第50話「異端の名」
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その日の夜、秋弥が自室のベッドに寝転がって電子書籍を読んでいると、部屋のドアをノックする音を聞いた。
「秋弥、起きているかい?」
「起きてるよ」
扉越しにそう答えると、綺羅がドアを開けて中へと入ってきた。
「ふむ、ずいぶんと綺麗に片付いているね」
物珍しそうに部屋の中を見回す綺羅。滅多に家に帰ってこない彼女は家事全般が苦手なので、整理の行き届いた息子の部屋を見て感心しているようだった。
「母さんの部屋に物が多いだけだよ」
秋弥は上体を起こして壁に背中を預ける。
綺羅の部屋はたまに彼女が帰ってきた際に寝泊まりをするためだけに使われているのだが、綺羅は帰ってくるたびに研究の試作品やら用途不明な実験器具を家に置いていくため、一種の物置部屋の様相を呈しているのである。それでも秋弥と月姫が定期的に片付けを行っているので、部屋が汚いということはない。
単純に、物が多いだけだ。
「そうかい? んー…まあ、そうかもしれないね。でも、寝るスペースさえ確保されていればそれで十分なんだよ」
「母さんはそれで良いかもしれないけど、こっちはそうもいかないんだよ」
秋弥が笑うと、綺羅も笑った。
「それで、何か用?」
「うん、ちょっと話をしようと思ってね。時間は大丈夫かい?」
「問題ないよ。何の話?」
デスクに備え付けられた椅子を視線で示す。すると綺羅はアイコンタクトで頷き、椅子を引いて腰掛けた。
「んー……そうだね。月姫にはついさっき伝えたのだけれど、明日にはまた研究所に戻るからさ。今のうちに挨拶をしておこうと思って」
「早いな。もう少しゆっくりしていけば良いのに」
残念そうに言うと、綺羅は照れた方に頬を掻いた。
「そうしたいのは山々なのだけれどね。今回は日本に用事があったついでに、こっちに帰ってきただけだから。そういう意味ではこれも、休みではなく仕事の一環なんだよね」
「そうか。相変わらず忙しそうだな」
「忙しいことは良いことさ。やるべきことがあるという意味だからね」
「そういうものかな」
「そういうものだよ。大人の世界ってやつはね」
綺羅がしみじみと言った。
「だからまあ、あまり二人のとこもかまってあげられていないのだけどね。ねえ秋弥。率直な意見を聞きたいのだけれど、秋弥から見て、月姫の調子は良くなってはきているかな? できるだけ正直に答えてほしい」
「そうだな……春頃に比べればだいぶ良くなっていると思うよ。感情のコントロールがたまに不安定になることもあるけれど、頻度で言えば月イチくらいになった。装具の召還も封術の行使もまだできないみたいだけど、普通の生活を送る分には何の支障も出ていない程度には快復したと思う。……それに俺は、姉さんはもうこのままで良いと思うんだ」
姉が封術師見習いにならなければ——。
封術師としての才能なんてなければ、こんなことにはならなかったのだから——。
「その代わりに秋弥が封術師となって、月姫のことを護るのかい?」
「あぁ。俺だけじゃない、リコリスだっている」
言うと、綺羅は穏やかに微笑んだ。
「秋弥も、月姫と同じ事を言うんだね」
「え?」
「互いに互いを想い合っているってことさ。やっぱり血の繋がった姉弟だね」
秋弥の部屋に来る前に寄った月姫の部屋でのやりとりを思い出して、綺羅は嬉しそうに眼を細めた。
「不思議だよね、子供という存在は。親の知らないところで、いつの間にか大きく成長しているのだから」
子供の成長を純粋に喜ぶ母親の姿に、秋弥は途端、気恥ずかしくなって明後日の方を向いた。
「まあ、だけどどんな形であれ、月姫の様態が快復に向かっていることは素直に喜ぶべきことだよ。……封術に関わる情報体のロジックは未だに謎が多い領域だし、あとはやっぱり時間と、月姫の『意」の問題かな」
さて、と綺羅は一旦言葉を区切った。
「ところで本題なのだけれど、私たちの研究チームのパトロンが、月宮家だという話をしたのは覚えてる?」
「ああ」
秋弥は食卓での話の思い出しながら、頷く。
「秋弥も封術師見習いをしているのだから話には聞いたことがあると思うけれど、月宮という家系は『星鳥の系譜』に連なる十三の家系——その序列から外された異端の一族だ」
序列第一位 『天壌』の星条。
