魔女問答
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魔女は問う。
表も裏もない光の中で、輝きに溢れた闇の底で問いかける。
「きみに問おう」
それは幾度となく繰り返してきた問答の前の常套句だ。
「ここにきみがとても大切にしているぬいぐるみがある。きみにとっては唯一無二の大切なぬいぐるみだ」
年若い少女の目の前で愛嬌のあるぬいぐるみがもこもことした手を挙げた。まるで夢のような光景を前にして少女は喜色満面でぬいぐるみを胸に抱いた。
「ん? どうやらそのぬいぐるみの生地は酷く痛んでいるね。ところどころ縫い目も解れてきているようだ。きみの成長をそばでずっと見守ってきたからかな。中の綿もきみの唾液やら涙やらを吸収して黄ばんでいるみたいだ」
魔女がぬいぐるみを観察するように眺める。少女は魔女の視線からぬいぐるみを守るようにぎゅっと抱きしめて魔女の瞳を見返した。
「心配しなくて良い。私はきみの大切なぬいぐるみを取ったりしないよ。だけどそうだ。そのぬいぐるみもボロボロのままでは可哀相だから、少し修繕した方が良いと思う」
魔女の言葉に少女は頷いてみせた。ぬいぐるみだって、もらったときのように綺麗な姿でいた方がきっと幸せなはずだ。
「それじゃあここにある同じ素材で、そのぬいぐるみを修繕しよう」
魔女はどこからともなくふかふかの茶色い生地と真っ白い綿と細い糸を取り出すと、指をパチンと鳴らした。
すると、まずは中綿が真っ白に変わった。次いでボロボロだった生地が綺麗になる。最後に縫い目が整うと、少女の抱いていたぬいぐるみは瞬く間に新品同様の姿に生まれ変わった。
そしてそれと入れ替わるように魔女の手の中にはボロボロの生地と黄ばんだ綿と糸くずがあった。
「さあこれできみの大切なぬいぐるみは綺麗になった」
魔女がそう言うと、少女は嬉しそうに笑みを見せながらお礼を言った。
「ありがとう」
「どういたしまして。ところで新品と交換したこの素材たちだけど、もういらないのなら捨てちゃっても良いのかな?」
手の中の素材を少女に示すと、少女は汚いものを見るような眼を向けた。
「うん。さっさと捨てちゃって」
少女の淡泊な言葉を聞いた魔女はおかしそうに笑った。
「それなら、これを私がどうしたって構わないよね」
言うやいなや、魔女は手の中の素材を使って少女がさきほどまで抱いていたぬいぐるみと全く同じぬいぐるみを作り出してみせた。
「おやおや……これはさっきまできみが大切に抱きしめていたぬいぐるみと瓜二つだ。でももうこれはきみにとって大切な、唯一無二のぬいぐるみではないんだよね」
魔女が悲しそうな瞳でボロボロのぬいぐるみを撫でた。
その様子をじっと見つめていた少女は、不意に顔を俯けると、魔女に向かって手を伸ばした。
「…………して」
「んん? 何だって?」
「…………返……して。わたしのぬいぐるみ……返して」
魔女は抑えきれずに口元を歪めた。
「きみはおかしなことを言うんだね。これはいま私が作ったぬいぐるみで、きみの大切なぬいぐるみなら、いまもきみの腕の中にあるじゃないか」
魔女はこれまでの経緯を踏まえた上で、淡々と事実のみを告げた。
「……これは、違うもん」
「何が違うというんだい?」
「…………」
少女は答えられない。
「ふふ、不思議なものだ。きみが抱いているそのぬいぐるみは、きみが大切にしていたぬいぐるみのはずだった。でもいまはどうだろう。ぬいぐるみを構成していた素材を新しいものと取り替えていったことで、そのぬいぐるみはいつしかきみが大切にしていたぬいぐるみではなくなってしまったようだ。そして、きみが捨てても良いと言った素材でもう一度作ったぬいぐるみを、今度は返してと言う」
魔女が掌にぬいぐるみを載せると、ぬいぐるみは独りでに動いてちょこんと座った。
