6
朝、目が覚めて。
ベッドから起き上がり、ぼんやりと白い壁を見つめる。
瞼が重い。昨日のあの出来事は夢なんじゃないかと思ってしまう自分がいて笑える。
ずっと昔から考えていた。
草太と由香が、もし付き合う事になったら。私はいったいどうなってしまうんだろうと。
泣いて泣いて泣いて、身を投げてしまうんじゃないか。
そんな風に思ってはいたものの、実際身を投げる事ができるわけもなく。
ちょっと気だるいながらも、いつも通り起きて。いつも通り顔を洗って。いつも通り朝食を食べる。そんな何も変わらない朝。
私、これから一体どうしようか。なんて考えていた時、がららららと玄関の扉が開く音が。
そして「えーちゃーーーーーん」という懐かしい、由香の声がした。
ぎしぎしきしむ廊下を歩いて、玄関に顔を出せばにへと笑う由香の姿。
そしてそんな由香の横には、水玉模様の大きなキャリーケースが。
「え、由香……おはよう、どうしたの」
「今日私、もう帰るんだー」
「……早いね」
「今回は、こっちに置いてきたものとかもう全部引き上げに来る、それだけのつもりできたんだよねぇ」
ほら、もうこっちに帰ってくることはないと思ってたから。
由香はちょっと困ったように笑いながら、そう言った。
だから一日しかいない予定だったのに、こんなに大きなキャリーケースを持ってきていたのか。なんて納得。
昨日、駐車場でキスを見てしまった私。
いまいち詳しい事は覚えていないが、それを見た後にふらふらしながらファミレスの席に戻ったんだろう。
二人が戻ってきたのは、その五分後くらいだった。
二人して、がんと額をファミレスのテーブルに付けて「今までご迷惑をおかけして大変申し訳ありませんでした、絵里子様」なんて言ってきたのだ。
どうにも二人は本当に、私の事を「ずっと応援してくれてた優しい幼馴染」だと思ってくれていたようで。
「おめでとう。よかったね草太。長かったもんね」
そう言えば、草太も頬を染めて少し照れくさそうに笑った。
全然こんな言葉、本心じゃないのに。
「由香も、あんまり喧嘩ばっかりしないようにね」
この言葉も、本心じゃなかった。
ほんとは、羨ましいって。私も草太が好きなのに。って、そう言いたかった。
本当は、応援なんかしてなかった。
ずっとずっと、だめになればいいと、そう思っていた。
「これからはどうぞ、お幸せに」
そう言った言葉は本心なのか、本心じゃないのか。
自分でもちょっと分からなかった。
ほんとにね、もうね。なんて目の前に立つ由香を見ていた時、ひょこと草太が私の家の玄関に顔を出す。
そして「おはよーえりこー」なんて言った後に手をぐっぱとさせた。
「あ……草太。おはよう」
「おー」
草太が何か言おうと、口を開こうとした時、少し俯いていた由香がばっと私の顔をみて「あの、えーちゃん!!」なんて大きな声を出した。
え、なに。なんて思って彼女を見れば。由香は少しだけ目をきょろっとさせる。
そして、ゆっくり深呼吸をした後に、私の瞳を見た。
「えーちゃん。昨日も謝ったけど、ほんとの、ほんとにごめん……あたし、勝手に勘違いして……それで、ずっと、えーちゃんなんか、嫌いって。ずっと、えーちゃんは草太の事が好きで、二人は両想いなんだって思ってたから……」
由香の斜め後ろにいる草太は、私の事も由香の事も見ずに、私の家の玄関にある猫の置物をわざとらしく見ている。
震える由香の声。
高校時代を思い返す。
私はずっと悲劇のヒロインぶっていたけど。
苦しんでいたのは由香もだったのだ。
「私ね。由香や草太が思ってるほど、いい人じゃないよ」
そんな思わせぶりな言葉を口にしておく。
草太も「何のことやら」なんて顔で私を見て、由香も「はい?」なんて顔で私を見ている。
ほんとに、草太や由香が思ってるほどいい人なんかじゃない。
いい人のふりをしていただけ。
本当は、ずっとずっと草太に振り向いてほしかった。でも、自分からは何も動かなかった。
今だってそう。いい人のふりをしているだけ。
勘違いじゃないって。私も本当は草太の事が好きだったんだ。なんて。そう言えばいいのに、言わない。
「だから、私に謝る必要なんかない」
ちょっとポエミーな気分に浸っている私を見たのか、草太が由香の横に立ったのち「なんか分かんねーけど。とりあえず由香、お前もう一回謝っとけ!」なんて言いながら由香の後頭部をぐうっと押して、頭を下げさせた。
まるで職員室にやってきた保護者と子供のようで、少し笑えてしまう。
「由香、草太、ほんと謝らなくていいから……」
むしろ、謝るのは今まで二人の邪魔をしていた私の方。
そう言いかけて、鼻がつんとした。
だめ、だな。
二人の邪魔をしていた。なんて自覚すれば、わりと本気で涙が出てきてしまいそうだ。
私みたいなクズ人間がいなければ、この二人はもっとうまくいっていたのかな。なんて思ってどうする。
「えーちゃん、私、大学終わったらこっちに戻ってくる」
「……え、ほんと?」
「うん。戻ってくる。やっぱり、実家手伝いたいし」
それに、と言って由香は草太の方をちょっぴり見た。
草太は、わざとらしくまた私の家の玄関の猫の置物を見ている。
「またむかしみたいに。三人で仲良くできたらいいよね。えーちゃんと一緒に、お酒飲んでみたい」
