第20話「浅間の娘」
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帰宅した秋弥を待っていたのは、月姫だけではなかった。
玄関口で靴を脱いでいると、リビングから飛び出してきた小さな人影が秋弥の影と重なった。
「おかえりなさい、シュウ兄!」
あどけなさの残るソプラノ声。
靴を脱ぎ終えて振り返ると、そこには秋弥がつい二か月前まで通っていた中学校の女子制服を着た女の子が立っていた。
艶の良いライトブラウンの髪をAラインシルエットでまとめ、前髪はやや長めで目元に重なっている。声と同じく幼さの残る顔立ちに活発で意思の強そうな瞳とリップクリームで湿らせた唇の少女。
浅間総一郎の娘——浅間伊万里が玄関先に立って秋弥を迎え入れた。
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リビングでデバイスを操作していた月姫は、秋弥の帰宅とともに飛び出していった伊万里が彼と一緒にリビングに戻ってきたのを見て、ニコリと笑みを浮かべた。
「おかえりなさい、秋弥」
「ただいま。今日は伊万里が来てたんだな」
「勉強を見てあげる約束をしていましたからね」
そういえば、春先に総一郎とそんな約束をしていたことを秋弥は思い出した。
早速訪ねて来ているあたり、伊万里の本気度が窺えた。
「伊万里さん。勉強の途中で席を離れてはダメでしょう?」
「う……、ごめんなさい」
「わかったら席に着いてね。秋弥は先に制服を着替えてきてください。その間に飲み物を用意しておきますから」
秋弥と伊万里は異口同音で月姫の言葉に従った。
伊万里は総一郎の娘であり、浅間家の一人娘である。
浅間家は『星鳥の系譜』に連なる封術師の名家ではないが、最初期から封術を扱ってきた家系で、調律術を得意としている。
浅間家では封術が授業科目となる——ただし一般高校で教えるのは理論のみで、実技は封術学園のみに限る——高校生になるまでは、封術を一切学ばせないという教育方針らしい。
そのため、封術に関する知識を独学で学んでいる伊万里ではあったが、封術の前身となった神道については幼い頃より両親から教えられてきた。
封術学園の入学試験のうち、封術の専門教養試験はその背景さえしっかりと抑えておけば、案外難しくはない。
適正試験も伊万里にとっては、あってないようなものなのである。
ゆえに、彼女は一般教養試験に重点を置いて勉強をしている。
しかし、それがどうにも思うように進まなかったらしい。
伊万里の勉強方法が問題なのか、単純に得意不得意の問題なのか。
リビングの床にぺたりと座り込んでデバイスが映し出したホロウィンドウと向かい合い、ああでもない、こうでもないと唸っている伊万里。
秋弥はダイニングの椅子に腰掛けて、月姫の淹れたコーヒーを飲みながらその様子を眺めていた。
「伊万里さんは少し難しく考えすぎなのですよ。この問題はもっと単純に解くことができますよ」
「むむむ……」
「一度全体を眺めた後で、細分化できる部分をひとつひとつ解いていけば……、ね、こんな風にして簡単になったでしょう?」
「あっ、ホントだ……。最初に整理してから解けば良かったんだね」
「一見複雑に見える物事でも、実際には単純なことを複雑だと認識しているだけなの。これは一般教養だけではなくて、封術理論にも言えることなのですよ」
「うんうん……、カグ姉の言うことはホント為になるなぁ」
ふふ、と微笑む月姫と、納得顔で頷いている伊万里。
仲睦まじい姉妹のようなやりとりを遠巻きに眺めていると、ふと伊万里の視線がこちらに向いた。
どうしたのかと視線で問いかけるが、伊万里はすぐに視線を逸らしてしまう。
勉強の邪魔になっているのではないかと思った秋弥は、姉に一声掛けてからダイニングを出て、二階の自室へと戻った。
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その日の夕食は、伊万里を招いて三人での食事となった。
九槻家は元々四人暮らしだったので、テーブルには二人分の余裕がある。
普段であれば姉弟二人だけの食事なので少し広く感じるダイニングのテーブルも、三人だと感じ方もまた違った。
「そういえばシュウ兄って、学生自治会に入ったんだね」
月姫の手料理を味わいながら、秋弥は頻りに伊万里から話しかけられていた。