「きみにとっての本物とは、いったいどっちなのだろうね?」
幼い少女は両の瞳にいっぱいの涙を浮かべながら、やがてゆっくりと、自分にとっての大切な方を指さした。
「それがきみの答えかい?」
少女は無言のまま静かに頷いた。魔女が草臥れたぬいぐるみを少女に差し出すと、少女はふたつのぬいぐるみを抱きしめて顔を埋めた。
「……わからない。わたしにはもうわからないよ。……ねえ、どっちが本当なの?」
少女は嗚咽を漏らしながら涙声で尋ねる。
「さてどうだろう。私にはわからない」
魔女は形の良い眉を寄せて、ぬいぐるみに視線を注いだ。
「大切なものを大切にするためにそれを構成している要素を次々に入れ替えていくと、いつしか大切にしていたものとは見た目だけが同じで、だけどすべてが決定的に違うものに変わってしまうのかもしれない。それでも大切にしていたものに対する気持ちが失われてしまうというわけではないはずだ。綺麗になったぬいぐるみに対してきみが最初に抱いた思いも、きっとそうだ。そしてそれと同じくらい、きみの思い出の中にある草臥れたぬいぐるみも、大切なものであるはずだ。だからきみの思いは正しいかもしれないし、間違っているのかもしれない。それを決めるのは、私じゃない」
魔女は妖艶に微笑む。
「そのぬいぐるみを大切に思っているきみの気持ちは、かけがえのない本物だよ。そしてそれは私が持っていないものだ」
そうして少女は魔女に寄り添った。
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魔女は問う。
遠い地、遠い世界、遙か彼方の何処かで問いかける。
「きみに問おう」
それは幾度となく繰り返してきた問答の前の常套句だ。
「きみの目の前には、ある部屋の扉がある。その部屋の中にはひとりの人間が入っているのだが、扉からでは決して中の様子を覗うことができない仕組みになっている」
「……扉には覘き穴も窓もないってことか?」
「ふふ、いまはそんな具体的なことまで気にしなくていい。それはいまきみが知らなくても良いことだ」
どうにも納得していない様子の男に対して、魔女は浮かべていた笑みを消してわずかに眉根を寄せた。
「ともかく、きみは部屋の中を覗うことができない。ただしきみは部屋の中に人間がいることを知っているし、部屋の中の人間と意思疎通ができる唯一の手段を持っている」
魔女がこれから何を言おうとしているのかわからず、男は首を傾げた。だがそれで構わない。話はこれからだ。
「きみは部屋の中にいる人間と意思の疎通を図ろうと試みた。しかし意思疎通をするための唯一の手段というのは筆談だった。そしてきみが読み書きできる言語は、自分の母国語のみだった」
「……筆談ができるということは紙か何かを中に入れることができるということだろう? だったらその隙間から中を覗くことや、それができなくても声で話すことはできるんじゃないのか?」
「こちらが提示している世界の規則をねじ曲げようとしないでくれないかな。世界にはきみが無知であるがゆえに知らないこともたくさんあるんだ」
男が悔しげな表情を見せるが、魔女は構わずに話を戻した。
「さて、きみがきみの母国語で意思の疎通を試みると、少しの間を置いて部屋の中からきみの母国語での返事があった。良かったね。では部屋の中にいる人間はきみと同じ人種の人間だろうか?」
「それは……たぶんそう思う」
男は少し言い淀んでから、そう答えた。
「情報が制限されている以上、そういう風に判断するのが妥当だ」
「ふうん、なるほど。相手の姿形が見えない。同じ言語を介する。そのふたつの理由から、きみはそう判断した」
「そうだ」
「それなら条件を少し変えようか。部屋の中にいるのはきみと同じ人間ではなく、何者かだったとする」
人間ではない、何か。
瞬間、男は魔女の問いの意味を知ってギクリとした。
