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107.日の出づる海の龍、九つ目の海を訪う(中編) 〇★

 ――白い世界に落ちた静けさは、さっきまでの騒がしさが嘘みたいに薄く、冷たかった。


 その中心にちんまりと立っているのは、肩書きが多すぎてもう覚える気の失せた龍。

 ジャガなんとか――もとい、のじゃ様だ。

 だいぶ偉いみたいなので、「様」は付けておく。


『では、改めて此度の用向きを話そう。

 何故、世界は今も沈んだままであるかを――』


 のじゃ様がそう言ったところで、“私”が一歩前へ出た。


「その前に、御方へ申し上げたいことがございます」


 澄んだ水面の上を滑るような所作だった。


 俺は思わずそっちを見た。


 銀色の髪がわずかに揺れ、そのまま“私”はのじゃ様へ深く頭を下げた。


「御方には、まずお詫びを申し上げねばなりません」


 “私”は相変わらず、静かな顔をしていた。

 さっきまで二対一で龍神の造形監修会議をやっていた張本人の一人とは思えない、澄ました顔だ。


「先ほどは、お姿を改めていただいた上に、衣のことにまで口を挟みました。

 児戯に等しい振る舞いにお付き合いさせてしまい、申し訳ございません」


 おい、なんで今、それを蒸し返した?

 なんか懐の深さで流してくれてたんだから、乗っかっておけよ。


 改めて言葉にされると、余計に恥ずかしいだろうが……。


 しかも、“私”はそこで止まらない。


「ですが、お陰様で私たちも、落ち着きを取り戻すことが出来ました」


 何さらっと言ってやがるんだ。

 いや、まあ、ビビリまくってたのは事実だし、否定はしづらいけど。


 でも、途中からお前だって普通にノッてただろうが。

 ちびどもの水フィギュア出した時の顔、だいぶ嬉しそうだったぞ。


「御方と正しく向き合う為に、私たちには必要な手順でございました。お許しください」


 “私”は頭を下げ、顔を上げないまま淡々と言った。


 まったく、こいつは……すぐに自分で会社を背負おうとしやがって。

 社員にだけ頭を下げさせてる社長とか、ブラックすぎるだろうが。


「――この度は数々のご無礼、誠に申し訳ございませんでした!」


 “私”に続いて、俺も頭を下げ、謝罪の言葉を述べる。


 腰の角度は四十五度。両手は臍下で重ねて、目線はしっかり落とす。

 時間はきっかり五秒。四、三、二、……。


 のじゃ様は、そんな俺たちの前で、小さく、ふむ、と呟いてから言った。


『よい』


 小さな人型を取ってもなお、声の重々しさは変わらない。

 白い世界の底を低く震わせるような声だった。


『幼き水に、荒波を立ててしまったのは吾の方だ。

 まして、ここは汝らの内なる海。汝らが気に病むことは無い』


(幼き水……)


