第92話「コア・ルミナスキューブの真実」
★☆★☆★
白い。
白い。
何もかもが白い。
真っ白な世界に――少女はいた。
「……ここは?」
何処なのだろう。自分はどうなってしまったのだろう。
少女は空を見上げる。薄ぼんやりとした景色の遠くに、色とりどりに満ち溢れた不可思議な光景が見え隠れしている。
今度は視線を落として自分の両手を見つめる。
良かった。
自分の身体がそこに在ることに安心する。
「――!」
突然、真っ白な世界に影が生まれた。
それは灰色の影だった。真っ白だった世界に影が生まれたことで世界の輪郭が浮かび上がった。
「神殿?」
少女の目の前には白亜を思わせる幾本もの柱が並び立っており、その奥には同じく白塗りの建造物があった。
建物の正面には両開きの巨大な扉が鎮座している。その縁は遠目にもわかるほど精緻で美しい茨模様で囲われていた。少女の見える範囲には窓もあったが、まるで光が反射しているかのようにガラスの向こう側を伺い知ることはできなかった。
中に誰かいるのだろうか。
少女は胸元をぎゅっと押さえる。
眼前の建物は少女の底知れない不安が形を為して現れたのではないかと思えた。
しかし同時に、この真っ白な世界から抜け出す手がかりがそこにはあるのだという漠然とした確信もあった。
少女は意識を掌に傾ける。すると一振りの短杖が手の中に現れた。
それは少女の『意』が具現化したもの――装具だ。この真っ白な世界が何処なのかはわからないが、どうやら装具は使えるらしい。
少女は短杖をしっかりと握って、一歩を踏み出す。
その瞬間、少女の耳に荘厳な音が鳴り響いた。
思わず頭上を見上げる。ゴーンゴーンと鳴り響く音の正体は、目の前に突如として現れた建造物のさらに上にあった。
「……鐘?」
白色の鐘が揺れている。音はそこから響いているようだ。
眼前の建物は神殿ではなく、教会なのだろうか。
教会ならば少女にも馴染みがあった。しかしこの鐘の音は、もっと別の場所でも聴いたことがあるような気がする。
「うっ……」
思い出そうとすると、頭に刺すような痛みが走った。
思い出してはいけない記憶なのだろうか。
わからない。
わからないけれど、きっとそうではない。何の根拠もないが、この真っ白な世界では思い出す必要がないのだろう。
「……行かなきゃ」
少女は鐘の音に急かされるように駆け出した。高鳴る動悸を握った手で押さえつけながら柱の間を抜けて階段を駆け上る。
巨大な扉の前で立ち止まる。少女が扉に手を触れるよりも先に、まるで少女を招き入れるかのように扉が自動的に開いた。
「…………」
少女は戸惑う。
これ以上踏み入ってしまって、本当に良いのだろうか。
この教会のような建物の中に入ってしまえば、もう後戻りはできない気がする。
――何から?
何から後戻りができないというのか。
わからない。ただそう予感しているだけだ。
自分の中の何かが決定的に変わってしまうという予感だ。
この真っ白な世界が崩壊してしまうという予感だ。
それでも、踏み出さなければならない。
前へ進まなければならない。
何故ならば、この先で自分を待っている者がいるからだ。
――誰が?