「部屋の中にいる見えない何者かは、きみからのメッセージを読んで、きみと意思疎通しようと試みた。幸いにもその試みは成功する」
魔女は微笑む。
「部屋の中にいる見えない何者かを、きみはきみと同じ人種と言えるのだろうか?」
「…………」
男は答えられない。
部屋の中にいる何者かが自分と同じ人間ではないと伝えられただけで、男の信じる何もかもが崩れ去ったような気分だった。
しかし、魔女は待ってくれない。
「さあ、きみの答えを聞こう。相手の姿形が見えない。同じ言語を介する。その条件は何ひとつ変わっていないんだ。これは簡単な問いかけだよ」
「……俺はきっと、扉を隔てた向こうにいる何者かを、俺と同じ人種だと……思う」
男は睨みつけるように魔女を見た。魔女は満足げに頷いた。
「そんな眼で私を見ないでくれないかな。これはきみが導き出した答えであって、私が強制したものではないんだよ。それに、この問いかけには明確な答えはないんだ。正解も不正解もない。いわば認識と意識の問題だ」
魔女は笑みと姿勢を崩さない。それはまだ話が終わっていないということだ。
「視点を変えよう。実は部屋の中にいる何者か――きみと同じ人間かもしれないしそうではないかもしれない何者かは、きみと同じ言語が理解できていたわけではなかった。何者かは部屋の外から差し入れられた文字列を見ると、あらかじめ決められていた命令に従って部屋の中に用意された辞書を開き、文字列の翻訳を試みたんだ。そうして部屋の外にいるきみからのメッセージを解読すると、今度はそれに応じるための言葉を組み立てた。健気だよね。そうやってできあがったメッセージを読んでいたのが、きみだ」
そんな話は聞いていないと男は憤慨したが、魔女からしてみてもそんなことは一言も言っていない。
言っていない以上、そういう可能性もまた、あったということだ。
「きみと部屋の中にいる何者かは、お互いの素性も知れないままに、様々な事柄でちぐはぐながらも意思疎通を続けることができた。それはお互いにとって幸せなことだったと、そういう風に解釈することもできるだろうね。だけどもし、知らずにいたことを知ることができていたならば――ひょっとしたらそこにはまた別の解釈が生まれていたかもしれない」
「……俺はいったいどうしたら良かったんだ?」
男は弱々しげな声で尋ねる。
「さてどうだろう。私にはわからない」
魔女はゆっくりと否定する。
「知らなければ幸せなこともあるだろう。無知であることは何も悪いことばかりではないさ。だからきみの考えは正解だったかもしれないし、あるいは不正解だったかもしれない。それを決めるのは、私じゃない」
魔女は妖艶に微笑む。
「知らずにいられることが幸せだなんて、私には到底考えられないことだけれどね」
そうして男は魔女の話をもっと聞いていたいと願った。
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魔女は問う。
万華鏡の世界。たゆたう波のような心地で問いかける。
「きみに問おう」
それは幾度となく繰り返してきた問答の前の常套句だ。
「きみは質問者だ。きみが何かを質問すると、その質問に対する答えが二つ返ってくる。それは回答する者が複数存在するという意味だ。ただし、回答は音としてではなく、文字として返ってくる。しかしながら安心してほしい。たとえきみがどんな質問をしたとしても、この二つの回答は、必ずきみにも理解できる内容で返ってくることだろう」
女は魔女の言葉を理解して相づちを打った。
「きみはいくつかの質問を投げかけてみた。昨日見たテレビは? 今日の昼に食べたものは? 明日は何をする予定なのか? 二つの回答は当然ながら違う内容だったけれども、およそ当たり障りのない、ありふれた答えだった」
魔女が何を問おうとしているのかわからない。きょとんとした眼を向けると、魔女は口の端をそっと釣り上げた。
