光る海月
背中が熱を持つ。
心臓と脳が揺れるのを感じる。
段々と痛みは来るのに、あざは残らない。記憶にはいつになっても残り続けるのに…ずるいものだ。
「うるさいんだよいつもいつも」
「…」
夏だからと、片付けられたカーペットの下。露わになったフローリングには、少しだけ白く、90°に象られた汚れが見える。
蹴られる時はいつもそうだ。
理不尽に兄が怒り、急に私の背中を蹴り始める。なんで自分が…と苛つくが、4つ程歳の離れた兄だ。110キロと巨漢で、抵抗しようものなら更に酷いことになるだろう。
殺してやる、殺してやると心の中で唱えていた。
疲れてた、疲れていたのだ。
裸足で砂を踏む。貝の割れた残骸や、細かな漂流物が足裏に刺さらないように足元を注意しながら、柔らかい砂をぎゅっ、ぎゅっと踏みしめる。
鼻をくすぐる磯の匂い。
目を前へ向けると、そこには半端な形をした月が広い海を照らしていた。
見たことのない神秘的な景色に、何もかも忘れてしまいそうになる。兄も、母も祖父母も、学校も、友達も。
波打ち際に、足の親指をチョン、と着ける。夏には丁度よい冷たさで、このまま頬を着けて寝転んでしまいたいと思えるほどだ。
よく母に服に泥を付けてはいけないと怒られていたな…
あなぼこが沢山開いたサンダルを履き、中に砂が入っては捨て、入っては捨てを繰り返していた。
砂浜で見つけた様々な形の貝殻が、物珍しくて、それを自分のものにしたくて、よく家に持ち帰っていた。
けれど、結局1週間ほどで無くしてしまうので、母は個数制限を設けていた。
兄が見つけた綺麗な水色の透明な石が、どうしても欲しかった。
今はもはや跡形もない。幼き日の思い出。
じわりと蹴られたあとが痛みを帯びる。
しっかりと足の裏を付け、前へ進む。波が足全体を冷たく包む。
段々と上がっていく水位が、少し怖かった。それは本当に、私の全てを飲み込んでゆくから。
心の底から海にどっぷりと浸かったとき、跡形もなく泡になって消えてしまえそうだ。
痛いほど力を入れて握る両手は震えている。
膝下まで届く海の冷たさのせいか、脚が震えている。
怖い。
死ぬのが怖い。
何も感じられなくなったまま、水分を吸いすぎて大きくふやけた体の自分が、海を漂うことが怖い。
学校の友達ともう話せなくなるのが、大好きな音楽が聞けなくなるのが、見たかった映画が見れなくなるのが、美味しいご飯が食べれないのが、
母が泣いてしまうのが、
怖い。とても怖い。けれどここでは生きては行けない。この酷く辛い気持ちを、誰包んでくれるのだろう。
間違えて生まれてきてしまったんだ、バッタだったらもう少しは良い人生だっただろうか、ずっと、ずっと、
そう考えて、もう疲れてしまったんだ。
涙がぼろぼろと目から溢れる。そのひとつが海へ落ちて、馴染んでいった。
誰も拭ってくれない、頬伝う雫はいつもより冷たく感じた。
もうどうしようもないんだ。
重い波を押し返し歩みを進める。引き返す波に脚がもつれる。
バシャっと、情けない音と共に転んでしまった。全身が冷たく濡れた。
その温度が耐え難いほど、心を虚しくさせた。
「………」
誰も居ないというのに声を殺して泣く。いつもの癖だ、声出して泣くとまた蹴られるから、喉を締め付けて涙だけ流す。
少し乾いた涙の痕と、鼻水で汚れた鼻下が少し不自由に感じる。顔を歪める度に動くそれが凄く邪魔なんだ。
「なにやってるの」
どうしようもなくて、動かずそのまま泣いていると、後ろから声が聞こえた。
ある程度低く、落ち着いた大人の声だった。巡回中の警察官に見つかってしまったのか?と慌てて振り向くと、
薄くてオーバーサイズのTシャツを着た、黒い髪が長い人だった。
驚くでも、焦るでもなく、
時計を見るような、なんでもない表情をしてこちらを見ている。
Tシャツから出ている腕は、幽霊のように白かった。