誰が待っているというのか。
ふと自分が思ったことに疑念を抱く。どうして誰かが待っていると思ったのだろうか。
わからない。
わからない。
わからない。
この真っ白な世界にいる自分は、どこかおかしい。
まるで自分が自分ではないみたいだ。
意識と認識が別々の意思を持っているみたいだ。
「……」
少女はもう一度視線を落として自分の身体を見つめた。
記憶にある十六年分の自分の身体だ。間違いない。
けれどもどうして、違和感が拭いきれない。
こうして自分の身体があって、思考しているというのに、大切な何かが欠けていると感じている。
眼に見えないところにある何かが、ぽっかりと抜け落ちているような感覚だ。
その感覚の答えがこの先にあるというのならば。
少女は再び一歩を踏み出した。
途端、背後の扉が音もなく閉じた。
これでもう本当に後戻りはできない
だけどもそれで構わない。
この先で自分が向き合わなければならない何かがあるのだとしたら、目を背けてはいけないのだと。
少女は自分に言い聞かせながら歩みを再開する。
建物の内部は外装同様に美しい造りとなっていた。白一色であるのは相変わらずなのだが、頭上に煌めくシャンデリアや内装を飾る調度品の数々は名工によって造り上げられたかのように精緻でかつ曇りひとつない。
ともすれば目も痛くなるような白色なのに、不思議とそうは思わなかった。白という色が持つ無垢さや柔らかさがそうさせているのかもしれない。
「…………?」
誰かに見られている気がして少女が顔を上げると、そこには巨大なステンドグラスがあった。白色の布をゆったりと纏っただけの衣類に身を包み、その背に闇色の翼を飾った、少女とも女性とも見てとれる美しい絵がステンドグラスによって表現されている。
闇色――この世界で唯一の白以外の色だ。
少女はその絵に魅入ったようにゆっくりと前へと進み始めた。
ゆっくりと。
しかし着実に。
少女は建物の奥へと進んでいく。
コツン、コツンと一定のリズムを刻んでいた足音が、やがて消える。
少女ははたと意識を取り戻して、数度の瞬きを繰り返した。
足下にはいつの間にか真っ赤な絨毯が敷かれていた。白い建物の中でその赤色はとても映えて見える。
ここにきて白以外の色がこの世界に生まれていることに少女は気づいていた。同時にこの世界に色を持っているのが自分だけでないことに少し安堵する。
もう一度ステンドグラスを見上げる。近づいて眺めると本当に美しい絵だと思う。
黒翼は堕天の証とされているが、この翼の持ち主は生まれつき黒い翼を持って生まれた天使なのではないかとさえ少女は思った。
「――すばらしい解釈だ」
不意に聞こえた女性の声に、少女はハッとして視線を戻した。
この声は自分のものではない。
それなのに、とても懐かしく、とても身近な声だとも感じていた。
「……誰?」
赤い絨毯の敷かれた先――少女が立っているところよりも少し高くなったところに、ステンドグラスを背景にして一脚の椅子が置かれていた。少女が二人は座れてしまうような真っ白な椅子には、ところどころに薔薇の花を模した意匠で飾られている。
その豪奢な椅子に腰をおろし、肘掛けに肘を突きながら少女を見つめている者がいた。
少女はその者の姿を見て息を呑んだ。
「ふふっ、何をそんなに驚いているのかな」
椅子に座っている者は手の甲を頬に当てながら不敵に笑う。
その声は、懐かしいなんてものではない。
「ようこそ、私たちの世界へ」
なぜならそれは――。
「天河聖奈。私はきみを心より歓迎するよ」
もう一人の自分だったのだから。
★☆★☆★
春の訪れとともに日が暮れる時間も徐々に遅くなってきているとはいえ、薄闇に包まれた鷹津封術学園は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
学園に残っていた全員が聖奈の術式によって深い眠りのただ中にいた。そんな中で唯一意識を取り戻していた九槻秋弥は聖奈の行き先を知って愕然としていた。
「天河の同位体は最初から『マナスの門』が狙いだったのか」