「そんな他愛のない問答の末に、きみはある事実を告げられる。これまできみとやりとりをしていた回答者のうち、片方は人工知能――つまりは機械だったというのだ」
聡明な女は魔女がこれから自分に何を問おうとしているのかを理解した。
「今度はきみが回答者となる番だ。きみには二つの回答者のうち、どちらが機械で、どちらが人間であったか、当てられるかな?」
先回りして正解を模索していた女だったが、これだけでは到底わかるはずがない。
「…………」
「答えられないのかい? それならきみは見破れなかった機械に対して、きみと同等の知性を持つと認めることになるよ」
「……これだけの情報だと、当てずっぽう以外で答えを導き出すなんて不可能だわ」
女は膝の上で重ねた両手をぎゅっと握った。
「……でも、まだハッキリと断言できることがあるわ。たったそれだけのやりとりでは、その機械が私たちと同等の知性を有しているとは言い切れないということよ」
「ほぅ」
魔女は感心したように瞳孔を開いた。
「その機械は本当に思考しているといえるのかしら。単純な話、あらゆる質問パターンに対して決められた回答を返しているだけじゃないの?」
「思考するという行為が、インプットに対するアウトプットを模索するという意味だとするならば、私やきみたちだって、機械となんら変わらないはずだよ」
とはいえ、と魔女は女の言葉を肯定した。
「それならばきみはきみ自身が納得できるまで、二つの回答者と質疑応答を続けてみるといい。しかしながら回答者のひとつである人工知能はきみたち人間を模倣している上に、機械自身も自分が人間だと思って疑っていない――きみたち人間が自分自身を人間だと思っているようにね。だから間違っても『あなたは人間ですか?』なんていうつまらない質問はしないでほしい。そうなっては、私はきみの知性を疑わざるを得なくなってしまう」
その質問に対する回答者の答えは当然『私は人間です』だからね、そう言って魔女は肩を竦めた。
「…………」
女は自分の浅はかな考えを魔女に見透かされて苦虫を噛みつぶしたような顔をした。人間を模倣した機械が相手では、たとえ百や千の質疑応答を交わしたところで、その構図は永遠に変わることがない。
「……参ったわ。私には永遠にわかりそうにない。ねえ、貴女には答えがわかるの?」
しかし魔女は頷かなかった。
「さてどうだろう。私にはわからない」
口にしたのは否定の言葉――その言葉に魔女は安堵した。
「およそきみたちと同じような振る舞いをするものを前にしたとき、そこに決定的な差異が見つからない限り、明確な違いを明らかにする方法は、おそらくない。故に正解や不正解を決めることはできない。正解もないし、不正解もない。偽物は本物になって、嘘は真実となる」
魔女は妖艶に微笑む。
「それでも最後には見た目や主観で物事を決めつけてしまえるきみたちは、きっとどうしようもなく愚かで、だからこそ、これまで生き残り続けてこられたのだろうね」
女は機械のようにぎこちなく笑った。
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魔女は問う。
暗い暗い森の奥深くで、囁くように問いかける。
「きみに問おう」
それは幾度となく繰り返してきた問答の前の常套句だ。
「きみはいま、トロッコが走る線路のそばに立っている。そしてきみのすぐ近くには分岐器がある」
魔女は音を紡ぐ。
「さて、いま現在線路を走るトロッコには三人の見知らぬ人間たちが乗っていると仮定しよう。乗っているのは男でもいいし女でもいい。大事なのは、きみにとって見知らぬ者たちであるという、ただそれだけだ。いいね? トロッコには三人の見知らぬ人間たちが乗っている」
要点を何度も告げることで、本質を見逃さないように気を配る。