「ん、そうだよ」
「自治会の仕事って、忙しい?」
「正式に役員になったのは今日からだから、まだわからないかな。学園行事がなければ割と暇そうな感じだけど」
「じゃあ、暇なの?」
「デバイスを使えばいつでもどこでも仕事ができるから、その辺りのコントロールが自分で管理できるんだよ」
といっても、中学生の伊万里にはあまりピンと来ないかもしれない。
学校という場所は学生を集団で一括りにすることで互いの向上心を高め、学生同士で活動させることによって自主性や感性、協調性を育もうとする。
先進技術を積極的に取り入れている封術学園の教育スタイルと、旧時代的な一般教育機関のそれとでは、大きな違いがあるのだった。
「ふぅん……そっか」
理解できたのかできなかったのか、曖昧に頷く伊万里。
機械技術が発展した今の時代にデバイス操作が不得意だという伊万里にも、いずれわかるようになるときが来るだろう。
「ところで、伊万里はこれからもうちに勉強しに来るのか?」
「えっ……、もしかして、あたしが来ると迷惑だったかな?」
何気なく言った秋弥の言葉に、伊万里が眼を丸くした。
「そういう意味じゃなくて、俺もこれからは帰りが遅くなることだってあると思うから、代わりに姉さんの話し相手になってほしいと思ったんだよ」
秋弥は誤解がないようにすぐさま言い直した。
「あら、秋弥はずいぶんと私を子供扱いするのですね」
すると、なぜか予想外の方向から、やや棘のある言葉が飛んできた。
だが、明らかに冗談だとわかる姉よりも、眼に見えて気落ちしてしまった伊万里の方を秋弥は気にかけることにした。
「それに、姉さんに勉強を教えてもらえば、来年の入試だって安心して受けられると思うし、うちに来た日は、今日みたいに夕飯も一緒に食べていってもらいたいしさ」
それは秋弥の偽らざる本音だった。
もちろんそれは『意』を具現化する力を失ってしまった姉の身を第一に考えてのことで、少しでも姉の気休めになればと思っての言葉だった。
しかし、そうとは知らない伊万里は気落ちしていた表情を一転して明るくすると、仕方ないなぁとでも言いたげに胸を張った。
「シュウ兄の頼み事なら断れないよね。あたしも来年はシュウ兄やカグ姉みたいに封術学園に通いたいし、だからこれは『利害の一致』だね」
少しズレた言葉の意味も、これから数か月の勉強で学んで行けば良いだろう。
食事の席での団欒は、この後も暫く続いた。
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夕食を終えて家に帰る伊万里を最寄りの駅まで送るため、秋弥は彼女と二人で夜の住宅地を歩いていた。
月姫は伊万里の安全を考えて無人自動制御車で帰ることを薦めたのだが、夜風に当たりながら帰りたいという彼女はそれを断った。
そのため、女子中学生が夜道を一人で出歩くのは危険だということもあって、秋弥の方から伊万里を駅まで送ると申し出たのである。
「ホントに、心配いらないって言ったのにね」
言葉と裏腹に、伊万里の表情には喜色が浮かんでいる。
五月も半ばを迎えたこの時期は、極端に寒くもなければ暑くもなく、比較的晴れ間が続く過ごしやすい時期だった。
今日は湿度も低めであるため、時折吹く風も心地良い。
「シュウ兄はどうして自治会に入ったの? お父さんは、シュウ兄は部活にも委員会にも入らないと思うって言ってたよ」
委員会という言葉がこの場合は適切かどうかはさておき、伊万里は総一郎の手引きによって秋弥が自治会に入ろうと思ったということを知らないらしい。
「自治会に入った理由か……。まあ自治会の活動に興味があったから、かな」
学生自治会が行っている『課外活動』のことは部外者の伊万里に話すわけにもいかず、秋弥は無難な答えを返した。
「ふぅん……」
伊万里の方も沈黙を作らないように適当に問うただけで、別段それが気になったということではないらしい。気のない返事がその証拠だった。
「……伊万里は、学校で何か、困ってることとかないか?」
「なんで? 特に何もないよ」
「そうか。なら良いんだ」
「変なシュウ兄だね」
ふと秋弥は、人並み以上の異層認識力を持つ伊万里が皆と同じように普通の学校生活が送れているか心配になったのだが、どうやら無用の心配だったようだ。
あるいはそれを隠しているだけかも知れないが——。