序列第二位 『万能』の鶺鴒。
序列第三位 『戦騎』の鴫百合。
序列第四位 『神域』の花鶏。
序列第五位 『魔術師』の鷹津。
序列第六位 『最巧』の斑鳩。
序列第七位 『糸繰り』の鶴木。
序列第八位 『疾風』の珠鳩。
序列第九位 『星詠み』の朱鷺戸。
序列第十位 『鳴動』の雲雀ヶ丘。
序列第十一位『流転』の鷺宮。
序列第十二位『神秘眼』の鵜上。
序列第十三位『暗黒』の烏丸。
そして——序列外位『異端』の月宮。
「もちろん知っているよ。月宮家は系譜の外側にいながら、序列第一位の星条家と双璧を成していた家系なんだろ」
秋弥は記憶の糸を辿るまでもなく、常識として知っていることを口に出した。
しかし綺羅はその言葉に、特に残念がる様子も見せずにゆっくりと首を左右に振った。
「いいや、違うよ。それはある側面から見れば正しいけれど……だけど決定的に違うんだよ、秋弥。確かに、一般的にはそう言われているのかもしれないけれどね。そして、それがいつの間にか真実として認知されてしまったのかもしれないけれどね」
本当の意味での真実はそうじゃない、と綺羅は言う。
「それはほんの一時のことで、誰にも認知されず、時間の流れとともにいつしか風化してしまったけれどね。実は月宮家も『星鳥の系譜』の序列に名を連ねたことがあるんだよ」
「えっ」
秋弥は思わず驚きの声を漏らした。
そんな話は封術史の教科書にも書かれていなかったし、誰からも聞いたことのない話だった。
とはいえ、頭ごなしに綺羅の言うことを否定することも秋弥にはできなかった。なぜなら、秋弥自身も封術を学ぶ上で『星鳥』については背景や歴史などを調べたことがあるのだが、月宮家に関する情報はほとんど見つからなかったからだ。
ゆえに、秋弥が月宮家について知っていることは少ない。
「封術の歴史において、月宮家は他の十三家と協力して封術を体系化し、そして、封術を管理するため、封術師によるコミュニティーである封術協会を作り出した。封術協会は封術師の先駆けとなった十四の家系を『星鳥の系譜』と名付けて、各家系に序列を設けた。だけど、月宮家だけはその序列に加わることを拒絶した。そのため、現代の『星鳥の系譜』は月宮家を除いた十三の家系から成り立ち、月宮家は『異端』と呼ばれるようになった——ここまでが一般的に知られている月宮という家系だよね」
だけど、真実は少しだけ違っていた。綺羅はそう言って秋弥の顔色を伺ってから、言葉を続けた。
「このことは封術研究をしている私でさえも知らなかったくらいなのだから、封術協会はよっぽどの手段を使って情報規制を行っているのだろうね。まあ私は幸運にも——いや、不幸にも、かな。研究を通じて月宮家と関わるようになったから知ることができたのだから、秋弥が知らなかったことを気に病む必要はないよ。『知らなくて当たり前のこと』というものは、この世界にはいくらでもあるものさ」
だからこそ人間は何でもかんでも知りたがるのだろうね、と研究者の綺羅は自嘲気味に言った。
そして、彼女は真実を言葉にする。
知らなくて当たり前のことを、秋弥に教える。
「月宮家の本来の序列は第零位——序列第零位『天元』の月宮」
始まりであり、終わりの位。
それが、第零位。
瞬間、秋弥の背筋に冷たいものが流れ落ちたような気がした。
急に空調の効きが良くなったときのような、気持ち悪い肌寒さを感じる。
——零。
そして、黒点——。
「月宮家という家系はずいぶんと特殊でね……。秋弥、どうして月宮家が『異端』なんていう差別的な二つ名で呼ばれているか、知っているかな」
綺羅がわざわざそう尋ねてくるということは、『月宮家が「星鳥の系譜」の外側にいるから』というような単純な答えでないことは間違いないだろう。
秋弥が答えられずに黙っていると、綺羅は「これも月宮家の中核メンバーから聞いた話なのだけれど、知ってしまえば、封術師にとっては納得のできるものだったよ」と前置きしてから、
「十三の家系が分家も含めて一つの大きな系譜を形作っているのに対して、月宮家には本当の意味で血統というものがない。封術師にとって血の繋がりはある種、絶対的な才能の遺伝ともいえるけれどね。月宮家の人間は唯一、血統ではなく、個々の才能でのみ繋がり合っている」
「それじゃあ……月宮家が異端視されているのは」
恐る恐るといった調子で尋ねる秋弥に、綺羅は小さく首肯した。