「そのトロッコは不幸にも暴走状態になってしまった。端的にいえば、止められないということだ。線路の上を走っている以上、道を誤ることがないというのは不幸中の幸いだったかもしれない」
そう言いながらも、魔女はこれからとんでもない不幸が起こることを知っている。
「だけど、ここでひとつの問題が発生した。暴走しているトロッコの目の前で、線路が分岐していた」
魔女は一呼吸を置くと、両手の人差し指をそれぞれ立てた。
「分岐している線路の一方は途切れていて、その先は崖に繋がっている。当然ながらそのルートにトロッコが進行すれば、トロッコは崖の下に落ちて乗っていた見知らぬ者たちが死んでしまうのは言うまでもないことだ。そしてもう一方の線路は先に続いているが、運の悪いことに線路の上にはこれまた見知らぬ者がひとり、ぽつんと立っていた。この者にいまからきみが声をかけたところで、もう間に合わない。このルートにトロッコが進行すれば、トロッコに乗っていた三人の見知らぬ者たちは助かるが、線路上にいたひとりの見知らぬ者は死んでしまう」
魔女は残忍な笑みを浮かべた。
「きみのすぐそばには線路の分岐器があると、最初に言ったね。そのままでは崖へと繋がっているそれを、きみの判断と行動で切り替えることができるんだ。さあ、きみはここで選ばなければならない。三人を見殺しにするか、三人を救って一人を犠牲にするか。大丈夫。きみがどちらを選ぼうとも、きみが法的な罪に問われることはない。きみの手は罪に汚れるのではなく、命を救う手となるんだ。誰かに褒められこそすれ、責められることはない」
本当はそんなことないとわかっている。だが道徳的な観点はこの場合考慮すべきではない。
「トロッコが分岐地点に迫っている。考えている時間はあまりないようだ。さあどうする?」
「……わたしは……三人を救うことを選ぶ」
三人の命と一人の命。単純に考えれば、より多くの命を救うべきだ。
果たしてこの答えは正解だったのか。
魔女は頷いた。
「なるほど、それがきみの答えか。ふふ……」
「何がおかしい?」
「いやいや失礼。一般論に当てはめて考えればそう答えるだろうと思っていただけだよ。ただ私がこういう問いかけをすると、少なからずトロッコに乗った三人を崖下に落とすことを選ぶ者がいるんだ。彼らがどういう考えを持ってそういう答えに至ったか、きみには想像がつくかい?」
「……」
これまで真っ当に生きてきた彼は答えられない。無言のままで視線を向けられた魔女は、あっさりと答えを口にした。
「彼らはね、ただ見殺しにしたんだ。私の言葉を覚えているかな? 線路はきみが何もしなければ崖へと繋がっていると言ったことを」
それだけ言うと、彼はすべてを理解したように眼を見開いた。
だけども魔女は最後まで言葉を続ける。
「彼らは分岐器に手をかけず、見て見ぬふりをすることを選んだんだ。事実、分岐器に手をかけて線路の進むべき方向を変えた時点で、その手は間接的にだが見知らぬ一人を殺すことになるのだからね。たとえ法的な罪には問われなくても、罪の意識に囚われないとは言っていない。一般論に当てはめて考えられる一般的な感性の持ち主ならば、それが苦渋の選択であるとわかっていても、この先の人生で自分の手を汚してしまったことに悩み続けるのだろうね」
彼は魔女に心の裡を見透かされて顔を歪めた。
「だから、きみとは逆の選択をする者たちもいる。そうやって眼を背け、見て見ぬふりをして、すべてを忘れてしまえばいい。どちらかといえばその選択のほうが楽なのかもしれない。だけど、どちらを選んでも悪くはないんだ。この問いかけには正解も不正解もない。正義も悪も、良いも悪いもない、答えの出ない問いかけなんだ」
前置きはこのくらいにしよう。
魔女はそう告げると本題を口にした。いままでの魔女の問答が本題ではなかったことに彼は面食らったが、続く魔女の言葉を聴くと、今度は顔を蒼白にした。
