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封術学園  作者: 遊馬瀬りど
第1章「封術師編」
13/111

第12話「新人封術師×封術師見習い」

★☆★☆★



「——ここか」


 デバイスに投影した地図と現在位置を確かめて、この場所で間違いないことを確認する。

 秋弥がいるのは、廃業となった病院跡だ。

 学校の帰りに直接訪れたため制服姿のままの彼は、その外観を一頻り眺めた。

 特に目立った様子はない。異常も見られない。

 それでも強いて挙げるとするならば、廃病院とその周辺一帯が、異様に静まり返っているということだろうか。

 調律の護衛役を依頼した封術師との待ち合わせ時間まで、まだしばらくある。

 その間に秋弥は、廃病院の外側をぐるりと一周して異層領域の様子を調べることにした。



★☆★☆★



 学生自治会からの呼び出しから数日後。

 ゴールデンウィークの連休を翌日に控えた日の朝方、秋弥の元に一通のメールが届いた。

 送り主は——浅間総一郎。

 浅間神社の神主を務める壮年の男からだった。

 メールの内容は入学初日に彼が話していた封術の仕事に関するものだった。日課のランニングから戻り、月姫の作った朝食に舌鼓を打ち、食後のコーヒーを飲みながらメールを一通り読み終えた秋弥は、了解の旨を返信したのだった。



★☆★☆★



 学内放送による呼び出し以降、学生自治会から再び呼び出されることもなければ、学園内で悠紀やスフィアと顔を合わせる機会もなかった。紅の装具——魔剣『紅のレーヴァテイン」について話を聞きたいというようなことを言っていたので、てっきりすぐにでも行動を起こしてくるものかと思っていたのだが、どうやら当てが外れていたらしい。

 外れてはいても、残念ではない。むしろ秋弥にとって喜ばしい限りだった。

 余計な詮索も接触も、正直に言ってしまえば鬱陶しいだけだ。できるだけ関わり合いにはなりたくないとも思っている。

 そしてできることならば、五年間の学園生活を穏便に過ごしたい。

 普通の学園生活を送って、

 普通に友達を作って、

 普通に勉強して、

 普通に進級して、

 普通に卒業する。

 そうして一人前の封術師となって——それから。


 ——それから、どうしたいのかな。


「え?」


 物思いに耽っていた秋弥は、怪訝そうな綾の声にハッとした。


「ぼうっとしていましたね。どうかしたんですか?」

「……いや、ちょっと考え事をしていたんだ」


 放課後、秋弥と綾の二人は図書館で時間を潰していた。

 堅持、玲衣、奈緒の姿は見られない。堅持と玲衣は運動系の部活に、奈緒は文科系の部動に入部しており、今日はその活動日のため、不在だ。

 綾も文科系の部活に入っているが、今日は休部とのこと。五人の中では秋弥だけがどの部活にも属していない。所謂、帰宅部なのであった。

 ゆえに今日は、綾と二人っきり。

 と言えば高校一年生男子にとっては胸が躍るシチュエーションなのだが、生憎二人がいる場所は色気も何もない学内の一施設であり、周りには他の学生たちも多くいた。


「そんなに難しい内容なんですか?」


 怪訝そうに首を傾げる綾に、秋弥はゆっくりと首を横に振った。

 対面に座り、参考書を開いて一生懸命ノートに数式を書いている綾を眺めているうちに、我知らず物思いに耽っていたなどとは言えないだろう。いや、案外言ってみると面白い反応が返ってきそうな気もしたが、図書館という場所柄もあって自重する。