「お前酒癖悪そー」
ぽつ、と猫の置物をいじりながらそう言う草太。
だから、そういう所なんだって。と思っていたのは草太も由香もらしく、三人してちょっと顔を見合わせてその後に笑った。
いつかお酒の勢いで、私が草太の事が好きだったってカミングアウトしちゃうかもしれない。
気まずくなりたくないから、今はまだ、言えそうにないけど。
だから私がババァになって、草太も由香もそれなりに年を取って。
全部全部、あの時は若かった。なんて言葉で笑える日が来るそんな時に言おうかな。
「悪いけど私。若いうちはお酒を一滴も飲めない呪いにかかってるの」
*
夏の風は生暖かくて、じんわりと私の額に汗をにじませる。
本当に何もない、だれもいない田舎の駅。
ずっとまっすぐ伸びる茶色い線路を前に私と由香と草太は立っていた。
「それにしても、お前の荷物の多さ」
「もう東京で就職しないつもりだけどさぁ、なんか、自分の部屋久々に帰ったら『あっ、これ懐かし~マンションに持ってかえろ~』みたいになっちゃって……」
「そんなにいっぱい持って帰ったら、マンションが荷物であふれかえっちゃうかもね」
「どうしよう! ただでさえ狭いのに!」
「お前、東京帰ったらトキメく掃除の本買え!」
「あー……なんかテレビでよくやってるやつ?」
「それ」
「確か……なんかときめかないものは捨てるんだっけ? えーちゃん」
「そうそう。草太も、それ読んでトキメキ仕分けしてたもんね」
「おー。お陰で俺の部屋はピカピカ」
「ピカピカ、ってほど綺麗じゃなかった気がするんですけどー」
「うるさい由香」
「……草太」
「……とりあえず、帰ったら本を買え! 分かったな!」
三人並んで。
昔みたいに楽しく話をした。
昨日のファミリーレストランでのあの会話の続かなさっぷりが、嘘みたいだった。
失恋したのになぜかすがすがしい気分だった。
何だかんだ言って、私はこの日を待っていたのかもしれない。なんて思った。
ずっと遠い隣の駅からやってきた、えんじ色の一両編成電車。
ぷわ、なんて情けない音を立てながら扉が開く。
そして由香は、うんせとスーツケースを持ち上げ電車に乗り込んだ。
そして、駅のホームに立つ私と草太を見た。あの日と同じように。
あの日と違うのは、私の隣の草太が不機嫌そうな顔をしていない事。まぁ、季節も違うけど。
「じゃあね、また近いうち帰ってきます」
ぴし、とわざとらしい敬礼を決める由香。
隣の草太は、ズボンのポケットに両手を突っ込みながら口を開く。
「本、買えよ!」
「別れ際に言う言葉がそれ~?」
「ちょっと草太……」
「えーちゃん、また連絡するー」
「……うん。由香、元気でね」
「おい、由香」
「なに」
「……浮気すんなよ」
草太のそんな小さな呟きを聞いてか聞かずか。由香を乗せた電車の扉は閉まる。
昔みたドラマみたいに、電車を追いかけるなんて事を草太はしなかった。
というよりも、このコンクリート造りのクソ狭い駅のホームでは、数歩しか追う事ができないからかもしれないけど。
由香の乗った電車を、ただ二人で黙って見つめる。
そして気付く。びっくりするくらいセミがうるさく鳴いていたという事に。
草太は、泣かなかった。
ただ、ちょっと眉を下げて電車を見つめるだけ。
そんな時、ぶるると草太のスマホが揺れる音が。
ぱっとポケットから出したのち「電波電波」なんて言いながら手を挙げて少し左右に振った後、彼は画面を見つめる。
私も一緒になって画面を除けば、そこには由香からの「お前もな」というメッセージが。
「こんなクソ田舎で、誰が浮気できるか」
まずどこに相手が。案山子か?なんて草太は画面を見つめながら笑っている。
生暖かい夏の風が私と草太の髪を揺らす。
帰ったら、この長い髪を切ろう。そうしよう。
「おい絵里子ー」
そして。まる遠くにいる私を呼ぶように、草太は大きな声を出す。
「今まで、悪かったー」
草太の、そんな言葉にどきりとしてしまう。
もしかして、私の気持ちに気付いていたの。なんて。
「えっと、何が……」
「俺と由香のしょーーーーもない意地張り合い合戦にお前を巻き込んでたことー」
「……別に、そんな」
「あーこれでやっと解放されたー」
これまた、意味ありげな言葉を草太は口にする。
そして、ぐうっと伸びをした後に目を細めて笑った。
「お前のファンたちからなー、俺はいっつも『草太と由香の世話に手いっぱいだから、絵里子ちゃんは恋愛しないんだ』なんて言われてたからなー」
「そんな、」
「絵里子。お前もいい加減好きな奴くらい作れよー」
そう言って、笑う草太。
本当の本当に、笑えてしまう。
ずっと好きだったのは、草太だったんだよ。
今になっても、まだ草太は気付いてないみたいだけど。
「草太ー」
「なにー」
「彼氏の作り方、教えてー」
そんな事、言ってみたりする。
そんなもん俺が分かるか。なんていう草太の笑顔。
ずっと、ずっと大好きだったその笑顔。
自分だけに向けてほしいと、そう思っていた笑顔。
好きだった。大好きだった。
私は、彼の笑顔を心の中のトキメキ審査会に提出する。
この数年間はずっと、ずっとずっとトキメキ判定だったのに。
今日の審査の結果は、トキメかないボックス行き。
このトキメキ仕分けには、世界中のだれも異論を唱えまい。