「だけど、シュウ兄の自治会制服姿も格好良いね。シュウ兄が着てるから格好良く見えたのかな、なんてね」
「何を言ってるんだ、お前は」
「あれ? もしかしてシュウ兄、照れてるぅ〜?」
「そんなわけないだろ」
「そっかそっか、もう十分に聞き慣れてるということだね」
どこか満足げに頷く伊万里に、どうして女子は皆同じ思考に行き着くのだろうかと、秋弥は思い悩んだ。
「あたしもたくさん勉強すれば、シュウ兄みたいに自治会に入れるようになるのかな? そうしたら白い制服でお揃いだね」
「その前に伊万里は、来年の入試に合格しなくちゃな」
少し意地の悪いことを言うと、伊万里はムッとした顔を秋弥に向けた。
「言われなくてもちゃんと合格するし! カグ姉に教えてもらってるんだもん、合格できなきゃ顔向けできないよ!」
「はは、その粋だ。姉さんには全然及ばないけど、俺も教えられることは教えるから、頑張るんだぞ」
「えっ、今の言葉、ホント? 信じて良いの?」
急に身体を近くに寄せてきた伊万里に、秋弥は逆に身を引きながら首を縦に振った。
「それじゃあ今度、シュウ兄の封魔術を見せてほしいな!」
「……それは難しいよ。封術師見習いは学園外部だと封術の行使に制約があるからさ」
「あっ、そっか……。忘れてた忘れてた」
「大丈夫か受験生?」
「じょ、冗談だよ! ちょっと失念していただけ!」
同じ意味だけどな、と小さく呟いた秋弥の声は伊万里には届かない。
雑談をしながら歩いていると、やがて駅が見えてきた。
「ここまでで良いよ。送ってくれてありがとね」
と言って、伊万里は駅に向かって駆け出した。
その背中に別れの言葉を掛けると、一度だけ振り返った伊万里に小さく手を振る。
伊万里の姿が見えなくなるまで、秋弥は彼女の姿を見守っていた。
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まただ、と思う。
久しぶりだ、とも。
気が付くと少女は、ついこの間まで通っていた聖條女学院中等部校舎の屋上に一人で立っていた。
少女はこの場所が夢の中であることを認識する。
それは少女が既に聖條女学院中等部を卒業して、鷹津封術学園に入学していることからも明らかだ。
夢でなければ、この場所は単なる思い出でしかない。
「…………?」
ふと、深夜であるにも関わらず、屋上がずいぶんと明るいことに気付いた。
ここは夢の中なので、どんなことが起こっても別段珍しくもないが、少女は自然、光源を探して空を見上げた。
星の見えない真っ暗闇の夜空に、月が五つ、浮かんでいた。
蒼白い月がひとつ。
紫の月がひとつ。
紅い月がひとつ。
橙の月がひとつ。
碧の月がひとつ。
わずかに座標をずらしながら重なり合う五つの月が、まるで自ら発光しているかのように輝いている。
幻想的ともいえるその光景を瞳に移した少女は、屋上に備えられたベンチに引き寄せられるように近付くと、そこに腰を落とした。
中等部と高等部の共同で活動しているガーデニング部が屋上で様々な花を栽培していることから、屋上は別名『空中庭園』とも呼ばれていた。
色とりどりの草花で彩られた屋上こと空中庭園は、ここが少女の夢の中であっても微塵も色褪せることなく、幻想的な五つの月と合わさって、いっそう神秘的に映った。
——キャハハ。
と、ぼんやりと夜空を見上げていた少女の意識に、何かが聞こえてきた。
——キャハハハハハハ。
それは嗤い声だった。
——キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ。
甲高い声だ。
心底愉快そうな声だ。
他人を嘲り嗤う声だ。
いくつもの種類の声が重なって木霊する。
また現れたのか、と少女は思う。
少女の夢の中に、こうして現れる隣神。
現れるたびに姿形が違うのは、別々の隣神だからなのだろうか。
あるいは夢に現れる隣神すらも、少女の夢が見せる幻影なのだろうか。
隣神の声は思念言語によって少女の意識に直接伝わってくるため、隣神がどこにいるのかはわからない。
ならばいつまでもベンチに座ってて良いのかと自分に問いかけるが、少女の夢の世界は空中庭園に限られているため、どこに移動しても大して変わらないと考えた。
——キャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!