「月宮家の封術師は、たった一人でどうしようもないほどに完結してしまっている。だから系譜に連なることがない。開始点と終了点が重なって円環を造り、無限の円環を生み出している。それが月宮家なのさ」
ゆえに、始まりも終わりも無い。零だということか。
『星鳥の系譜』と呼ばれる序列の存在が示すとおり、血統を重視する現代の封術において、月宮家を『異端』という言葉で形容することは、言い得て絶妙だった。
「それで、話を戻すよ。私は研究のパトロンである月宮家の封術師とは、対面にしろ、通信にしろ、何らかの手段によって顔を合わせる機会が多少なりともあるのだけれどね。そこで聞いた話は秋弥にも関係のあることだと思うから、一応伝えておく」
「……」
ここまでの話だけでも十分に消化不良を起こしてしまいそうなのだが、月宮家の成り立ちに関する重大な情報よりも、さらに重要な話があるというのだろうか。
「月宮家には現在、中学三年生の双子の娘がいる。これは『何処かから連れてきた月宮』ではなく、本当の意味で『純血の月宮』らしい。そんな双子の月宮が、今年の四校統一大会を観戦しに行くらしいんだよ」
秋弥は適当な相槌を打って続きを促す。
「秋弥は選手としてではなく、自治会役員として会場に行くんだよね? だから念のため、警告しておくよ」
綺羅は言葉を区切って眉根を寄せると、表情を引き締めてから口を開いた。
「彼らは他者の才能を見出す能力に恐ろしいほど秀でている。親の私が言うのもなんだけど、秋弥や月姫のように『星鳥の系譜』に縛られていない才能の塊は、彼らとっては格好の獲物となり得る。だからもし、会場内で双子らしき中学生の女の子を見かけたとしても、できる限り関わり合いにならないように気を付けることだ」
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辺りが緑で囲まれた場所に、聖奈は立っている。
肌で感じる涼風も、植物の香りも、差し込む光の加減も、目に映るあらゆるものが、まるで本物のようだった。
「そのとおり。キミの見ているそれは、本物だよ」
声のする方を向くと、そこには真っ白なテーブルとパラソル、それに一脚の椅子があった。椅子にはうさぎの顔をした何者かが細長い足を組んで座っており、小さなティーカップを指でつまみ上げながら、優雅なポーズを取っていた。
「いいえ、それはありえません」
聖奈は否定する。
「ふぅん、どうしてそう思うのかな?」
「だってここは——わたしの夢の中なのですから」
自分の夢の中なのだから、目の前のそれらが本物ではないことを聖奈は知っている。
「面白いことを言うね」
「何が面白いというのですか?」
「面白いさ。だけど、この面白さをキミに話して聞かせるには、キミがそのままでは少しばかり話しづらい。どうかな、キミも椅子に座って、話をしよう」
その瞬間にはもう、聖奈は椅子に腰を下ろしていた。
しかしそれは別段、驚くようなことではない。
夢の中ならば、どんなに非現実的なことが起こったとしても、おかしくはない。
「どうしてあなたは、この景色が本物だと言い切れるのですか?」
自分の夢の中で、夢の中の存在に問いかけるというのも変な話だった。
「簡単なことだよ。偽物ではないからさ」
うさぎは笑った——ような気がした。
聖奈には、正面に座って喋っているうさぎが男性なのか女性なのか、ハッキリと判断できなかった。しかし、長い耳の生えている部分に穴を空けたシルクハットを被り、タキシード服を着ているから、何となく男性のように思えた。
「それでは答えになっていません」
「そうなのかい?」
「えぇ。それではどうして、偽物ではないと言えるのでしょうか?」
「本物だと知っているからだよ。最初に言ったとおりさ」
聖奈は軽く眩暈を覚えた。これでは話が先へと進まない。
「キミは——」
と、今度はうさぎの方から聖奈に問いかけてきた。
「ここがキミの夢の中だと言ったけれど、どうしてそう言い切れるのかな?」
それは自分自身がそうと認識しているからなのだが——。
「キミのその認識は、本当に正しいと言えるのかな」
聖奈は言葉に詰まる。
そう言われてしまうと、聖奈には返す言葉がなかった。
うさぎの言うことは何も間違ってはいない。