 ちなみに秋弥が読んでいるものは『封術的視点における時間的概念』についての論文だった。

 封術学園の図書館には、封術教師や封術の研究家が記した研究内容や論文が数多く蔵書されている。秋弥は、時間を見つけては人知れず図書館を訪れていたのだった。

 なお、今日は総一郎から依頼された仕事の時間まで暇を潰す必要があったため、別の用事で図書館に行くという綾とともに、ここにやってきていたのである。


「難しいとか以前に、いち高校生が理解できるような内容じゃないさ」


 直前まで考えていたことを払拭するように、秋弥は冗談めかした口調で言う。

 言葉とは裏腹に、秋弥は論文の内容をほとんど理解していた。相対性理論を軸に置いた考え方を封術で包んだ(ラップした)時間操作術とその実現性に関する考察はなかなかに興味深かったのだが、『時間』を説明するための原質要素が不鮮明であり、思考実験の域を出ていなかった。


「綾の方こそ、勉強は捗ってるのか?」


 あまり不自然にならないように注意しながら、秋弥は話を逸らす。

 綾の用事というのは、五月末に控えた前期中間試験の勉強だった。

 封術学園は、一年間を前期と後期の二期に分けている。四月から七月までを前期。二か月間の夏休みを挟んで十月から三月までを後期として、それぞれに中間試験と期末試験を行う。


「それなんですけれど、少し難しい問題があって……」


 どうやら解けない問題に当たった綾は、秋弥から意見を聞こうと思ってノートから顔を上げたときに、物思いに耽っていた秋弥に気付いたようだ。

 やや言い辛そうな綾の態度から、秋弥はそのように結論付けた。


「どの問題だ?」


 なので、こちらから促す。

 すると綾は少しだけ表情を和らげて気を楽にした様子を見せた後で、開いていた数学の参考書を秋弥の側からでも見やすいようにひっくり返して、問題文の一点を指差した。


「どれどれ……」


 秋弥は示された問題文を目で追った。一か月先の試験に備えて予習をしているためだろう。綾の示した問題を解くには、まだ習っていない解法を使う必要がありそうだった。


「どうですか?」


 綾は上目遣いでそっと秋弥の様子を窺った。


「……解法の見当は付いてるのか?」


 しかし顔を上げた秋弥と不意に目が合って、慌てて視線を逸らす。


「は、はい、たぶんですけど……もしかしたら間違っているかもしれません」


 参考書に書かれた解法の中から使えそうなものを選んで用いたからか、不安げな声で綾が言う。


「なるほど。……ノートの方を見せてくれないか?」

「あ、はい」


 おずおずと差し出されたノートを受け取る。ノートにはやや丸みがかった数字や記号の羅列が規則正しく並んでいた。その数式を順に追っていくと、途中式の計算結果が不正に導き出されている箇所を発見した。


「……あ」


 問題の箇所を指摘して正しい計算結果を伝えると、正しい答えが導き出された。

 理数系で出題される問題の多くはクローズドエンド型であるため、解法がたとえ無数に存在していたとしても、必ず最終解答に収束するように成り立っている。

 この場合、計算に用いた解法が何であれ、よほどの見当違いをしていない限りはちゃんと正しい答えに辿り着けるはずだと、秋弥は当たりをつけていた。そういう視点から計算式を読み解いたため、秋弥は途中式が間違っていることに気付いたのだった。


「ケアレスミスでしたね……。ありがとうございます」

「まあ応用も突き詰めれば基本の組み合わせだからな。逆に言うと基本さえしっかりできていれば、応用問題で苦労することも少なくなるはずだよ」


 それは聞き様によっては上から目線の発言にも捉えかねない言葉だったが、真面目な性格の綾は「なるほど」と呟きながら、秋弥の言葉をノートにメモしていた。


「俺からもひとつ、聞いていいかな?」


 綾の勉強が一段落したタイミングを見計らって、秋弥は尋ねた。


「何で今から試験勉強をしてるんだ? 高一の最初の定期考査なんて、入試の延長だと思うんだけど」


 その率直な疑問に対して、綾は(おとがい)に人差し指を宛がって唸った。


「んー……試験が一般と専門の筆記だけでしたら、二週間くらい前からでも良かったのですが——」


(それでも二週間前なのか……)