となればその目的は『マナスの門』の破壊なのだろうか。『マナスの門』は封術師としての素養を持つ者が事象に干渉するための媒体となる装具を生み出せる唯一の場所だ。全国で四校しかない封術学園の地下に眠るその最重要施設が、異層世界の存在に狙われても何ら不思議なことではない。
地面に座り込んでいた秋弥は立ち上がった。一度意識が途絶えたことで装具は消滅している。制服に付いた土の色を両手で軽くはたき落としながら、『マナスの門』への入口がある特別訓練棟へと眼を向けた。
閉ざされたままの入口の扉には鍵が掛かっていたはずなのだが、聖奈はそこから中へと這入ったのだろうか。
秋弥は覚悟を決めると特別訓練棟へと向かって歩き出した。
「秋弥様」
その眼前に、ほんの一瞬前までしゃがみ込んでいたはずのリコリスが立ちふさがった。
異層領域を抜けて一瞬で移動したのだろう。
小さな両手を広げて秋弥の前に立ちふさがったリコリスに眼を向けた。
「リコリス……」
「どこへ行くつもり?」
リコリスの深紅の双眸が秋弥を睨み付けるように見返した。
「……天河を助けに行くんだ」
「…………どうして」
「……」
秋弥がうまく答えられずにいると、リコリスが悲痛な叫びを上げた。
「どうして秋弥様がそんなことをしなきゃいけないの? あの人間がどうなったって! この学園がどうなったって! 秋弥様とリコリスには何の関係もないじゃない! 月姫にだって、綺羅にだって関係ないことだよ! だから……だから、秋弥様がそんなことをする必要なんて、ない……」
「リコリス……」
尋常ではない態度に秋弥は眉根を寄せた。思えば聖奈の同位体と相対してから、リコリスの様子はどこかおかしかった。
「お前は、何か知っているのか?」
『彼岸の花姫』としての記憶を閉ざしたリコリスが知っていることはそう多くはないはずだが、理由もなく秋弥の行動を止めるリコリスではない。
リコリスの瞳をジッと見つめる。やがてリコリスが瞳を揺らした。
「……秋弥様はあの人間が……同位体が口に出した言葉を聞いたでしょ?」
「あ、あぁ……聞いたけど」
それがどうしたというのだろうか。確かに異層世界の存在が現層世界の言語を使ったことには驚いたが、『観察者』のような例もあるので、それ以上不思議なことだとは思わなかった。
「リコリスにも同位体の言葉は聞こえた……。でも、きっとそれは秋弥様が知る言語としてじゃなかったと思う……」
「それは……どういう意味だ?」
「ねえ秋弥様」
と、秋弥の疑問には答えずにリコリスは続けた。
「この世界で……うぅん、この重層する世界で一番強い力って、何か知ってる?」
「何って……」
何だろうか。"力"と聞いて思い浮かぶものはいくつもあるが、総じてエネルギーと呼ばれるものがリコリスの望む答えではないと思う。
たとえば現層世界で通じるあらゆる物理法則が異層世界でも通じるとは限らないように、エネルギーが最も強い力であるとは言い切れない。
だからきっとそれは、重層するあらゆる世界に共通して存在する何かなのだろう。
「それはね、"言葉"だよ」
と、秋弥が迷っている間にリコリスが答えを告げた。
「この『星』で一番強い力は"言葉"……言霊」
「言霊……」
秋弥は反芻する。言霊とは言葉に宿る力のことだ。それが最も強い力だと言われてもいまいちピンと来ないのだが。
「そしてあらゆる言霊を操れる力が――『全統符号』」
「……えっ」
リコリスの言葉の意味を吟味しようとしていた秋弥は、彼女がぽつりと呟いた言葉を危うく聞き逃しそうになった。
「あの同位体はたぶん、『全統符号』を使ってた――かつてこの『星』に生きる全ての存在が用いていた原初の共通言語を。いまのリコリスには使えないけど、秋弥様と初めて出会った頃の『彼岸の花姫』がそうしていたように」
秋弥が初めて『彼岸の花姫』と出会ったとき、互いに異なる世界の存在でありながら意思の疎通ができていた。それは思念言語によるものだと思っていたが、考えてみれば当時の自分は封術のことを殆ど知らなかった。思念言語は封術師としての高い才能があれば自然と使えるものだが、それはあくまでも受信用――つまり相手の言葉に対してだけ作用するもので、自身の言葉を思念言語として伝えるには相応の訓練が必要となる。