 言いたいことは分かるけど、その見た目で言われると、ちぐはぐ感が半端ない。

 なにせ、大怪獣から全裸白ロリになって、今は俺監修の服を着ているんだから。

 あまりの温度差に情緒が風邪を引きそうだ。


 それはそれとして。


 先方が理解を示したうえで謝罪を受け取らなかったんだ。

 いつまでも頭を下げておくのは、逆に失礼にあたる。


「ありがとうございます。の――」


 俺は顔を上げ、感謝を述べた。


 危っねぇ――“のじゃ”って言いかけたのじゃ。


 俺が口ごもんだところに被せるように、“私”も続いた。


「ご配慮、感謝いたします」


 ふぅ、なんとかクレームに発展させずに済んだぞ――


 ……って、俺はなんでまた、こんな社畜仕草してんだよ。

 ただ、やらかしたのは、ぐうの音も出ない事実なんだが。


 のじゃ様は、俺たちを見て目を細めた。

 機嫌は悪くなさそうだ。やべえよ、いいひとだ……。


 そう思っていたら、ミュルナ似の太眉がきゅっと寄った。

 思わず、身体の中がひゅんってなった。


『むしろ、詫びを申さねばならんのは吾らの方なのだ』


 ――その一言で、空気が変わった。


 足元の浅い水面が、かすかに波打った。

 遠くで、海鳴りみたいな低い響きがした。


 のじゃ様は続ける。


『吾らはな、八つの海の主などと称されておる』


 青白く輝く瞳が、己の細い手に向けられた。

 ついさっきまで世界を圧する大怪獣だったとは思えない、白く小さな手だ。


『されど、吾らがしてきたことと云えば、水門を塞ぐ蓋のような役目しか果たせなんだ』


「蓋……?」


 思わず、声が出た。

 海の主とかいう厳めしい肩書きから、急に台所用品みたいな言葉に落ちてきて面食らう。


 のじゃ様は頷いた。


『汝らも味わったであろう……源流ままより流れ来る、黒き禍いの齎す痛苦を』


 あ、と思った。


 そうか、大元の水に黒いのが混ざってたってことは、よその水場にも流れ込んでいたのか。

 じゃあ、蓋って言うのは、まさか――


『吾らとて水の霊、流れて来た穢れを浄め、消し去ることは出来る。

 だが、吾らは大海であるが故に、源流ままとの結び目もまた多い。

 塞いだ端から、数多の場所で幾度ともなくやって来た』


 ……同じだ。俺と。

 湖くらいの広さの俺でも、散々振り回されたってのに。

 海の広さで、あの同時多発テロをかまされるなんて無理ゲーが過ぎる。


『結局、吾らはこの身を蓋として、あれらを押し留めるしかなかった。

 全てを塞ぎ、堰き止めれば、流れは止まり、水は澱み、海は死ぬ。

 さりとて、吾らが深く堕ちれば、海そのものが世を黒く染める側に回ってしまう』


 ちびたちに似た顔が歪んだ。

 ああ、くそ。その顔でそんな表情、しないでくれ。


『それが分かっておりながら……吾らは、源流ままに根を張り、巣食った怨敵そのものに、手が届かなんだ』


 “私”が静かに目を伏せる。


「……源流の向こう側にあるものには、私たちの力が及ばないからですね」


 俺たちは水門の向こうに手が出せない。

 どうやらそれは、泉でも湖でも海でも変わらないらしい。


『左様。

 吾ら、始原の霊の子たるものは、源流ままに触れれば、その裡へと還るが定め。

 それは永劫を過ごす吾らにとって、最期の安息であったものを――』


 小さな手が握り締められる。

 白い世界の足元が、かすかに波打った。

 俺の鼓動とは違う、もっと大きくて古い水の気配が、言葉に伴って揺れている。


『ゆえに、吾ら八海の多くは、黒き禍いを拡げぬため、己が身を蓋として、水底に籠もるほかなかった。

 病み、苛まれる同胞の叫びも、救いを求める衆生の祈りにも応えることなく、な』


 その言い方には、積み重なった疲れが滲んでいた。

 純白の髪が、無垢の証ではなく、老いて枯れた白髪のように見えてきた。


 “私”は黙って聞いている。

 いつもの穏やかな顔だが、目は伏せたまま上げようとしない。

 俺も斧を抱く腕に知らないうちに力がこもっていた。


 海原の主。

 龍宮の主。

 八つの海のうち一つを預かる龍。


 いかにも凄そうな肩書きを背負った連中が、実際にやっていたのは防波堤とか防火扉――


 そういう軽い言い方はいくらでもできる。

 でも、それを世界規模で、自分が侵されながらやっていたのだとしたら、笑える話じゃない。


 俺はずっと、何で自分ばっかりこんな目に遭うんだと思っていた。

 俺たちばかりがデスマーチに放り込まれて、先の見えない苦痛にもがいているんだと。


 でも、違った。


 苦しんでいるのは俺たちだけじゃなかった。

 この世界自体が、詰みかけていたんだと初めて理解した。


『吾もまた、この身を侵され、水底で澱んでおった。

 我ら八海のうち、一人として無事な者はおらなかった』


 その声音には、怒りも誇りもなく、ただ事実を述べる平坦さがあった。

 だから余計に重かった。


『その間に、汝のような湧いて間もない幼き水が、独り源流ままの苦しみに触れ、黒き根と対したと知った時――吾は、喜ぶより先に恥じた』


(いやだから、なんでそんなに俺を幼い扱いしてくんだよ……)