「きみが救ったトロッコの走る線路の先が、またも分岐していた。先ほどと同じように一方の線路の先は見事に途切れていて、途切れた先には崖ではなく、巨大な岩壁があった。当然ながら暴走したトロッコが岩壁に激突すれば、トロッコは大破するしトロッコに乗っていた見知らぬ者たちは絶叫を上げて痛みに呻きながら息絶える」
それは崖に落ちて眼前から見えなくなるよりも酷な話だ。
だがそれ以上に、もう一方の線路には酷な状況が提示された。
「もう一方の線路上には……おやおや、これは見知らぬ誰かではないね。線路上にいたのは、きみがもっとも愛する者のようだ。家族? 恋人? まあそれは誰でもいい。とにかく、きみがもっとも愛する者が線路の上に立っていた」
魔女は再び残忍な笑みを浮かべた。
「きみが何もしなければ、見知らぬ者たちのトロッコはきみがもっとも愛する者を轢き殺して止まるだろう。だがきみが分岐器に手を触れ、トロッコの進行方向を岩壁へと変えてしまえば……きみがもっとも愛する者は救われる。その代わりに、トロッコに乗っていた三人の見知らぬ者たちは絶望の果てに死ぬ」
三つの見知らぬ者たちの命と、たった一つの愛する命。
より多くの命を救うべきだ。
理性は彼にそう訴えかけるが、感情が、それを許さなかった。
彼は葛藤する。
しかし魔女は待ってくれない。
「暴走したトロッコが分岐地点に迫っている。さあ、きみの判断を私に示すんだ。瞬間的に思い描いたそれこそが、きみの本当の答えだ」
「……わたしは……わたしは…………愛する者を助ける」
彼は再び分岐器に手をかける。
見知らぬ者の命であればより多くの命を救うと答えた彼は、たったひとつの愛する命を救うために、より多くの命を犠牲にすることを選んだ。
「それがきみの答えかい?」
「……ああ、そうだ」
彼はいまにも泣き出しそうな顔で応じる。さまざまな感情を無理やり抑え込んで、それでも抑えきれずに声を震わせた。
「……わたしの答えは、正しかったのか?」
彼は搾り出すように魔女に尋ねた。
「さあどうだろう。私にはわからない」
しかし魔女は首を横に振った。
「多くの者たちがきみと同じ答えを選んだ。先ほど見て見ぬふりを選んだ彼らにしてもそうだった。だからきっときみの選択は正しかったのかもしれない。あるいは、間違っていたのかもしれない。それを決めるのは、私じゃない」
魔女は妖艶に微笑む。
「感情というものは時として残酷で恐ろしいものだけど、それを持つきみたちを私は羨ましく思うよ」
そうして彼は魔女の前で跪いた。
★☆★☆★
魔女は問う。
夢の中で、無意識の中で、ゆっくりと問いかける。
「きみに問おう」
それは幾度となく繰り返してきた問答の前の常套句だ。
だけどもそれに続く言葉は、いままでとは違っていた。
「私は――誰だ?」
私は"わたし"に問いかける。
果たしてそれは、永遠に自問を続けてきて、永遠に答えの出ない問いかけだった――そのはずだった。
これまでの彼女たちの問答もそうですが、これらは有名な思考実験である「テセウスの船」、「中国語の部屋」、「チューリング・テスト」、「トロッコ問題」をベースにしています。
本来ならそれぞれ別個のシナリオとして掲載予定だったのですが、諸々の事情により本編への関わりが強いものをピックアップしてまとめました。
今更ながら封術学園本編はストーリードリブン(物語主導)で話を進めています。
なので各キャラクターたちの心理描写に当たる部分は章単位でまとめながらあまり細かな描写をせず、読み手の解釈に委ねるという若干残念な内容になっています。
それを一応補完する意味でもいくつかの短編がストックされているのですが、次回の更新は、おそらく四章の公開になると思います。
もう少しお待たせするかもしれませんが、そんな感じでよろしくお願いします。