聖奈はここが夢の中であり、偽物であるということを知っているが、それを証明する方法がなかった。証明できないのだから、ここが本物だといううさぎの言葉を真に否定することもできなかった。
むしろ、聖奈が五感を通じて感じ取っているあらゆる情報が、これらを本物だと訴えている。これでは彼女の認識が誤っているのだと言われても、仕方がない。
「本当に正しい認識とは、どこにあるのだろうね」
言葉の意味が、わからない。
「たとえばテーブルの上にある林檎。キミにはこの林檎が何色に見えているのかな」
テーブルに視線を落とすと、そこには真っ赤な林檎が一個、置かれていた。
「……赤色に見えます」
「ふぅん、でもボクにはこの林檎が金色に見えるよ」
そう言ってうさぎはティーカップを落とした。割れた破片からハツカネズミが生まれてテーブルの上に飛び乗った。
「さあ、キミにはこの林檎が何色に見える?」
問うと、ハツカネズミは二足でバランス良く立ち、前脚を組みながら、
「バカ言っちゃいけないよ。林檎は金色に決まっているさ。金色じゃなかったらそれは林檎じゃないね」
呆れたように言った。
「そう、たとえばこんな風にしてキミ以外の皆が林檎は金色だと言ったとしよう。その場合、キミの見ている林檎が本当に赤かったとしても、世界が認めた林檎の色は金色ということになる。だけど、それは林檎が赤くないという証明にもならない。本当は皆の認識が間違っていて、キミの認識だけが正しいのかもしれない。あるいはボクたちは皆間違っていて、実は、林檎は青色なのかもしれない」
「こんな可能性も考えられるよ。ボクたちの言っている『金色』が、キミにとっての『赤色』という可能性さ」
認識なんてものは酷く曖昧なものなのだよねと、うさぎとハツカネズミが声を揃えて言った。
「結局のところ、認める、認めないではなくて、ボクたちがどう思うかなんだよ。キミにとっては偽物で、ボクにとっては本物ということだってあるのさ。それで良いじゃないか」
「そう……なのかもしれませんね」
何が正しくて何が間違っているのか。
正しいことは間違っていなくて、間違っていることは正しくないのか。
聖奈はふと、世界五分前仮説という名の思考実験を思い出した。
世界五分前仮説というのは、『この世界が五分前に始まったかもしれない』という仮説のことで、この仮説は誰にも反証することができないとされている。たとえば五分以上前の記憶を持っていたとして、その記憶は世界が始まったときに植え付けられた偽物の記憶かもしれないからだ。過去という存在の証明を示すことができない限り、この仮説は成立し、根源的に『我々の持つ知識とは何か』という問いに辿り着く。
この世界を聖奈が夢の中だと認識している理由は、彼女が眠りに就くために女子寮のベッドで横になっていたからなのだが、それは彼女がそう思い込んでいるというだけで、それは夢から目覚めてみなければ夢であると証明することができない——否、目覚めたところでこの世界が夢であるとは、やはり証明できない。
「あるがままを受け入れれば良いんだよ」
いつの間にか、ハツカネズミがいなくなっていた。
うさぎはマフィンをひとつ、手に取って口へと運ぶ。
もぐもぐと租借してから、林檎のように赤い瞳で聖奈の瞳を覗き込むように見た。
「キミは単なる器なのだからさ。器が、注がれるものを選ぶべきではないよ」
意味深な言葉に、聖奈は表情を強張らせた。
「……それはいったい、どういう意味ですか?」
尋ねるが、うさぎは答えない。代わりに、
「もうすぐだよ。もうすぐ我らの女王様がお目覚めになられる。そのとき、キミの認識する世界は変わる」
女王様——。
その言葉は、以前にも聞いたことがある。
「夢と現の境界は常闇に落ちて消え、女王様の望まれる世界がはじまるんだよ」
うさぎの瞳を見返していた聖奈は、唐突な睡魔に襲われた。
夢の中で睡魔に襲われるというのも変な気分だったが、この感じは間違いなく本物だった。
「そうなったとき、キミの意識が表層に残っているとは思えないけれど」
瞳を開けていられなくなる。姿勢を保っていられなくなる。
「だけど、そのときはきっと、こう思うことにするよ」
この世界にキミは最初から存在しなかった、とね。
聖奈の意識は、微睡みの底に沈んでいった。
6/10 追記
どちらかといえば学園>ファンタジーなので、ジャンルをファンタジーから学園に変更しました。
2012/12/27 可読性向上と誤記修正対応を実施