 前世とこっちで過ごした年数を足しても、向こうからすると赤ん坊みたいなものなんだろう。

 子ども扱いするな、なんてとても言える空気じゃないし、噛みつく気にもなれなかった。


 ただ、独り、という言い方にひっかかりを感じた。


 俺は、今はもう独りじゃない。


 問題社員が二人、三人のちびども。

 泡の中には何十人もの人間どもがいて。


 そして、アイオリスがいる。


 ……いや、元を辿れば、結局独りで始まったのはそうなんだが。


 この、見た目だけは幼いくせに妙に年寄りじみた龍に、ぼっち扱いされると妙に腹の底がざわつく。


 龍が、白い世界そのものを見回すように首を巡らせた。

 今は小さな人型なのに、その仕草だけで、この空間全体が撫でられたような感じがした。


『それにしても、汝は奇妙だ』


「は?」


『汝の心の海は、凍てつき閉ざされている』


 その言葉に、胸の奥がひやりとした。


『表は厚き氷に覆われ、近寄るものを拒む。

 触れれば冷たく、硬く、割れぬよう自らを固めている』


「……おい」


 勝手に人の頭ん中を実況すんな。


 だが、寸評じみた言葉は止まらなかった。


『されど、その水底には沸き立つ熱がある。

 氷の下では、温き水が常に渦を巻いておる』


 足元の真っ白な水面がさざ波を立てて、いくつも像が浮かんだ気がした。


 黄金の街並みを楽しそうに駆けずり回るちびたち。 

 泡の中で寝息を立てる人間ども。

 手から伝わってくる体温。

 うわ言のように囁かれる名前。

 唇の感触――


 俺は顔をしかめた。

 なんだ、特に最後の。


 氷の下の熱とか、よく分からんことを言いやがって。

 俺がどっちつかずの生ぬるい奴みたいじゃないか。


 ……否定しきれねぇ。


「人の頭ん中を勝手に温泉テーマパークみたいにしないでくれませんかね」


 悔しいから、現代語で言い返してやった。

 案の定、?マークの浮いた顔をした。


『てーまぱーく……?』


「今のはお聞き流しください。イズミールは時々このようなことを申します」


 “私”がいらんフォローを入れてくる。

 のじゃ様は本当に面白そうに目を細めた。


『汝は誠に奇妙で、面白い。吾ら古き海が持ち得ぬ流れだ。

 これが“潮目が変わる”というものか――く、ふふ……』


 ぎし、みしみし、と白い世界に軋むような音が響いた。

 あの怪獣モードの時にもあったやつ。これ、やっぱ笑ってたのか。


 怖ぇよ! あと、今の話の笑いどころどこだよ。

 龍神ギャグ、わかんねぇ……。


 ただ、その横顔は澄ましたロリ顔なのに、落ち着いていて柔らかかった。

 何だその顔。分かったみたいな顔しやがって。


「……こんな真っ白けな場所を見て、何が分かるって言うんですか」


 思わず口に出してしまった。

 “私”が、隣で静かに息をついた。


『すべては分からぬさ。

 されど、触れれば感じ取ることは出来る』


 小さな頭が上を向いて、釣られて俺も視線を上げた。


 その視線の先で、遠い海鳴りのような気配が揺れた気がした。

 それから、少しだけ声を落とす。


『吾らにとって、源流ままもまた、そういうものだ』


 “まま”