ならばあのとき、自分が口にした言葉を『彼岸の花姫』は理解していなかったことになるのか……否、『彼岸の花姫』は理解していたのだ。
思念言語ではなく、『全統符号』と呼ばれる原初の共通言語を介することで、『彼岸の花姫』は秋弥の使う言葉を理解して、また自らの意思を伝えていたのだろう。
「でも、『全統符号』はこの『星』が世界を層に分けたときに失われた……『星』が奪った力なの。『星』の生み出した存在が、もう二度と同じ過ちを繰り返さないように」
「……」
「だからあの人間に重なっている同位体はきっと、秋弥様が考えているよりもずっと得体の知れない相手だってことなんだよ……。だから今度こそ……今度こそ秋弥様が死んじゃうかもしれない。リコリスはそんなの、絶対にいやだよ」
深紅の瞳から透明な滴が落ちる。最後の方は涙声が混じっていた。
「リコリス……」
リコリスが心の底から秋弥の身を心配してくれているということがわかる。
それでも。
「……それでも、俺は行くよ」
「秋弥様……」
「その『全統符号』ってのがどれくらい危険な力なのかはよくわからないけど……関係なくはないんだ」
ふぅと吐き出された白い息が、空気に溶けて消えた。
「天河の重層同位体がどんな力を持っていようが、未知の術式を使おうが、俺は天河を助けに行くと決めたんだ。天河を、そんなわけのわからない存在に渡すわけにはいかない」
「……それは、悠紀にそう言われたから?」
「違う」
首を左右に振って答える。秋弥がそうする理由はもうハッキリとしている。
「誰かに命令されたからとか、封術師を目指す者としての使命だからとか、そんな大それた理由じゃないんだよ、リコリス」
「それじゃあ――」
どうして、と尋ねられる前に、秋弥は口を開いた。
「もっと単純な理由なんだ――俺が、諦めたくないから」
それが愚か者の選択であることは百も承知だ。
たった一つしかない生命を粗末にするものではない。
それに、ただでさえ自分の命は過去に一度失われ、『彼岸の花姫』の犠牲によって再び得たものなのだから、大切にしなければならない。
『彼岸の花姫』の分まで、リコリスと共に生きていくと決めたのだから。
だけど――。
それでも、どうしたって譲れないものがある。
「俺が天河を見捨てたところで、会長たちや堅持たちは俺を責めたりはしないと思う。だけど、そうしたら俺は俺自身を責め続けることになると思うんだ。自分に出来ることがまだ遺されているのに、何もせずに逃げ出した自分を責め続けることになると思うから――そういう後悔はもう二度としないって決めたんだ」
かつての自分は『彼岸の花姫』と出会うまでずっと一人だった。父親は物心が付く前に他界しており、封術の研究者として働く母親はほとんど家にいなかった。母親に代わって自分の面倒を見てくれていた姉の月姫からは疎まれていたということは理解していたし、学校では常に優秀な姉と比較されていて、何処にも居場所がなかった。だけども自分はそんな環境を受け入れてしまっていた。周囲に対して自ら行動を起こさず、ただ静かに受け止め続けていた。
その結果が自らの『負死』に繋がり、結果的に『彼岸の花姫』の存在を奪ってしまった。
そんな後悔は、もう二度と繰り返したくない。
「だから俺は、これから天河を助けに行くんだ」
学園という閉鎖された空間の中に残された最後の希望が自分なのだとしたら、これほどまでに最悪な運命の巡り合わせはない。
「だけど、さ――」
そう言って秋弥はリコリスの目の前でしゃがみ込んだ。リコリスと目線の高さを合わせると、照れ隠しをするように微笑んだ。
「俺一人じゃどうしようもなくても、リコリスが一緒なら安心できるんだ」
「……秋弥様」
「俺と一緒に、来てくれないか?」
その瞬間、リコリスは堪らずに秋弥に抱きついた。
「ずるい……ずるいよ、秋弥様。そんな風に言われたら、リコリスは断れないよ」
耳元で嗚咽が漏れる。秋弥はリコリスの頭を抱くようにして優しく撫でた。
少しの間そうしていると、リコリスの方から身体を離した。その瞳に涙の跡はもうなかった。
「ありがとう。それじゃあ、行こうか」