 秋弥は彼女に悟られないよう、内心でげんなりした。


「——封術学園の試験って、封術の実技試験もありますよね。でも、私たちが訓練棟を自由に使えるようになるのは連休明け以降なので、先に筆記試験の勉強を済ませておこうかと思ったんです」


 オリエンテーションでは一部の施設を除いて全棟への立ち入りが許可されていたが、訓練棟のような特殊な施設を普段から自由に使用するためには、特別な許可証(ライセンス)を発行してもらう必要がある。

 その許可証が発行されるのが五月の連休明け以降であるため、入学後の一か月間は、装具を用いたあらゆる実技授業がカリキュラムに組まれていないのだった。


「実技はあまり自信無しか?」

「はい……、封魔術式はちょっと苦手で」

「そうか。調律が試験対象になるのは後期からだったな」


 簡単な封魔であれば、術式の発動規模や対象に取る原質の改変量は、調律と比べて小さい。

 徐々に術式の練度を上げていくのであれば、序盤に習得する術式はどうしても封魔に偏ってしまうのである。

 だが、綾の得意な封術は、家系的に調律寄りの傾向が強い。

 必然的に、というわけでもないが、封魔が苦手だというのも頷けた。


「……あっ、そうだ」


 不意に何かを閃いたらしい綾は、急にそわそわとし始めると、視線を机に向けた。


「えっと、も、もし九槻さんさえ良ければ、わた……、私に封魔を教えていただけませんか?」


 顔を俯かせてうまく表情を隠しているが、髪の隙間から覗く耳は耳朶まで真っ赤に染まっていた。

 勇気を振り絞って出した綾のお願いに秋弥は——。


「いいよ」


 と、軽い口調で応えた。


「何だか、玲衣と堅持からも同じことを言われそうだしな」


 一瞬、綾の中の気持ちバロメーターが歓喜で跳ね上がったのだが、続く言葉を聞いて、六割ぐらいにまで急降下した。


「ん、どうかしたか?」

「何でもないですよ……」


 一喜一憂する綾の様子を不審に思いはしたものの、秋弥は言及を避けた方が良さそうな空気を感じ取った。この話題には、それ以上触れないようにした方が良いだろう。

 再びの沈黙。

 論文のページをめくる音と、ノートにペンを走らせる音が響く。

 図書館の持つ独特な雰囲気は、不思議と心地良いと感じる。

 多くの人が集まっているにも関わらず静寂に満たされた館内。年月を経た紙の束が醸し出す匂い。まるで時間が止まってしまったかのようにゆっくりと流れているような感覚。そして、高密度の情報体が頻繁に行き交う知的領域が、そこかしこに構成されている。

 すると、唐突に聞き慣れた着信音が鳴り響いた。

 図書館で不用意にデバイスの着信音が鳴ることは非常にマナー違反な行為とされているが、秋弥が周囲から咎めるような視線の集中砲火を浴びることはなかった。


 五感への直接接続(ダイレクト・リンク)。それはデバイスに組み込まれた一機能であり、特定のパターンを持つ微弱な電気信号を体内へ向けて発信することで、着信音を脳に直接送るというものだ。

 ただし、この機能は直接肌に身に付けるタイプの携帯端末(デバイス)でしか使用することができず、幻覚作用を得ることや脳に多大な負荷を与えるようなことがないよう、端末側で厳重なセーフティロックが掛けられている。

 脳への直接接続技術は、脳科学において日進月歩の勢いで進化を続けている分野の一つだが、それを嫌悪している人も少なからずいる。

 自分の目で見たもの。聞いたもの。感じたもの。嗅いだもの。触れたもの。その境界があやふやになることを嫌っているからだろう。


(そういえば綾もカードタイプのデバイスだったか)


 現在では軽量性や携帯性に優れたカードタイプのデバイスよりも、ファッションの一部として、また、身に付けるという習慣が付けやすいブレスレットやチョーカーなどのアクセサリータイプのデバイスが主流となっている。