 ずっとその呼び方だ。


 けれど、もう笑う気にはなれなかった。

 その表情や言葉には、深い敬愛に溢れていて、本当にそういうものなんだと分かってしまったからだ。


源流ままは、滅多なことで吾らへ働きかけては来ぬ』


 放任主義かよ、と思ったが黙って聞くことにする。


『吾らはただ、源流ままより分かたれた水として生まれた。

 何を語られずとも、手を差し伸べられることがなくとも。

 吾らはそこから来て、いずれそこへ還るのだ。

 源流ままを敬い、慕うことに確たる理由はない』


 ミュルナたちが俺にまとわりつくのに似た、理屈抜きの愛情。

 のじゃ様は源流に対して、それを今も持ち続けているらしい。


 人間なら、自我が育つにつれて、こういう無条件の慕情は段々気恥ずかしいものになっていく。

 でも、神や精霊っていうのはこんな風に純粋なものなのか。


 呆れだか、感動だか、自分でもよく分からない感慨が生まれた。


『――されど、此度は違った』


 青白い瞳の輝きが揺れた。

 白い世界の足元の水が、すっと冷える。


『ある時、黒き穢れの混じる源流ままからの水に知恵が混ざり込んだのだ』


「知恵……?」


『それは言葉ではない。勅命でもない。

 ただ、こう在ればよいのだと、水から教えられた』


 その声は静かだが、静かさの中に、海全体がうねるみたいな大きさがある。

 言っていることは感覚的過ぎて理解できない。

 それなのに、疑問や反論を差し挟む余地のない真理を告げられているように感じる。


『泡沫の如き生命を黄金にて留め、蔓延る穢れと共に沈めて祓う。

 奪わず、壊さず、逃さず。救うべきものと滅すべきものを裁定する、救世に至る道を示された』


 俺は思わず斧を見下ろした。


 抱えた黄金の刃は、今も腕の中で重い。


 黄金で留める。

 殺さないように。壊さないように。

 何もかも沈めて、まとめて浄化する。


 それは、聞き覚えがあるなんてもんじゃない。

 俺たちが、結果的にやっていたことだ。

 あの時は必死で、こんな風に整った言葉では理解していなかったけど。


 それが源流を通して共有された?

 まさか、あいつが斧を落としたから?


(……業務ノウハウの横展開が早すぎんだろ)


 内心でだけツッコむ。

 でも、笑えない。

 笑えないどころか、ぞっとする。


 世界規模で共有されたってことだろ、あの僅かな間に。


 しかも、共有しただけじゃなく、即座に実行に移している。


 そんなの、どんな大企業や国だって無理だ。

 人間の社会や能力、常識じゃ考えられない。

 これが本物の神業か。


「あ、あれを本当にやったのか……?