だいぶ時間が経ってしまっていたが、相変わらず聖奈の干渉波は感じ続けている。干渉波の情報が変質していないので、状況はまだ変わりないはずだ。
学園の皆が気を失っているのならば、リコリスが姿を隠す必要はない。二人は特別訓練棟の入口の前まで歩みを進めた。
「おかしいな……。鍵が掛かっていない」
秋弥が扉に手を掛けると、少々の反動を感じながらも扉はすんなりと開いた。
「何か変なの?」
僅かに開いた扉の隙間から内部の様子をちらりと覗う秋弥にリコリスが尋ねた。
「あぁ……この施設を使うには封術教師の許可が必要だからな」
「でも、あの同位体が中にいるから開いてるんじゃないの?」
「どうだろうな」
至極真っ当な答えを返したリコリスだったが、秋弥の考えは違うらしい。
「天河なら鍵を開けて中に入るだろうが、あれは天河じゃなくて天河の重層同位体だ。異層世界の存在がわざわざ鍵を開けて中に入ろうとはしないだろう?」
秋弥自身、ほんの少し前まで扉に鍵が掛かっていたら壊してでも中に入ろうと考えていたくらいなのだ。異層世界の存在からしてみれば、鍵を開けて中に入るなんていう普通の人間らしい行動をする必要はどこにもない。
それなのに、これはいったいどういうことなのだろう。
天河聖奈の身体を操っている重層同位体への警戒心が高まる。慎重になりすぎるのは良くないと思うが、それでも慎重にならざるを得ない。
「俺たちも中に入ろう」
秋弥は静かに扉を開けて、特別訓練棟の内部へと入った。元々は鍵が掛かっていたからだろう。訓練棟内部は照明が灯っておらず、窓から僅かに差し込む光だけが棟内を照らしていた。
扉のすぐそばにあるスイッチに触れる。ここで照明を点けることが自分にとってマイナスに作用することはないはずだ。
程なくして照明が灯った。『マナスの門』に降りるための昇降機は入口から最も遠いところにあるが、そこまでは一本道だ。その道中で待ち伏せされている可能性も考慮しながら、二人はゆっくりと奥へ向かって進み始めた。
周囲に警戒を払いつつ歩きながら、秋弥は一つの問題点について考えていた。
問題点――それは昇降機へと向かったところでどうやって『マナスの門』まで降りるかということだった。
『マナスの門』は封術学園にとってだけでなく、いまの現層世界にとって必要不可欠なものだ。そんな最重要施設に、大した身分も持たない封術師見習いが易々と入れるはずがない――もちろん、大した身分があったとしても関係各所への手続きをいくつも踏んで、ようやく利用できるようになるほどなのだが。
故に、『マナスの門』へと通じる昇降機に向かって歩いても、文字通りの無駄足になるのではないかと思えるかもしれないが、決してそんなことはない。
何故ならば――既に聖奈が何らかの方法によって『マナスの門』にいるからだ。
昇降機を無理矢理動かしたのか。はたまた『マナスの門』がある地下大空洞までの穴を造ったのか。
如何なる方法を用いたのかは定かではないが、いずれにしても聖奈が『マナスの門』にいると言うのであれば、そのために用いた手段が何処かにあるはずだ。
それを見落とさないようにも注意しながら歩いていた秋弥だったが、しかしその予想に反して――すなわち待ち伏せや奇襲といった類いや施設内の破壊跡等は見当たらずに、昇降機の前まで辿り着いてしまった。
「秋弥様」
物言わぬ昇降機の前で立ち尽くす秋弥にリコリスが声を掛ける。
「昇降機を壊して下まで降りる?」
ひょっとしたら聖奈の重層同位体も昇降機を壊して『マナスの門』へと向かったのではないかと、頭の片隅で考えてはいた。そうであれば自分たちも昇降機の縦穴を通って『マナスの門』へ行けば良かったのだが、これではまるでわからない。
特別訓練棟の鍵の外された扉といい、わからないことが多すぎる。
聖奈の重層同位体の行動には、あまりにも不審な点が多い。
あるいは、何処かで読み違いをしているのだろうか。
聖奈を見つけたとき、彼女は特別訓練棟へと向かって歩いていたが、そもそも聖奈が特別訓練棟に入ったという確証はない。訓練棟の扉は別の理由で開いていただけで、聖奈は全く別の場所から『マナスの門』へと向かったという可能性だ。
「いや、ダメだ」
