九槻月姫の予感
第79話「すべては斯くも唐突に(6)」の裏話です。
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モニターにはライダースーツのようなウェアを着た女子学生たちが重力を無視するかのように球体の表面を滑る様子が映し出されている。
四校統一大会の五日目――『螺旋の球形』の決勝戦が行われているそのとき、九槻月姫はリビングのソファに腰を下ろしてその中継映像を見ていた。
決勝戦は第三クォーターを迎えていよいよ後半戦。残った印の数だけで見ても鷹津風術学園のスフィア・智美・アンダルシアが優勢であり、技量で比較しても他の選手と一線を画している。
「去年の貴女とは見違えるようね」
昨年までは同級生だった彼女を知る月姫はひとり呟く。
カメラを介して映し出されている映像では術式発生の際に生じる過剰光までは映らないが、宙に浮かぶ巨大な球体を滑るためには球体と自身との間に発生する張力を変化させる封術を定常的に行使しなければならないはずだ。良くも悪くも大雑把な(大らかな?)性格をしていたスフィアがこのような細かな調整を必要とする術式まで使えるようになっているとは思いも寄らなかった。
「これも一年間の成果なのかしら」
あの封術事故からほぼ一年が経つ。
同級生だった彼女は一つ上の学年へと進み、休学中の月姫は三年生のままだ。
モニターの向こう側で活躍しているスフィアを見てしまうと哀愁にも似た思いを抱いてしまうが、それ以上に月姫は彼女の成長を喜ばしいものだと感じていた。
「それでもまだもう少し、重心の移動が甘いかしらね」
相手選手を避けるときにバランスを崩したスフィアが球表面に手をついて持ち堪える。掌に張力改変の術式を掛けた咄嗟の判断力は称賛するが、気のせいかスフィアの気持ちが急いているように見えた。
「そういえば……秋弥たちはどこへ行ってしまったのでしょうか」
作戦スタッフ席は競技フィールドが見やすい席であるためか、作戦スタッフたちの姿が時折カメラに映ることもあったのだが、第三クォーターに入ってからは鷹津封術学園の作戦スタッフの姿を見ていなかった。
「インターバル中にも悠紀ともめていたみたいですし……」
そのときから既に秋弥の姿がなかったことに懸念を抱いていた月姫だったが、悠紀たちまで何処かへ行ってしまったことと結びつけて考えると、昨年度の封術事故と重ねて何らかの問題に巻き込まれたのではないかと不安になってしまう。
「……それでも、リコリスと一緒なら大丈夫ですよね」
本当ならば自分の力で秋弥を護ってあげたいと思うが、弟はきっとそれを望まないだろう。それに封術事故の後遺症によって装具を扱えなくなってしまった今の自分では弟の無事を祈ることしかできない。
「だからお願い。私の代わりに秋弥を護ってね、リコリス」
その言葉が届くはずもないとわかっていながら、月姫は目を閉じてそっと願う。
たっぷりと時間を掛けて祈った月姫が薄く瞼を開くと、いつの間にか『螺旋の球形』の決勝戦が終わっていた。
「あら?」
それほどまでに長い時間目を閉じていただろうかと月姫は時間を確認する。第三クォーターが開始されてから動き始めていた時計は四分二十一秒で停止している。どうやら第四クォーターを待たずして決着がついてしまったようだった。
「見逃してしまいましたが、スフィアが勝ったのかしらね?」
モニターの上部には鷹津封術学園のスフィアが『螺旋の球形』を制したことを示すテロップが表示されていたが、カメラが映しているのは他校の選手たちばかりで、肝心のスフィアの姿がカメラに映ることはなかった。
「ひょっとしてスフィアも?」
試合に勝ってすぐに何処かへ行ってしまったのだろうか。友達思いの彼女ならありえそうなものだ。
「このタイミングで何か起こっているのだとしたら、封術事故に関係のあることなのかしら……」
月姫は見所がなくなってしまった中継から眼を離してモニターの電源をオフにすると、再びそっと眼を閉じた。
そうして思い返す――封術事故が起きた後で、榊瑪瑙と会話したあのときのことを。
そう、あれは――。
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「ごめんなさい」