 今度機会があったら尋ねてみようと思いながら、スタンバイモードのデバイスを立ち上げた。メールアイコン上に表示された新着メールのポップアップを選択すると、届いたメールが自動的に開かれる。

 送り主は、今朝と同じく浅間総一郎。

 本文には本日の仕事に関する詳細な情報が書かれていた。

 時間、場所、同行する封術師の名前と経歴、総一郎からの注意事項と激励。それらを一読すると、ウィンドウを切り替えて集合場所までの距離と移動時間を調べた。続いて集合時間から移動時間を差し引いて学園を出る時間を計算する。思いのほか近い場所だったので、長くても後二十分は時間を潰さなくてはならない。


「玲衣ちゃんからのメールですか?」


 ホロウィンドウを閉じかけたところで、綾から声を掛けられる。

 今日の勉強はもう終了なのだろうか。綾は参考書をかばんに仕舞おうとした姿勢のまま問うた。


「いや、違うけど」


 むしろ何故玲衣からだと思ったのか、秋弥の方こそ彼女に問いたかった。


「あれ……九槻さんがメールを読んでいるなんて珍しかったので、てっきり玲衣ちゃんからかと思ったのですが」


 その帰結は決定的に間違ってると声を大にして言いたかった。それではまるで、玲衣と二人でセットみたいじゃないか。

 あまりにも見当違いな思い込みをされると後々の関係にも影響しそうだったので、玲衣のいない今を契機と見た秋弥は、自己弁護をすることにした——どうして自分が自己弁護なんてしなければならないのかと、本気で思い悩みながら。


「一応言っておくけど……、俺と玲衣は別に、綾が思っているような関係じゃないからな」

「え、えっ?」

「……何でそんなに意外そうな顔をするんだ。最初に話したような気もするけど、玲衣とはたまたま、小中で一緒だっただけで——いや今となっては現在進行形なんだけど……ただそれだけなんだからな」

「そう……だったんですか? 何だかいつも一緒にいるような気がしていたので、ひょっとしたらと思っていたのですが……」

「いやいや、ひょっとしないから」


 秋弥は心の底から、全身全霊をもって否定する。

 もしかして綾だけでなく、三組のクラスメイトたちからも同じような目で見られているのだろうか。

 そうなれば、それはそれで非常に由々しき問題だった。


「とにかく俺と玲衣はそういう関係でもないし、これも玲衣からじゃなくて仕事のメールだよ」


 秋弥は大きな大きな溜息を吐いた。それとは対照的に、綾はかすかに嬉しそうな笑みを浮かべる。

 しかし、それもすぐに疑問の色で塗り潰された。


「……お仕事、ですか?」

「あぁ、封術の仕事」

「……えぇっ!?」


 一テンポ遅れて、綾が驚きの声を上げた。

 途端に、非難の視線が周囲から突き刺さる。質量を持った(ように感じられた)視線に、華奢な身体を萎縮させた綾が周囲にぺこぺこと頭を下げた。


「ごめん、何か驚かせてしまったかな」


 改めて姿勢を正した綾に、心持ち身体を前に寄せて、ひそひそ声に近いトーンで秋弥は言った。


「封術のお仕事ということは……封術師の方と一緒にですよね?」


 封術師見習いが学外で封術を行使するための条件である以上、その制約は絶対に遵守しなければならない。もしも破るようなことがあれば、国家封術師の受験資格を恒久的に剥奪されるだけでなく、マナスの門を通じて装具を呼び出せないような処置が施される。

 それだけ、封術という存在が社会に与える影響は大きいということだ。


「まあ、必然的にそうなるな。封魔師として、調律のサポートをする仕事だよ」

「わぁ……、やっぱりくつ……秋弥さんはすごいです……」

「……っ!?」


 綾がウットリとした瞳で秋弥を見つめた。

 周囲に人がいるとはいえ、二人っきりの場で熱の篭った視線を真正面から受けて動じずにいられるほど、秋弥は人生経験を積んではいなかった。直視に耐えられずに、反射的に視線を逸らしてしまう。