いくらなんでも無闇に施設を壊すわけにはいかない。それはあくまでも最終手段だ。
とはいえ、ここで何らかの打開策が――次善策があるわけでもない。せいぜい聖奈が使った方法を探すくらいのことしかできないのだが。
秋弥は昇降機の脇に備え付けられたコンソールの前に立った。コンソールにはボタンの類いがなく、窪みのようなものがひとつあるだけだった。ほとんど平らな表面を指で撫でるようにして調べていると、ふと左腕に嵌めていたブレスレット型の端末が小さく発光していることに気づいた。
「ん?」
腕を持ち上げて顔を近づけると、デバイスのアタッチメントとして取り付けられた『コア・ルミナスキューブ』が光を放っていた。
「……っ!」
考えるよりも先に秋弥は装具を構えた――その視線は昇降機に向く。
耳朶を打つのは、大質量の機械が駆動するときの独特な重低音だった。
昇降機が独りでに動いている。コンソールに昇降機の到着を予告するランプが灯った。
秋弥とリコリスは警戒する。昇降機が停止して重厚な扉がゆっくりと開かれようとしている。昇降機の中から襲いかかってくるであろう敵の攻撃に二人は備えた。
「何だ……?」
しかしそれは杞憂だった。
一度に三十人以上の人間を載せることのできる巨大な昇降機の内部はもぬけの空だった。
「……なんだろ」
状況が理解できずにいた二人は不審に思った。特別な許可がなければ操作することもできないはずの昇降機が動作し、二人を招き入れるかのように扉が開かれている。
まるで、誰かに誘われているかのようだ。
「罠かな」
天河の重層同位体が仕組んだことなのだろうか。異層世界の存在を相手にして、どうやって昇降機を動かしたのか、という疑問はほとんど意味を為さない。
秋弥は探査用の術式を使って昇降機に何らかの干渉行為が働いた痕跡を探してみたが、何も見つからない。どうやら昇降機はこの世界の規則に従って動作したようだった。
「あの同位体が動かしているわけじゃなさそう?」
そう考えるのはさすがに早計だ。二人以外に昇降機を動かせる者が学園内にいるとすれば、聖奈の重層同位体以外にあり得ないからだ。
だが、動いているのは無機情報体――物言わぬ機械だ。外的な操作がなくとも動力さえあればシステムに従って動くこともあるだろう。
それに、侵入者を遠ざけたいと考えるならまだしも、自ら招き入れるような真似をするとは考えづらい。
秋弥は警戒心を解くと、おもむろに左腕を持ち上げてブレスレット型の端末に付けられた『コア・ルミナスキューブ』を眺めた。謎の発光現象は既に収まっており、無色透明な立方体がそこにはあるだけだった。
『コア・ルミナスキューブ』は第八国際封術研究所の所長を務める母親が秋弥と月姫のために自ら設計し開発した端末専用のアタッチメントだ。研究をする傍らで作ったらしいお手製のそれは、異層領域に反応して光を放つという特性を持っている。
先ほど、昇降機が動き出す前に『コア・ルミナスキューブ』が発光していた。それはつまり異層領域の発生を検知して反応したということになるはずなのだが、『波』の変化に敏感なリコリスが気づかなかったのだから、その特性も信じて良いものか疑わしい。
気にすべき事がほかにある秋弥は『コア・ルミナスキューブ』を関心の外に追いやると、昇降機の内部からならば何か新たな発見があるかもしれないと考えた。細心の注意を払いながら慎重に昇降機へと乗り込む。
内部にもまた操作用のコンソールが設けられているが、それは約一年前の装具選定のときに見た記憶のままだった。外側のコンソールと同じく開閉のボタンや階層を示すボタンは一切なく、何かをはめ込むような窪みがひとつあるだけだ。
「動かせそう?」
リコリスが身を乗り出すようにして言う。彼女の背丈では高いところに設置されたコンソールを見ることができない。
「いや、無理だろうな」
装具選定を行うために封術教師の袋環樹に付いて昇降機に乗ったときは、ネックレスの先端に取り付けられた石のようなものをコンソールに嵌めていた。それが昇降機を動かす鍵なのは間違いないだろう。当然、秋弥はそれを持っていない。
学園の中を探しても見つかる可能性は薄いだろう。何せ『マナスの門』へと通じる唯一の手段だ。装具選定以外ではほとんど使用されることのない昇降機の鍵が、学園に保管されているとは思えない。