病室の扉が開かれた直後、榊瑪瑙は開口一番に謝罪の言葉を口にした。
「頭を上げてください」
ベッドの上で上体を起こしていた月姫は頭を下げ続ける瑪瑙に向かって優しい声音で言った。
「何も貴女が悪いわけではありませんから」
あの出来事に関して相手選手から謝罪をされても、月姫としては挨拶に困ってしまう。
恐る恐る顔を上げた瑪瑙に、月姫は柳眉をハの字にして困ったような表情のまま優しげに微笑んで見せた。すると瑪瑙の両眼には途端に涙の玉を浮かび上がり、ついには鼻を啜るような音とともに泣き出してしまった。
「あらあら……」
そんなに重傷そうに見えるのかしら、と月姫は自分の状態を客観的に見つめ直す。ベッドに身体を預けているものの、病室を訪れた瑪瑙と違って月姫には外傷らしい外傷は一切ない。封術の暴走を防ぐために受けた傷は肉体的なものではなく精神的なものであって、今こうしている自分は一見すれば健康そのものに見えるはずだ。
(あぁ、だから余計になのかしらね)
無理をして気丈にしていると映ったのだろうか。それならそれで申し訳ないことをしたのかもしれない。
瑪瑙の気持ちが落ち着くのを待ってから、月姫は扉の前にいたままでは話しづらいからベッドの傍まで来て椅子に座るようにと声を掛けた。瑪瑙はただこくんと首を縦に振って、月姫の言うとおりにした。
「……あの、本当にごめんなさい」
椅子に座ると、瑪瑙がまた謝った。
「それに……助けてくれてありがとうざいました。もしもあのとき九槻さんがわたしの暴走を止めてくれなかったらと思うと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです」
そこで瑪瑙は言葉に詰まった。
「……九槻さんの容態は、どうでしょうか?」
月姫の病室に訪ねてきたということは、瑪瑙の容態はほぼ快復したのだろう。対して自分はまだ病室のベッドの上だ。この違いが意味することはもはや明らかだったが、月姫はできるかぎり瑪瑙の感情を刺激しないように言葉を選ぶことにした。
「肉体的な怪我はこのとおりほとんどありません。ですが封術結界を貫かれたときの反動で受けた『意』への負荷が非常に大きかったようで、もう暫くの間は入院していなければならないそうです」
入院を続けているのは精神的な負荷によって生じた情緒の不安定によるところであって、それがある程度落ち着いたところでさらに別の問題もあるのだが、わざわざ言う必要もないだろうと月姫はあえて伏せることにした。
「榊さんはもう快復されたのでしょうか?」
「はい、おかげさまで何とか。ですがあの日以来、封術を行使することが怖くなってしまって……」
無意識領域下で構築する封術は己の『意』による影響を受けやすい。月姫が抱えている別の問題――装具を召還できなくなってしまったこととも、それは大きく関係していることだった。
「封術の暴走……知識としては知っていたことでも、それが実際に自分の身に起こるなんて想像もしていませんでした。それもあれほどの大ごとになってしまうだなんて……」
瑪瑙は両腕で自分の身体をぎゅっと抱きしめた。注意して見るとその身体は小刻みに震えていた。
「それに、未だに実感がないんです……。どうしてあんなことが起こってしまったのか全然わからなくて。何がいけなかったのか、何をしてしまったのか。何度も何度も思い出そうとしているのに思い出せなくて……それなのに目を瞑ると決まっていつも思い出してしまう声があるんです」
「声ですか?」
「……はい。なんて言っているのかはわからないんですけど、その声を聞いてからの記憶がなくて……まるで自分が自分ではなくなってしまったようにも思えるんです。……あの、わたし変なこと言っていますよね。ごめんなさい」
「いえ、そんなことはありませんよ」
瑪瑙が聞いたという謎の声。それはいったい何なのだろうか。
「そのことは誰かに話しましたか?」
「え、えっと……事故の原因を調査している封術師の方と学園長にはお話しました」
「それを聞いて何か言っていましたか?」
「……いえ。特に疑問を持たれてもいなかったと思います。混乱していたわたしの幻聴だと思って聞き流したのかもしれませんね」
