雄鮟鱇
切長な形をした肌の裂けめに閉じ込められた瞳は、優しい黒色だった。
手には小さなレジ袋がぶら下がっていた。うっすらとペットボトルの形が浮き出ている。その隣には形を保った空間があった。
「そんなに、びしょ濡れで帰ったらお母さんに怒られるよ」
再度口を開く。何気ない言葉だ。
さほど心配などしておらず、こんなことをしている理由が知りたいが為に言った、作業的な声色。
「…」
なんて説明しようと言葉に詰まる。
死のうとしていたと言う気にもなれない、もしも止められたら面倒くさいことになってしまうから。
何も答えられず、俯く。どんな言葉を口にしても、この人は私のしようとしている事が既に分かって居そうで、嘘も吐けない。
ずっと黙っていると、彼から動いた。
スニーカーが濡れて重くなることなど気にもせず、ずけずけと海の中へ歩む。
足を大きく上げ、思いきり水面を踏み込み、力強くまた足を上げる。小さな波を立てながら私の元へ近づいてくる。
下から上へ濡れ広がるズボンの裾を見ていた。
そして私の前に着いた。最初に見た時と変わらず、無機質な黒い瞳が私を見下ろしている。
気づいたのは目の白い所が、人より多いこと。
彼は屈むと、私の手首を掴み、上へ引っ張った。反動で立ち上がる。
長い時間座ったまま海水で冷えた脚は、思い通りに動かずそのまま彼の方へよろめく。
受け止めてくれた胸板は、夏には似合わない冷たい温度。
足をしっかり地面に付け体勢を安定させる。少し動いたからか、脚がほんのり温かくなっていた。
その温みに少し安堵していると、頭の上から「ねぇ」と声が聞こえた。
そうだった、彼に立たせて貰ったんだ。慌てて見上げると、
やはり無機質な瞳がそこにあった。
でも何故か、今は優しく感じた。
「あの、ありがとうございます」
「なにしてるのか気になっただけだから別にいいよ」
「……」
「冷えるから浜に行こ」
「そう、ですね」
倒れないようにと心配してくれているのか、さっきより彼の歩調が遅いように感じる。
自分はもつれないようにと、1歩1歩踏みしめる。水位が下がる度に強張りがほぐれていく、そんな気がした。
浜に着いた。途端、足が竦んでへたり込む。
原因は何となく分かっている。
死ぬことへの恐怖とか、知らない人と話した緊張とか、まだ冷えが取れてないとか、情けないこと。
そんなことで足がすくんでしまうのが恥ずかしいけど、不思議と心は暖かい。
海水の中に浸かっていた時より、脳が澄んでいて心地良い。死に損なったというのに、辛いことは何も解決していないのに、ほくそ笑んでしまっている。
指の間に入る、細かい砂の冷たさを感じる。
身体全身に血が巡っているのだと、触覚が教えてくれているんだ。
「で、なにしようとしてたの」
夢見心地で居たのに、現実叩きつけられる。
もう少し安堵に浸らせて欲しかったな…と恨めしそうに彼の顔を見る。
相変わらず何を考えているのか分からない目だ、それは私の姿をじっと捉えている。
黙っていても仕方ないか、と腹を括る。
「なんかもう、どうでもよくなっちゃって、死のうとしてました」
「……なんだそれだけか」
「……面白い答えが返せずすみませんね」
「何かファンタジックな事が起きると期待してたのにな」
「……変な人。」
拍子抜けした。
人が死のうとしているのに、心配したりせず、興味本位で態々助けたとでもいうのか。
頓珍漢なことを言い出した男は、次は自分の足元の砂を見ながら何か考えごとを始めた。海水で濡れ、固くなった小さな砂の塊が指の閉じた隙間に乗っている。
綺麗な瞳の黒、長い髪、真っ白な肌、全てが低俗に見えてきた。何を考えているのか分からない無機質な表情も、なんだか間抜けたように感じる。
神秘的に感じてしまった自分が馬鹿らしい。
1つ溜め息を吐く。
この後の事について考える。
家には帰りたくない、かといって泊めてくれる場所はない。
海に捨てに来た命も、彼に拾われてしまった。もう一度捨てに行く度胸は今はない。
…いつかは、あの家に帰らなければいけないのか。
お腹の中に冷やした小石を1つずつ詰められているようだ、考える度に下腹部が冷えてくる。
自分には、どこも居場所がない。
つくづく思う。先程まで心地良かった砂の冷たさも、ここにいて欲しくないのかやけに冷たい。
重くなってしまったお腹を支えないと、そのまま肌を突き破って詰めた小石が出てきてしまいそうで、膝を抱えて受け止める。
脚の間に顔を埋めてわんわん泣いてやりたい。
どこからか、石鹸の優しい匂いがする。
「ねぇ、僕のお家来る?」
「……え?」
耳心地の良い声だと、今気づいた。
今の私にはまたと無いお誘いだ。喜んで引き受けたい。
けれど、この人は知らない人だ。
自分の身を案ずるのであれば、出会ってから1時間程しか経って居ない人の家に上がるのは気が引ける。
「一人暮らしだし、そんな狭くないし、」
「でも、そんな、」
「1度は捨てようとした人生、何を恐れる必要があるの?
それに、君の帰れる場所なんてどこにもでしょ」
ガラスのコップを割ってしまったような呆気なさと虚しさが心を一瞬染める。
思わず俯き、涙を堪える。
けれどぼろぼろと溢れてくる。肌にぽた、ぽた、と当たるが、凄く冷たい。
鋭いもので貫通するほど抉られた胸は、正常な思考を奪っていく。
「………」
いかのおすし。
いかない、のらない、大声を出す、すぐ逃げる、周りの人に知らせる。
身を守るための、大事な約束。
「…いきます」
「そっか、僕は水飼 琉海。君は?」
「高砂 海遊、です」
「みゆちゃんかぁ」
背中を摩る手は、冷たい。




