だ、もう限界だ。
俺は、余計な言葉が漏れそうになる前に、アイオリスに詰め寄って、勢い良く唇を押し付けた。
短く。
強引に。
逃げ道を潰してしまう前に、こっちから別の逃げ道へ飛び込むみたいに。
人工呼吸で一回やってるんだ、二度も三度も大差あるか。
そういうことにしておく。
唇が触れた瞬間、アイオリスの腕が僅かに強張った。
俺はすぐに離れた。
「……ほ、ほら。これで分かったろ。分かれ」
言ってから、自分で自分を殴りたくなった。
何だこれ、小学生か。
アイオリスは俺を見つめていた。
目が熱い。
戦闘中の目ではない。
魔樹を見据える目でも、斧を振るう時の目でもない。
好いた女に口づけられた男の目だった。
俺は、男だった記憶がある。
だから、分かる。
その沈黙の意味が分かる。
触れられて、もっと触れたくなった時の呼吸が分かる。
腕に力を入れたいのに、相手を怖がらせないよう抑える身体が分かる。
あ、やばい。
これは、やばいやつだ。
「分かった」
アイオリスは低く言った。
「だが、やはり、言葉も欲しい」
「欲張りか!」
「そうだ」
即答された。
俺は言葉に詰まった。
「君のことになると、私は欲張りになる」
「……っ、そういうのを、平然と言うなって、何回言えば……!」
「君は約束した。帰ったら応えると」
「律儀かよ……!」
「君との約束だからな」
逃げ場がない。
完全にない。
俺はアイオリスの腕の中で、顔が熱くなるのを感じた。
水の身体なのに。
血なんてないのに。
それでも、頬が燃えるように熱い。
ヒレがパタパタ動いてどこかへ飛んでいきそうだ。
終わりだ……。
「あーもう、分かったよ!」
やけくそだった。
「はいはい、愛してる愛してるっ!」
言った。
言ってしまった。
勢いで、さらに言葉が転がり出る。
「イケメン野郎のくせに、妙に無愛想で不器用で、真面目だと思えば無茶苦茶自己中だし、すぐ自分を盾にして、大丈夫だ、問題ないとか強がりやがって、クソ重たいし、勘違いばっかしやがるし、このクソ面倒な木こり野郎っ!」
アイオリスの目が見開かれる。
うるせえ、もう知らねえ!
こうなったら全部ぶちまけてやる。
じゃないと納得しねえってんだろ、お前は。
「けど、それでも、今更、お前がいなくなんのは嫌なんだよ!
勝手に転がり込んできて、追いかけ回して、勝手にくたばりかけやがって!
こんだけ付きまとわれたら、おかしくもなるわ! しょうがねえだろ!
ああ、ああ! そうだよ、お前の中がいいとか本気で言っちまったよ!
あのまま死ぬくらいなら、いっそとか思ったよ! お前のせいなんだからなっ」
止まらない。
止められない。
恥ずかしいのに、言葉が勝手に出てくる。
告白ってよりは罵詈雑言だ。
だってしょうがないだろ。
俺は水なんだ。
気持ちも、言葉も、全部この水に溶けてる。
「お前が生きてると安心するし、怪我してると腹が立つし、笑ってるとむかつくくらい嬉しいんだよ!
なんでお前なんかに、こんなクソ重感情持ってんだ、おかしいだろ? おかしいんだよ!
だから、だから……俺は、つまり……お前のことを、愛し――」
そこで、口を塞がれた。
アイオリスが、俺に口づけていた。
さっきの俺の雑なごまかしとは違う。
もっと奪うような口づけだった。
俺の言葉を止めるための口づけ。
でも、それだけじゃない。
吸い上げられている。
また、飲まれている。
ちびたちとは違う。
渇きでも、無邪気さでもない。
もっと深いところ――俺の核まで欲しがる飲み方だ。
だからこそ分かった。
男だったとか、女だからとか、そういう次元の話じゃない。
こいつ、本気で俺が――イズミールが全部欲しいんだって。
それが心の底から分かってしまった。
口づけが離れた。
へたり込みそうになったが、腰を抱かれ、頭を抱え込まれていて、身動きもままならない。
すぐ近くで、アイオリスが息を整える音がした。
戦闘の後よりも、よほど苦しそうに。
アイオリスの額が、俺の額に軽く触れた。
青い瞳が濡れた輝きを湛えて覗き込んでくる。
「一度でいい」
抑え目の低い声で囁かれた。
「一度聞ければ十分だ、今は」
今は。
その二文字が、妙に耳に残った。
そもそも何が一度なんだ。
今じゃない時なら無制限なのか。
だから、何が。
俺に何を求めてるんだよ。
そんなところまで考えてしまって、俺はさらに熱くなる。
アイオリスの親指が、俺の頬をそっと撫でる。
「そう続けて言われると、止められなくなる」
その声は痛みでも堪えているみたいに、低く抑えたものだった。
ぎりぎりで踏みとどまっている男の声だ。
意味を理解するのに、一拍かかった。
次の瞬間、男だった頃の記憶が、余計な理解力を発揮した。
キスの先。
抱きしめるだけでは済まないこと。
今この場で、俺をもっと欲しくなるということ。
その全部を、この男は抑えている。
俺のために。
俺は完全に固まった。
そうしてないと、爪先から中身が全部零れ出してしまいそうだった。
目の内側をコポコポと細かな泡が上っていく。
「ひゃい……」
口から零れ出たのは、返事とも悲鳴ともつかない小さな声だけだった。
口の中がぐずぐずに溶けてしまったみたいだ。
アイオリスが、少しだけ笑った。
俺はそれを見て。
どぼん、と、何かが水に落ちた音が聞こえた気がした。
斧じゃない。
たぶん、俺がなにかに落っこちた音だ。
どうやら、俺はこの腕の中から、もう逃げる気になれないらしい。
この先、真実の愛が手に入るぞ
一歩前に出てみよう
おれはやった! やっちまった…