 綾が秋弥の名を呼ぶときの呼称がいつの間にか「九槻さん」から「秋弥さん」に変化したことすらも、秋弥は気に留めることができなかったのだった。



★☆★☆★



 閑話休題。


 逃げるように、と言ってしまえば聞こえは悪いが、事実、秋弥は待ち合わせの時間に遅れそうだからと強引に話を打ち切って図書館を後にした。

 余談だが、綾は秋弥に感化されたのか、もうしばらく図書館に残って勉強をしていくことにしたらしい。

 そして現在、待ち合わせの約五分前。

 予定よりも早く現地に到着してしまった秋弥は、仕事場となる廃病院の周りを歩いていた。


「……ん?」


 再び廃病院の入口前へと戻ってきたとき、来たときにはなかった人影があった。

 体型に合ったビジネススーツを折り目正しく着こなして、フレームのない眼鏡をかけた、一見すると神経質そうな男性が廃病院を見上げている。

 この男が封術師——依頼人の調律師だろうか。

 秋弥が近寄っていくと、男性が視線を戻した。


「おや? おやおや……」


 秋弥を見て、次いで彼の服装を見ると、男性は大げさに眉尻を下げる。


「失礼だけど、もしかして君が封魔師……の?」


 言葉が疑問系の形を取るよりも先に逡巡したのは、『封魔師』と言おうとした自分の言葉に違和感を覚えたためだろう。

 無理もない話だ。

 秋弥は依頼人の封術師にわざわざそうだとわかるように、家には帰らず、鷹津封術学園の制服を着たままでこの場所にやって来たのだ。

 それは単に、制服姿が目印になるからというだけの理由ではない。封術師ではなく、封術師見習い(・・・・・・)であることを言外にアピールするためだった。


「はじめまして、九槻秋弥と言います」

「あ、うん……はじめまして。僕は封魔師の向江仁(むかえ じん)だ」


 訝しんでいる様子の男性——向江に、秋弥は総一郎からの依頼で封魔師として調律のバックアップを頼まれたのだと伝えた。

 当然それは依頼主である向江も知っていることなので、これはいわば、事実確認のようなものだった。


「そうか……、君が浅間さんの言っていた優秀な封魔師なのか。まさか学生が来るだなんて思いもしなかったよ」


 優秀な、というフレーズには引っかかりを覚えたが、総一郎の秋弥に対する過大評価は今に始まったことではない。まさかそれを言い触らしているとは思わなかったが、向江は封術師見習いである秋弥を総一郎のお墨付きもあるということで、わりとすんなり受け入れてくれた。


「ここで立ち話しているのも時間がもったいないし、中に入って話そうか」


 向江に促されるまま、彼に続いて廃病院の中へと入ることにした。



★☆★☆★



「僕もね、ついこの間までは君と同じ、鷹津封術学園の学生だったんだよ」


 元はエントランスだったはずの場所に立って、向江は言った。

 わずかに病院だった頃の面影を残してはいるが、植木は養分を得られずに枯れ果て、待合用のソファーは横倒しされ、インフォメーションカウンターには埃の山が(うずたか)く積み上がっている。空気は淀み、停滞したように動かない。

 外がまだ比較的明るい時間帯とはいえ、電気設備が機能していない病院内は薄暗くて、注意して歩かないと躓いてしまいそうだった。


「今日は僕の、封術師としての初仕事でね。前々から親交があった浅間さんに無理を言ってお願いをしたんだよ。優秀な封術師にサポートを依頼して欲しいってね」


 仕事内容は廃病院の近隣で暮らす住人が目撃したという隣神の調査と対処、及び異層領域の調律だ。

 周囲に視線を這わせながら、向江は時折何かを探るように足を止めた。

 秋弥もそれに合わせて立ち止まる。


「九槻君は浅間さんとの仕事経験もあるのかな?」

「はい、それなりには」

「なるほどね……。あ、別に君の事を信用していないとか、そういうわけじゃないんだよ。浅間さんが君を推薦したということは、それだけの実力が君にはあるということだからね」