瑪瑙の言うことも一理あるが、簡単に幻聴だと片付けて良い問題なのだろうかと月姫は考える。
封術が暴走する直前、月姫は嫌な感覚を覚えていた。
激しい力の奔流。
爆散する『波』の衝撃。
荒れ狂う事象改変の光。
それらが瑪瑙の『意』の中で混ざり合って膨れあがり、大爆発を引き起こす光景を、月姫は幻視していた
「私は、そうは思いません」
「えっ?」
思わず聞き返した瑪瑙に、月姫は言い直す。
「榊さんは封術の暴走が自分のせいで起こってしまったと考えているのかもしれませんが、私はそうは思いません。貴女と向き合っていた限りですが、私には榊さんの封術式に何らかの問題があったとは思えませんし、少なくとも封術が暴走する寸前、貴女は常駐型の封術式以外の術式を構築していなかったはずです」
瑪瑙がハッとして目を見開いた。
「どうして、そんなことまでわかってしまうんですか」
「お互いの装具を交えて戦っていれば、何となくわかってしまうものなのですよ」
「そういうものですか……わたしにはまだわかりませんが、さすがは《矛盾螺旋》の銘を持つ九槻さんです」
予想外の称賛をもらった月姫は曖昧に微笑む。《矛盾螺旋》という銘は封術協会に勝手に付けられたものだが、今は失われている月姫の特異な力と照らし合わせれば、あながち間違いではないのかもしれない。
「えっと、ありがとうございます。九槻さんにそう言っていただけるだけでも、肩の荷が下りたような気がします」
瑪瑙がどう思おうとそれは彼女の自由だ。こちらから何かを強制するつもりはない。それに結果的に見れば瑪瑙を助けたように見えたというだけで、月姫は彼女を助けようと思って封術の暴走を防いだわけではない――自分の応援に来ていた弟さえ護れればそれだけで良かったのだから、余計なことは言わない方が良いだろう。
(私は聖女でも女神でもないですしね)
ここにはいない同級生二人を思い出して内心で呟きながら、だけどもどうなのだろうと月姫は振り返る。
瑪瑙の話を聞く限り――そして自分が視た限りの出来事を結び付けて考えれば、この封術事故は封術に精通した人物による介入や瑪瑙の不注意で引き起こされたものではないと結論付けることができる。
だとすれば、この件に関わっている者は人ではない存在――隣神なのだろうか。
(榊さんが聞いたという声も気がかりですね……)
四校統一大会には『始まりの封術師』である四校の学園長だけでなく『星鳥の系譜』に名を連ねる著名な封術師たちも観戦に来ていた。その真っ直中で誰にも勘付かれることなくこれだけの大事を引き起こせるとしたら……それはリコリスのような高位隣神の仕業であるとしか考えられない。
(だけど、それなら目的はいったい何だったのかしら?)
軽傷者こそ多数だったものの、月姫が身を挺して封術の暴走を防いだことで死者は一名も出なかったと聞いている。重傷を負ったのはその中心にいた瑪瑙と月姫だが、二人ともこうして生きている。多少の後遺症こそ残っているが、それも時間とともに快復していくものだ。
(このことは秋弥には話さない方が良さそうね)
今日この場に弟がいなくて良かったと月姫は内心で安堵していた。もしも秋弥が瑪瑙との会話を聞いていたら、彼は封術事故の犯人を追いかけて今以上の危険に身を置いていただろう。たとえ母親の紹介だったとはいえ、秋弥には浅間総一郎の手伝いもできる限りしてはほしくないと、月姫は密かに思っていた。
それから瑪瑙と学園のことやこれからのことを話したりしているうちに面会の時間は終了となった。
名残惜しそうに去って行く瑪瑙を見送りながら、月姫は今日の出来事を自分の胸の内だけに留めていこうと決めたのだった。
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月姫はゆっくりと瞼を開く。
秋弥たちも自分と同じ結論に行き着いたのだろうか。
あるいは、もっと先の真実にさえも――。
不安は依然として残るが、秋弥たちならばどんな困難もきっと乗り越えられるだろう。
そこに自分がいなくても。
いつかきっと、一緒にいられるように。
たとえ先が視えなくなってしまっていても、月姫は二人の友人と二人の家族を心から信頼していた。
SSというよりVSSですが……ポロッと載せてみます。……4章は?