催涙雨と決意
—————————雨が降っている。
空は厚く雲に覆われ、昼だというのに、あたりは夜の闇と見紛うほどに暗い。滴る雨が石畳を叩き、王城の屋根や尖塔を濡らしている。雨音は重く、断続的に鳴る雷鳴が空気を震わせる。王城――リュミエール王国の象徴は、平民にとっての憧れであり、貴族たちにとっての誇りだった。その威容は、古代から受け継がれた伝統の重みを背負い、華麗で荘厳な装飾が光を反射して輝く。しかし今日は、そんな豪華さをも覆い隠すかのように、陰鬱な空気が城内を支配していた。
城の中は混乱の渦に包まれていた。貴族や使用人たちはせわしなく行き交い、北へ、南へ、東へ、西へ――まるで目的地が分からぬままに動き回るかのようだった。使用人たちは黙々と皿や書類を運び、燃え盛る燭台を掲げながら、床に滴る雨水を気にすることなく急ぎ足で廊下を駆ける。貴族たちは普段の華やかな装いを捨て、黒や灰色の礼服に身を包み、いつもは見せぬ沈痛な顔で足早に歩く。その表情は、恐怖と悲しみ、そして混乱が複雑に絡み合ったものだった。
王城の回廊は長く、幾重にも曲がりくねっており、石造りの冷たさが足裏に伝わる。壁面には先代の王や王妃、歴代女王の肖像画が整然と並び、肖像たちの視線が、まるで少女を試すかのように注がれている。燭台の炎はわずかに揺れ、影が回廊の床に長く伸びた。衛兵は規則正しく歩哨を巡らせるものの、顔には明らかな緊張が漂っていた。雨の冷たさと悲嘆の空気が混ざり、城全体が一種の重苦しい緊張で包まれていた。
その中でも、ひときわ異彩を放つ者がいた。リュミエール王国第一王女、イリス・リュミエール――齢十四。黄金の髪はまるで陽光を閉じ込めたかのように輝き、王族の証である蒼い瞳は澄み渡っていた。しかし今、その瞳は曇天の空と同じく灰色に沈み、深い悲しみと冷徹さを宿している。黒を基調とした礼装が王族としての威厳と喪服の意味を同時に示しており、幼さの残る肩や腕の線を際立たせる。
彼女の前には棺が二つ並んでいた。ひとつには父――リュミエール王国の元国王、もうひとつには母――王妃が安らかに眠っている。二人は国の象徴であり、民の希望であった者たちだ。イリスは泣くことも、叫ぶこともせず、ただ静かに棺を見つめていた。他者から見れば、血も涙もない冷酷な少女に映ったかもしれない。しかし、彼女の頭脳は冴えわたり、幼いながらも何故こんな悲劇が起こったのかを冷静に分析していた。
昨日まで笑っていた両親が、今日には冷たい棺に眠っている。
——毒。
祝宴の只中で、杯を交わした瞬間、父は喉を押さえて倒れ、母は抱きかかえようとして同じく崩れ落ちた。大広間は混乱と悲鳴で満ち、誰もが無力であった。王冠が床に転がり、乾いた音を立てた瞬間、イリスの心は一瞬で断ち切られた。
「誰が……」
幼い声は空虚に響き、誰からも答えは返ってこなかった。臣下は顔を伏せ沈黙し、貴族たちは恐怖に支配され互いを疑い合うだけ。王が倒れ、王妃が絶命しても、国の秩序を保てる者はひとりもいなかった。
イリスの胸には、恐怖と憎悪が入り混じった感情が渦巻く。誰も信用できない。誰も救おうとしなかった。だから、私が――私がすべてを握らねばならない――。
その瞳は冷たく澄み、決意が鋭い刃のように光った。涙は内側に閉じ込められ、表には一切出さない。優しさに守られていた少女は、ここで終わった。
◆
両親の毒殺の裏側――それは複雑な陰謀の網目であった。宴に招かれた一部の貴族は、王国の財政や権力を密かに狙っていた。彼らは父王の気まぐれで形成される恩寵に忌避感を抱き、母王の慈愛による民への優遇が、自らの利権を阻害すると考えていた。宴の背後では、微笑む影がひそかに毒を仕込んでいた。侍従や侍衛の一部も、恩を仇で返すように裏切りに加担していた。王城の広間では誰もが己の立場を守ることで精一杯で、正義を貫く者は一人もいなかった。
民衆は初め、王の死を信じられずに混乱した。広場には黒い布を掲げ、祈りを捧げる者たち。涙を流し、嘆きの声をあげる者も少なくなかった。王家を守る騎士たちも、内部の陰謀を察しつつも、全員を守り切ることはできなかった。噂と疑念は城から町へ、町から村へと広まり、王国全土を覆うように不安の霧が立ち込めた。
◆
王城の庭園は普段、四季折々の花と緑に彩られていた。しかし今日の庭園は、雨に打たれた花びらが石畳を滑り、濡れた芝生に光を反射する。木々の葉は重く垂れ、風に揺れるたびに雨水が滴る。庭園を歩く召使いたちは、花の香りよりも湿った土の匂いに支配され、足早に行き来するだけだった。衛兵は剣を握りしめ、誰かの侵入を警戒するように庭の小道を巡回する。
イリスは、この景色の中で父と母の亡骸を思い浮かべ、冷徹な決意を新たにする。恐怖、憎悪、復讐心――複雑な感情が心の奥底で渦巻く。しかし同時に、未来への覚悟が静かに彼女を支えていた。
「私は、この国を守る。誰が裏切ろうと、誰が私の道を阻もうと……」
冷たい蒼い瞳は庭園の濡れた緑を見渡し、王国全土の民の顔を思い浮かべる。幼い少女が背負うには重すぎる責任。しかし、それを背負わねば国は崩壊する。歴史ある王国、民の信頼、王家の誇り――それらを全て受け止め、彼女は決意を胸に刻む。
王城の高い塔からは、雨の中で動き回る衛兵や召使たちの姿が小さく見え、庭園の池には灰色の空が映る。遠くの町や村では、民が不安と期待の入り混じった表情で雨に濡れながらも、王家の行く末を案じていた。歴史ある王国は、今や少女の肩にかかる運命を静かに見守っているかのようであった。
イリスは深く息を吸い込み、濡れた髪の先に落ちる雨粒を見つめる。彼女の心の中で、恐怖や憎悪、復讐心は冷たく研ぎ澄まされ、やがて未来への覚悟へと変わった。父と母の死は無駄にはならない。王国は、私が守る――それだけが、揺るぎない真実であった。