 取り繕うように弁解する向江に、秋弥は「気にしてませんよ」と返した。

 そもそも、授業の一環としてや家庭環境によるところを除いてしまえば、封術師の仕事に封術師見習いが同行するというケースはほとんどレアケースと言っても良い。

 封術師見習いは封術師がそばに付いていなければ、学外での封術の使用は認められていない。

 そして同時に、封術師には封術師見習いを監督するという責任が発生する。

 このため、隣神と命懸けの戦いに発展する場合もある現場には、極力封術師見習いを連れて来たがらないというのが、その理由の最たるところだった。

 向江が秋弥のことを内心でどのように思っているかはわからないが、今のところ文句の一つも口にしないのだから、こちらが気に病む必要もないだろう。

 二人は病院内を歩きながら、異層領域が発生している箇所を探す。

 その調査方法には、現層世界が有する固有振動と同パターンの波長を放出することで、異層世界の固有振動パターンと競合・共鳴を起こしている空間を探すという手法を用いている。異層領域と同調している領域は、エリシオン光波長が増長されているからだ。

 これは、時間こそかかるが最も確実な手法であると同時に、調律師である向江が得意とする方法なのだということだった。


「む……こっちだ」


 何かを察知したらしい向江が右側の扉に手を掛ける。スライド式の扉は錆付いてすべりが悪くなってるのか、開けるのに多少の苦労を必要とした。

 現層世界に異層世界の領域が発生するケースは、いくつか考えられる。

 そのうちの一つが、次元振動によるもの。


 次元振動とは、その名のとおり現層世界を含めた多重層世界における次元レベルでの振動——すなわちエリシオン光波の揺れを指す。

 一意の固有振動数を持つ各世界は、あるときを境にして急激に漸近することがある。

 このとき、漸近した二つの世界がそれぞれに有する固有振動パターンが一部分でも重なり合うと、強力に干渉しあって共鳴振動現象を引き起こす。

 そこでは『時間』と『空間』が入れ替わり、二つの世界を繋ぐ事象の穴(イベント・ホール)が発生する。

 これが次元振動による異層領域の発生だ。

 一度でも共鳴現象が発生すると、固有振動の重なりが解けてもしばらくの間は異層世界の余韻が滞留してしまう。

 その滞留を解消させて、この世界(現層)をあるべき形に戻すことこそが、調律師の役目なのだった。


「案外早く見つかったね。それじゃあ早速調律を開始するから、九槻君。その間の護衛をお願いするよ」

「わかりました」


 短い返事とともに、秋弥は右手で無造作に下げていた装具を構え直した。


「……ふむ、君の装具は綺麗だね。実に羨ましい」


 蒼白く発光する水晶のような刀身を持つ三尺ほどの剣を見つめて、向江が感嘆にも似た吐息を漏らす。


「僕の装具と比べたら、まるでこれがおもちゃみたいに見えてしまうよ」


 向江は自身の装具をひらひらと弄んだ。彼の装具は刃渡り二十センチほどのダブルエッジで、峰の部分にノコと呼ばれる凹凸が見られることから、サバイバルナイフ型の装具であるようだ。

 強化型近接系にカテゴライズされる装具を、向江が手の中で弄ぶ。そのまま室内を歩き回って共鳴現象が顕著に現れている部分を捜索すると、その場に屈み込み、装具をリノリウムの床目掛けて突き立てた。

 向江の装具が音も立てずに溶け込むようにして、波紋を残しながら床へと沈んでいく。向江は新品同様のスーツが汚れるのも構わずに片膝立ちの姿勢を取ると、装具の柄に両手を添えて、瞳を伏せて意識を傾けた。