 世界中で、一斉に……?」


 思わず、聞き返さずにはいられなかった。

 喉が乾く感覚なんて、本来なら俺にはないはずなのに妙に声が掠れた。


『左様』


 答えはあっさりとした頷きと共に返ってきた。

 ミュリナみたいに表情の薄い顔、それが空恐ろしく感じる。


『ほどなくして、吾の海の結び目より、一つの品が浮かび上がってきた』


 視線が、俺の腕の中の斧へと向けてこられる。


 黄金の斧は、白い世界の中でもやけに重たい色をしている。


『吾が執るべき道を示された後に、それは吾の元に現れた。

 源流ままは、吾にそれを汝の元へ届ける遣いの役目をお与えになったのだろう。

 なれば、迅くこれを果たさねばと思い、汝の元に馳せ参じた次第である』


 その声音には、妙な熱があった。

 役目を与えられたことそのものが誇らしいのだろう。


 その誇らしさを、俺とも分かち合えるものだと信じているかのようで、自分が何か得体の知れないシステムに組み込まれたみたいな不気味さを覚える。


『汝の水――九つ目の海が最初に流れ込んだのは吾の海であった。

 我は汝の水に清められ、力を取り戻すことが出来たのだ。

 そして、源流ままより流れ込んだ知恵と、この刃が届いた。

 吾はそれに応え、隣り合う海を援け、そのやり方は他の海へも広がった』


 “私”がそこで静かに息を呑む。

 俺も、ようやく理解が追いつきかけた。


『そうして環は広がった。

 眠っていた海も、閉ざしていた海も、やがて応じてくれた。

 八つの海を順に持ち直させ、黄金をもって留めながら世界を覆った。

 汝が編み出し、源流ままより授かった救世を成し遂げたのだ』


 白い世界の向こうに、見たこともない広さの海が重なる。

 東の海。西の海。遠いどこかの海。知らない水域。そこにいる、知らない龍。

 それらが繋がって、少しずつ持ち直して、同じやり方で一つの環になって広がった。


 頭の中で、前までの俺なら絶対に想像もしなかった規模の図が浮かびかける。

 世界中の水が、同時に動く。

 洪水と黄金化が、あちこちで起きる。


 俺たちが、あの場しのぎでやっていたことが?

 あいつの落とした斧が?

 偶然と行き当たりばったりから始まった、あんなやり方が?


 俺は、息をするのも忘れていた。


『――それが、今の水没の真相よ』


 白い世界に、その言葉が落ちた。


 俺はすぐには何も言えなかった。


 ひとつだけ確かなのは、世界を沈めたのは、俺ひとりじゃなかった。

 それは――正直、少しだけ救われた。


 でも、きっかけは俺だった。


 スケールがでかすぎて、頭が痛い。

 いや、痛む頭なんて無いんだが、そんな気分にはなる。


 僻地のショボい子会社が、たまたま当てたやり方に、翌日には世界規模の複合企業と国家が最優先で乗っかってきたみたいな話だった。


「……じゃあ」


 やっと出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


「じゃあ、これで終わったのか……?」


 言った瞬間、自分でも期待していたのが分かった。

 終わっていてほしかったのだ。

 これだけ大仰な話をされたんだから、綺麗に片付いていてほしかった。


 首を横に振られる。


『否』


 たった一言で、俺の期待は砕かれた。


『地の上に蔓延るものの大半は片付けた。

 吾ら八海にて消し去った魔樹は、五十三万七千五百六十四となる』


 五十三万。


 ありすぎだろ、魔樹!

 六十万本以上あったってことじゃねえか! 


 なんだ、このインフレ……ついていけねぇ。

 いや、でも八つの海ってことは等分すると一つあたり七万弱?

 うちは七万強だから、弊社の営業成績トップクラスじゃん、ハハハ……。


『されど、それで刈り尽くせたわけではない』


 ひどく冷たい声に、意識がそちらに引き戻される。


『残っておるのは源流ままの中に根を張ったものどもよ……。

 それらを悉く消し去るまでは、水も黄金も退かせるわけにはいかぬ。

 今ここで退けば、刈り残した根から、禍は再び芽吹く』


 ――斧を抱く腕に、無意識に力がこもる。


 世界ごと沈めたのに、まだ終わっていない。

 あの水に沈んだ黄金の大地、森、街や人々、あれを戻すなって言うのか。


「……じゃあ、いつまでこのままなんだよ」


『すべてを刈り尽くすまでだ』


 白い世界は静かだった。

 けれどその静けさの下で、さっきからずっと水が唸っている気がした。

 世界じゅうの海が、まだどこかで動いているような。


 まっすぐに向けられた目から、視線を逸らすことができない。


『残る根を刈らねばならぬ。

 そのためには、吾らや汝だけでは足りぬ』


 嫌な予感が、背中を這い上がった。


『汝の番たる人の子にも、聞かせねばならぬ』


「――はァ?」


 反射で声が跳ねた。

 自分でも不味いと思うくらい低い声が出た。


「待てよ」


『待たぬ』


「いや待てって言ってんだろ! なんでそこであいつの話になる!」


 斧を抱えたまま、一歩踏み出す。


 俺の声は熱を帯びていた。

 水底がグラグラと煮え立って、水面が波打つのを感じた。


 こいつの目的がやっと分かった。

 俺やこいつらは源流の向こうに手が出せない。


 だから、俺たちがやったのと同じ方法を取る気だ。


 駄目だ。


 駄目だ駄目だ。


 そこだけは駄目だ。


 世界がどうとか、八つの海がどうとか、源流がどうとか、全部まとめて今はどうでもいい。

 またアイオリスを向こう側に送り込む話になるなら――それは駄目だ。


「ふざけんなよ、あいつはあの時、死にかけたんだぞ!

