幼き少年の記憶
寒さというものは、痛みよりも先に、諦めを教える。
朝、目を覚ましたとき、少年はまず自分の指を見る癖があった。
動くかどうかを確かめるためだ。
動けば生きている。
動かなければ――考えない。
彼が眠っていたのは、崩れかけた石壁の内側だった。
かつて倉庫だった場所を、今は誰も管理していない。
屋根はところどころ抜け落ち、夜明けの光が、埃と一緒に降りてくる。
「……まだ、生きてる」
声に出す必要はない。
誰に聞かせるわけでもない。
少年は起き上がり、外へ出た。
下町の朝は早い。
働く者は働き、働けない者は道に座る。
その境目に、彼はいた。
⸻
少年が初めて「王城」を見たのは、五歳の頃だった。
遠くにそびえる白い塔。
朝日に照らされ、現実とは思えないほど眩しかった。
「あそこにいる人たちは、寒くないんだろうな」
隣にいた大人がそう言った。
その言葉は、少年の中に、棘のように残った。
寒さは、場所で決まる。
それが、彼が最初に学んだ「世界の仕組み」だった。
⸻
ある日、少年は城下の市場で、騒ぎを目にした。
人だかりの向こう。
聞こえてきたのは、甲高い声と、馬のいななき。
「道を空けろ!」
兵士たちが押し分けるように進み、
その中央を、豪奢な馬車が通っていく。
少年は、無意識に一歩下がった。
――王族だ。
なぜ分かったのかは、説明できない。
ただ、空気が違った。
人々が頭を下げる。
声を潜める。
視線を逸らす。
少年は、逸らさなかった。
その瞬間、馬車の窓が、わずかに開いた。
⸻
中にいたのは、年の近い少女だった。
柔らかな髪。
だが、飾り立てられてはいない。
不思議なほど、静かな瞳。
少女は、こちらを見ていた。
正確には――
見下ろすでも、見透かすでもなく、ただ「見て」いた。
その視線に、少年は戸惑った。
憐れみでもない。
好奇心でもない。
――理解しようとしている目。
馬車は通り過ぎた。
ほんの数秒の出来事。
だが少年は、その場から動けなかった。
「……あんな目、初めて見た」
それが、後に女王と呼ばれる存在との、最初の交差だった。
⸻
少年は、その後も何度か城の近くへ行った。
理由は分からない。
期待していたわけでもない。
ただ、あの視線が、頭から離れなかった。
ある日、城の裏手で、奇妙な光景を見た。
庭園の植え込みの陰。
小さな少女が、しゃがみ込んでいる。
侍女たちが、少し離れて立っていた。
少女の前には――
羽を痛めた小鳥。
少年は、息を呑んだ。
(触るな……)
なぜそう思ったのかは分からない。
壊れやすいものに、近づく怖さを、彼は知っていた。
だが少女は、そっと手を差し出した。
触れない距離で。
「だいじょうぶ」
その声は、風よりも静かだった。
小鳥が、かすかに羽を動かす。
少年は、胸の奥がざわついた。
――ああ、と思った。
この人は、
奪わない。
それだけで、世界が違って見えた。
⸻
だが同時に、別の感情も生まれていた。
(そんなこと、続くわけがない)
優しさは、選ばれた者だけに許される。
少年は、そう教えられてきた。
それでも――
あの光景は、彼の中に残り続けた。
後に、彼が選択を迫られるとき、
その記憶は、呪いのように蘇ることになる。
それが、
最初の光だった。