 すると、向江の身体から淡い光が生まれた。

 情報体を構成する原質(メディオン)が、向江の腕を通じて装具へと流れ込む。

 大気——否、大気を構成する情報体が震える。視覚では捉えることができない干渉力の鬩ぎ合いを、秋弥は異層認識力(オラクル)によって感じ取っていた。異層領域の固有振動パターンを書き換えるために展開した向江の最適化領域オプティマイズ・フィールドに、空間領域の情報体が抗っているのである。


 振域レベル一。


 極小規模の異層領域だが、調律にはそれなりに時間がかかることだろう。

 そう考えていると、物陰で何かが蠢いた。

 異層領域の異常を察知した隣神が、姿を現したのだ。

 体長三十センチほどで長い尻尾が特徴の『根棲(ねずみ)』と呼ばれる隣神だ。

 その名が体を表わすように、姿はネズミそのもの。

 根棲は四本の短い足を忙しなく動かし、嗅覚と聴覚を用いてしきりに様子を窺っている。

 しばらくそうしていると、その奥からさらに二匹の根棲が現れた。

 根棲たちは互いの鼻先が触れ合うほどの距離まで近づくと、人間の可聴域では聞き取ることのできない高周波で会話を始めたようだ。

 秋弥は調律に集中している向江の邪魔にならないよう、静かな足取りで根棲のそばに寄った。

 根棲たちは地面を通じて秋弥の存在を認識して、二対六つの瞳を一斉に向ける。そのうちの一匹が、予備動作もなく飛びかかってきた。

 秋弥はそれを装具の横薙ぎで払い落とす。鋭利な刃で胴体を真っ二つに分断された、かつて根棲と呼ばれていた存在が地面にぽたりと落ちる。

 二匹目の根棲はそれに気圧されることもなく、勇敢にも一匹目とほぼ同じ動作で跳ねた。

 返す刃で、一閃。

 まるでフィルムの焼き回しのように、同じ光景が続いた。

 さすがに三匹目は無謀に飛びかかろうとはせずに後退ったが、秋弥も一歩を踏み出す。ストロークの差だけ、お互いの距離が縮まる。

 瞬間、秋弥は身体だけでなく、上半身にも捻りを加えて、背後へ横薙ぎの一閃を放った。

 秋弥の背後に回り込もうとしていた新たな根棲が、一瞬にして(たお)される。

 振り返った一瞬の隙を突いて最初の一匹は姿を隠したが、去る者を追ってまで始末する必要はない。

 今の秋弥が為すべきことは、あくまでも向江の護衛だ。

 調律中の向江は、それ以外の何も行うことができないのだから。

 意識を完全にエリシオン光波へと委ねて、あらゆる情報体を構成する基盤の役目を果たす『波』の操作に注力している。

 調律術式は、集合的無意識領域をエリシオン光波長の演算のために使う。

 人間が自己意識可能な——制御可能な脳の演算処理領域は、全体の三パーセントにも満たないと言われている。

 だがそれは、真ではない。

 マナスの門を用いて心象世界を覗き視たことで『(マナス)』を操作する術を身に付けた術師たちは、装具を通じて己の『意』に直接アクセスすることが可能となる。

 意識領域から、無意識領域へ。

 潜在的に眠り、先天的な演算能力を持つ無意識領域を用いることによって、通常の限界を超えた演算処理を可能にしているのである。

 それが封術式の基礎——最も初歩的な技術だ。

 向江は意識領域と無意識領域の大部分を領域改変のための演算処理へと回しているようで、秋弥が根棲を撃退したことも、もっと言えば秋弥が動いたことにすらも気付いてないだろう。