だんだんと声量が大きくなる。
気のせいか、周囲の明るさが増したような気がした。
不意に、少女は落としていた視線を上げた。
夜空に浮かんでいた五つの月のうち、紫の月だけが異様に大きくなっていた。
否、近付いてきているのだ。
それは月などではなく、月に擬態していた隣神だったのである。
「………っ!」
少女は立ち上がると、木の枝を加工して作られたような杖型の装具を召還して両手で構えた。
封術学園に入学して、まだ一日と経っていない。
実践的な封魔術の訓練も行っていなければ、途中から授業に合流したために中途半端な封術の知識しか、まだ教わっていない。
だけど夢の中であれば、少女にはどんなことだってできた。
夜空より飛来する隣神は、擬態していたとはいえ月ほど大きいということはなかった。
少女の遠近感覚を利用して、月と同じ距離にあるように見せかけていただけのようだった。
完全な球体型の隣神は、少女の手が届かない距離を空けて空中に静止すると、くるりと回転した。
裏側に隠していた大きな口を広げて「キャハハハハハ」と嗤う。
口だけの顔で、妖しく嗤っている。
「…………?」
嗤っているだけで、何もしてこないのだろうか。
少女がそう思った——次の瞬間。
開かれた口が、顔全体を覆い隠してしまうほどに広がった。
口はさらに広がり続けて、ついには球体が裏返った。
その裏側、すなわち口の中——外側に出ているのに口の中というのは些か妙な表現だった——には、無数の棘が隠されていた。
裏返って棘の球と化した隣神が、その棘を一斉に解き放った。
少女は咄嗟に装具を掲げる。
乱れ撃ちされた棘が空中庭園の花壇を破壊して床に穴を穿った。粉砕されたベンチの残骸が吹き飛んで空中庭園から地面へと落下する。
だが、それが地面にぶつかる音は聞こえない。
この夢の中には、最初から地面というものは存在していない。
夢の世界では、少女の立っている場所だけが、唯一の場所だった。
やがて、棘の雨が止む。
棘を失ってのっぺりとした球体に戻った隣神の球面に、一筋の切れ目が生じる。
その切れ目は隣神の口となって、再び「キャハハハハハハ」と嗤った。
空中庭園と呼ばれていた美しい屋上の庭は、数秒の内に無残な状態へと変わってしまっていた。
そこに立っていた少女は、しかし、棘の一本すらその身に受けることなく立ち続けている。
そして、掲げていた装具をゆっくりと隣神へと向けた。
杖型の装具の先端に封術を構築すると、嘲り嗤う隣神の口腔内を目がけて、少女は思い描いたとおりの術式を発動させた。
杖の先端部から雷の槍が生まれる。
エリシオンの過剰光の尾を引きながら、雷の槍は隣神を串刺しにした。
——キャハハハハ、ハハハハ……。
隣神は消滅するその瞬間まで、口腔内に突き刺さった雷の槍にも構わずに嗤い続けた。
もう少ししたら、現実の少女はこの悪夢から目覚めるだろう。
甲高い嗤い声は目覚めた後もしばらくの間は意識の底に残りそうだと、少女は夜空に融けていく隣神を見上げながら思った。
夜空に浮かぶ残り四つの月のうち、蒼白い月がいつの間にか姿を消していたことに気付かないまま——。
2013/01/04 可読性向上と誤記修正対応を実施