 矢だって、さっきやっと抜いたばかりの怪我人だ!

 なのに、まだ、あいつを巻き込もうってのか! ふざけんな!」


『ふざけてはおらぬ』


「聞きたくねえんだよ、そんな話は!」


 “私”は俺を見たが、すぐには止めなかった。

 少し間を置いてから、窘めるように静かに言う。


「イズミール。この話は、彼を置いて進められるものではありません」


「うるせえ! お前もそっちにつくのかよ!」


「どちらにつくという話ではありません。必要なことなのです」


 静かな口調が、余計に腹立たしい。

 こっちは理屈じゃなくて、とにかく嫌だって言ってんだよ。


「勝手に決めてるんじゃねえ!」


『だからこそ、当事者である番にも聞かせねばならん。

 人の子とは言え、源流ままを救った恩義ある者に、礼を欠くわけにはいかぬ』


「うるせえ、のじゃロリ! 何が礼だ! そういう問題じゃ――」


 そこまで言って、白い世界のどこかに、もう一つ別の水の気配が差し込んだ。


 甘くて、柔らかくて、浮ついていて、でも妙に熱を帯びた水。

 俺とも“私”とも違う。


 ――知っている。


 この温度と湿度を、俺は知っている。


 嫌な予感が、確信に変わる。

 白い世界の見えない天井。真っ白な光の向こうから、金色の気配が現れた。


 “わたし”だった。


 いつものように、きらきらして。

 満面の笑みを浮かべて。


 しかも――


「……は?」


 声が抜けた。


 “わたし”の腕の中には、アイオリスが抱えられていた。


 服を着て、あのタスキをかけている。

 包帯が巻かれていない。たぶん、ここが現実とは違うから。


 それはいい。まだいい。


 “わたし”はアイオリスの腰へ両腕を回し、身体を預けさせるように支えていた。

 力の抜けた長い手足がだらりと垂れ、顔は“わたし”の首筋に預けられている。  


挿絵(By みてみん)


 俺は開いた口が塞がらなくて、抱えた斧を取り落とさないように持ち直した。


「お、お前ェ」


 声が裏返った。


「な、何してんだよお前……!?」


「連れてきたわ」


 “わたし”は悪びれずもしないで言った。

 むしろ、ちゃんと運んできた褒めて、みたいな顔で微笑んだ。 


「だって、その話は彼にも聞いてもらわないと駄目なんでしょう?」


「だからって何で抱いてんだよ! いや違う、そこもそうだけど、どうやって連れてきてんだよ!」


 “わたし”はきょとんとした顔で、ぱちくりと瞬きをした後に笑顔で言った。


「えーと、たぶん、愛よ」


 お前は何を言っているんだ。


 頭が真っ白になる。

 いや、元から白い世界なんだけどそういう意味じゃない。


 怪我人に何してんだ

 起こすなよ、絶対に起こすなよ。

 何でお前が抱いてるんだ。

 意味が分かねぇ、わけわかんねぇ。


 頭の中で渦がぐるぐるしている。


 その混乱の最中、“わたし”の腕の中で、アイオリスの指がわずかに動いた。


 背中の動きで呼吸の変化が分かった。


 伏せられていた瞼が震え、ゆっくりと持ち上がった。


 まだ焦点の定まらない、青い眼差しが、ぼんやりと白い世界を映す。

 その視線が、まず、俺たちの方へ向く。


「……イズ、ミール……?」


 掠れた声が、白い世界に落ちた。


 その瞬間、俺は“わたし”に向かって叫んでいた。


「――今すぐ元のところに返して来い!」

【金霊「恋金の龍イズミール・エトス」に侵入されました!】

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― 新着の感想 ―
( ´・ω・`)汝の番…… (井 ゜Д゜)うるせぇゴラァ! (´. ω .` )しょぼーん
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