秋弥はコンソールの表面を指で撫でながら思案する。どうしたって自分たちには昇降機を動かすことはできない。完全に手詰まりだった。ならばやはり昇降機を壊し、『マナスの門』まで直通の縦穴を一気に降下していくしかないか。
『マナスの門』が鎮座する地下大空洞までどれほどの距離があるかわからないが、封術を行使すれば不可能ではない。
「……またか」
視線を落としていた秋弥は、『コア・ルミナスキューブ』が再び発光していることに気づいた。
「リコリス、俺たちは異層領域の中にいるのか?」
この場が異層領域下にあるというのならば昇降機に乗り込む前に気づいている。あり得ないと思いながらも万が一もあるのでリコリスに訊ねてみるが、案の定リコリスは首を左右に振った。
「うぅん」
予想していた答えに秋弥はため息を漏らす。母親お手製の『コア・ルミナスキューブ』はどうにも信用ならない。元々それほど期待していたわけでもないのだが、誤作動ばかりでは余計に秋弥の思考を鈍らせるだけだった。
そう考えながらコンソールから離れて昇降機の内部を調べていると、『コア・ルミナスキューブ』の発光現象が止まった。光ったり消えたりと忙しいことだ。
「……いや、まて」
秋弥の中で、ある一つの仮説が生まれた。あまりにも突飛な考えだったので自分でもどうかしていると思うのだが、それでも試してみる価値はあると思い、コンソールの前に立ち直した。
途端、『コア・ルミナスキューブ』が光を放ち始めた。
「まさかこれが反応しているのは……」
昇降機に乗り込む前にも似たようなことがあった。コンソールの前に立っていたときだ。そしていま、『コア・ルミナスキューブ』はコンソールに近づけたときにだけ発光している。
「まさか……、いや、そんな……」
秋弥が己の立てた仮説を信じられずにいると、『コア・ルミナスキューブ』が一際強い光を放った。さらに続けて、警戒を示すようなアラート音が大きく鳴り響いた。その音は秋弥の端末からではなく、昇降機内に設置されたスピーカーから発せられていた。
「な、なに!?」
突然のことに周囲を見回すリコリス。秋弥は今すぐにでも昇降機から下りた方が良いのではないかと考えた、二人が行動に移す前に、事態は次の段階へと進んでいた。
『――第異種優先信号を検知しました』
聞こえてきたのは、機械による合成音声だった。
『これより本システムは認証シークエンスへと移行します。――繰り返します。第異種優先信号を検知しました。これより本システムは認証シークエンスへと移行します』
認証シークエンスと聞いて秋弥の眼はコンソールへと向かった。音声が途切れると同時に、黒塗りのコンソールに青色の走査線が幾筋も走った。
『認証対象者――学籍番号TM2053015 九槻秋弥。本人認証を行いますので、装具を召喚してください』
まったく予想だにしていない展開に秋弥は目を見開いた。
認証と言ったのか。いったい何がどうなっているかわからないが、認証を通せば昇降機を動かせるようになるかもしれない。
時間が許すのならば、どういうプロセスが作用しているのか一考したかったのだが、認証シークエンスの方はそれを悠長に待ってはくれないようだった。
『なお、認証開始から十秒以内に本人認証が成功しなかった場合、本システムは第異種優先信号を不正アクセスと判断し、今後一切の同一アクセスを禁止します。それでは認証を開始します。十……九……』
認証シークエンスは無慈悲にも認証を開始した。たったの十秒では、一考する余地もほとんどない。
リコリスが「どうするの?」という表情でこちらを見上げている。彼女の手には紅の装具が握られているが、秋弥の装具は先ほど昇降機に乗り込んだ際に一旦仕舞っている。
『七……六……』
「…………」
こうなってしまえば、もはや装具を召喚してみるほかないだろう。
毒を食らわば皿まで。少なくとも事態が今以上に悪くなることはないはずで、こちらとしても藁にも縋る思いだったのだ。
秋弥は認証時間の半分を過ぎたところで右手に装具『蒼のクリスティア』を召喚してみせた。