 一心不乱に、脳にかかる負担で時折顔に苦渋の色を滲ませながら、向江は調律を行っている。

 その様子を見守りつつも、秋弥は片時も気を抜くことなく、二人に襲い掛かる根棲の群れを(ことごと)く撃退していく。

 根棲はクラス10th——ヒエラルキーの最底辺に属する隣神だが、個体数が圧倒的に多いため、集団で襲われると対処が難しい隣神とされている。

 しかし、廃病院の根棲はせいぜい二、三匹で襲ってくる程度で、数こそ多いものの、撃退するのに大した苦労を必要としなかった。

 異層領域が消滅してしまえば、根棲自身も現層世界に留まれなくなるにも関わらず——。

 調律中の術者が隣神に襲われやすい理由は、現層世界を棲家としている隣神が自身の存在理由を護ろうとするためだ。

 異層領域が調律されなければ、隣神は現層世界に留まり続けることができる。

 ゆえに、隣神は封魔師ではなく調律師を狙い、調律師は封魔師を雇う。

 秋弥がこれまで封魔師として調律師——総一郎の護衛を行ってきたときにも、弱い隣神は集団で、強い隣神は単体で、調律師に敵意を向けていた。


(だけど、何か不自然だな)


 両の手指では収まりきらない数の根棲を倒し終えた秋弥は、刃に付着した原質(メディオン)の残滓を振り払いながら思案した。

 だが結局、満足のいく答えが見つかるよりも先に、異層領域の調律が済んでしまったようだ。

 精神的な疲労による吐息を漏らしながら、向江は装具を手の内に収めて立ち上がった。


「ふぅ……ここの調律は無事に完了したよ」

「お疲れ様でした」


 封魔術式を一切使用せず、疲労の色すらも見せずに、秋弥が彼を労う。

 異層領域を失ったことで原質の粒子となって消滅していく根棲たちの亡骸を、向江は眺めた。


「なるほど、腕はたしかのようだね」

「クラス10thの隣神ですよ。封術師なら誰だって倒せます」

「封術師、ね……ところで、君の装具は強化型なのかい?」

「……そうですね。強化型近接系片手剣(・・・・・・・・・)です」


 聞かれたままの答えを返す。すると向江はわずかに瞳を細めた。


 ——ゴトン。


 と、不意に上の階から大きな物音が聞こえてきた。


「ん?」


 二人して天井を見上げる。

 まるで大質量の物体が地面に落ちたときのような衝撃音に、秋弥は眉根をひそめた。


「近隣住人が目撃したという隣神かな?」

「さあ……、でも、その可能性は高いと思います」


 事前に総一郎から知らされていた情報では、住人が目撃したという隣神の具体的な情報までは得られなかった。

 それでも、目撃されたという隣神が根棲程度の低級隣神ではないことくらい、容易に見当が付く。


「それじゃあ、九槻君。ちょっと上の様子を見てきてくれないかな?」


 何気なく言った向江に、秋弥はかすかに目を見張った。


「……向江さん。俺はまだ封術師見習いですよ。封術師と別行動を取るわけには……」


 面倒な制約であるのは違いない。

 それが望まない結果だったとしても、封術師見習いと仕事をともにする以上、そのルールは遵守しなければならない——というのは建前上の話で、向江の提案は彼にとってもありがたい話だった。

 病院一棟程度の規模で付かず離れず行動する必要性を、秋弥は全く感じていなかった。総一郎と仕事をしているときも、かなり自由に行動していたものだ。

 しかし、向江は今日が封術師としての初仕事と言っていただけに、封術師の責務に関して潔癖なところがあるのではないかと秋弥は懸念していたのだが、どうやらそうでもないらしい。


「大丈夫だよ。根棲程度の隣神なら調律中の僕でも予め結界を張っておけば防げると思うし、君があっちの隣神を抑えていてくれれば、調律もスムーズに進むと思うから」

「……わかりました」


 あくまでも不承不承な態度を装う秋弥に、向江はどこか満足そうに見える笑みを浮かべた。


「僕は地下階の様子を見てくるよ。この調子だとまだ数か所くらい調律が必要なところがありそうだからね。上の隣神は君に任せたよ」


 秋弥は「はい」と返事をして、向江と別れて上の階を目指した。


2013/01/02 可読性向上と誤記修正対応を実施

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