しかし、装具を召喚しただけで次にどうすれば良いのかわからない。適当にコンソールの前にかざしてみた。
『三……――データベース照合中――データベース照合中――――類似する装具が一件――登録情報との完全一致を確認――登録名「蒼のクリスティア」』
カウントダウンが止まり、装具の照合が完了する。機械の音声は秋弥の装具の名を告げた。
『認証成功――認証対象者を本人と断定。第異種優先信号に従い、本システムを対話形式での操作シークエンスへと移行します』
どうやら認証には無事成功し、次の段階へと進んだらしい。
ほっとして良いのか秋弥としては判断に迷うところだが――操作シークエンスへの移行。
これはつまり、どんな力が働いたのかは知らないが、昇降機を動かせるということではないのか。
『昇降機は現在、「最上層」で停止しています――行き先を指定してください』
やはり、昇降機の操作権限が与えられたようだ。
しかしいったいなぜ……ここでようやく秋弥は考えを巡らせることができた。
『コア・ルミナスキューブ』が昇降機の鍵としての役割を持っていたということか。だがそれでは腑に落ちないことがある。そもそも『コア・ルミナスキューブ』は母親が個人的に開発したものであるということだ。封術の最高研究機関、第八国際封術研究所の所長を務めているが、母親は封術を行使することができない一般の研究者だ。『マナスの門』へと至る鍵の情報を持っていたとは思えない。
「第異種優先信号か……」
合成音声の言葉を思い返す。内容を聞く限り、通常の動作シーケンスが働いていたということはないだろう。本来ならばあり得ないような……本来でなくともあり得ないような特殊な信号が『コア・ルミナスキューブ』から発せられたのだとしたら――。
対話形式と言っていたように、昇降機は秋弥からの指示を待っている。そこに先ほどのような時間制限は設けられていないようなので、秋弥は青の走査線が踊るコンソールに顔を近づけてじっくりと眺めてみた。
「……はぁ、やっぱりそういうことか」
得心がいったように秋弥が頷いたのは、コンソールの下部にある文字の並びを発見したからだった。薄暗い内部では目を懲らさなければほとんど見えないが、そこには昇降機の製造元が刻まれていた。
第八国際封術研究所――昇降機を製造したのは母親たちだ。ならば当然、コンソールのシステムを開発したのも研究所の職員たちだろう。その開発過程で、研究所所長の母親が誰も知らないプログラムを密かに組み込むことだってできたかもしれない。
だがそれは口で言うほど容易いことではない。もしもこの事実が公に晒されでもしたら、所長としての首が飛ぶどころではない。最悪、現層世界に仇なす反逆者として扱われたとしても、文句のひとつも言えはしないだろう。
「ったく、あの母親は……」
それ以上は、さすがに実子であっても言葉にならなかった。
どうして母親はこんなリスクばかり高いプログラムを仕込み、そしてそれを動かすための鍵を自らの子供に託したのか。次に顔を合わせたときに問い詰めたい気持ちだったが、結果だけをみれば今回はそんな母親の気まぐれに救われた形となったので、感謝すべきか迷うところでもあった。
ともあれ、秋弥は気を取り直して――むしろ開き直って、この機会を最大限利用することに決めた。
「行き先は"最下層"の"地下大空洞"――『マナスの門』だ」
『――承知いたしました』
秋弥が口に出したいずれかのキーワードを認識したらしい操作プログラムが了承する。秋弥たちの現在位置を示す「最上層」に光点が灯り、機械が駆動する音が聞こえた。
『昇降機はこれより、「最上層」から「最下層」までの降下シークエンスを開始します。扉が閉まります。ご注意ください』
開きっぱなしだった昇降機の扉がアナウンスの直後に閉まる。
廊下の光が閉ざされたことで薄暗さの増した昇降機の内部で、機械の音声はさらに告げた。
『――降下準備が完了しました。降下直後の衝撃にご注意ください』
そして――。
九槻秋弥と隣神リコリスを乗せた昇降機は、天河聖奈のいる地下大空洞『マナスの門』へと向かって降下を開始したのだった。
もしかしたら微妙にリテイクするかも。