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タイトル未定2026/02/14 11:05

忠誠と疑念 二十四則


非難や称賛、正邪は、一概に定めることはできない。それは漢の高祖の策略や陳平の奸計のように、非難されれば罷免され、称賛されれば再び寵愛を受けるからである。文帝の聡明さと魏尚の忠誠のように、法によって裁かれれば罪人となり、恩赦によって善行となる。世の中の聞き手は往々にして偏っていることを知るべきである。偏りがあれば、聞くところは必ず誤る。〔尤は過ちのこと〕 なぜそう言えるのか?


『呂氏春秋』にこうある。「ある者が斧をなくし、隣人の子を疑った。その者の歩き方、顔つき、言葉、態度、動きのすべてが、斧を盗んだように見えた。ところが後に谷を掘って〔谷は穴のこと〕斧を見つけた。翌日、再び隣人の子を見ると、その態度や動きは、どう見ても斧を盗んだようには見えなかった。隣人の子は変わっていない。変わったのは見る側の方である。見る側が変わったのは、他でもない、偏りがあったからだ。」


昔、ある国の故事に、かつて絹を鎧に縫い付けていた〔用帛缀甲〕のを、公西鉏がその国の君主に「紐を使う方が良い」と進言した。君主は「良かろう」と命じ、官員に鎧を作る際には必ず紐を使うよう指示した。そこで公西鉏は自分の家で鎧の紐を大量に作らせた。すると、ある者が揶揄して言った。「公西鉏が紐を使うよう勧めたのは、自分の家で鎧の紐を大量に作っているからだ」〔伤は害すること〕 君主はこれを聞いて不快に思い、紐の使用を中止させた。これがその君主の偏りである。


もしその国の鎧作りに紐を使うことが便利であるなら、たとえ公西鉏が紐を多く作っていても、何の害があろうか?もし紐を使うことが不便であるなら、たとえ公西鉏が全く紐を作らなくても、何の益があろうか?紐を使うか使わないかの問題で、公西鉏の進言を貶めるべきではない〔累は名誉を損なうこと〕。総じて、いかなる言葉を聞くにも、熟考しなければならない。


劉劭が言う。「公父文伯が魯に仕えて亡くなった時、部屋にいた二人の若い女性が殉死した。彼の母親はそれを聞いても泣かなかった。家老が問うた『子が亡くなったのに泣かないことがありましょうか?』母は答えた『孔子は聖人でありながら魯を追われたが、この者は従わなかった。今、この者は死に、女たちが殉死した。この振る舞いは、年長者には薄情で、女性には情深いということだ』」このように、母から見れば良き母であっても、妻から見れば嫉妬深い妻と見なされざるを得ない。同じ言葉でも、語る者が違えば、人の心は変わるのである。


楽羊は魏の将として中山を攻めた。その時、彼の子は中山におり、中山の君はその子を煮て羹にし、楽羊に送りつけた。楽羊はそれを平らげた。魏の文侯は「楽羊は我がために、自らの子の肉を食らったのか」と言った。睹師賛は言った「自分の子すら食らう者が、誰を食らわないことがありましょうか?」楽羊は中山から兵を退いたが、文侯はその功績は賞したものの、その心を疑った。


『淮南子』に言う「実の母が自分の子の頭の禿げたところをかきむしり、血が耳に至るまでになったのを見て、人々はそれを愛情の極みと思う。しかし継母であれば、人々はそれを残酷と見るであろう。」同じ事実であっても、見る者によって異なる。城壁の上から牛を見れば羊のように見え、羊を見れば豚のように見える。それは高い所にいるからである。水を張った盆の中で顔を映せば丸く見え、盃の中で映せば歪んで見える〔[阜耆]は歪むの意〕。顔そのものは変わらないが、丸く見えたり歪んで見えたりするのは、映す器が異なるからである。今、我々が身を正しくして人に接しようとしても、世の人々が我々をどのように見るかを、どうして知ることができようか?ここにおいて、天下の正邪には定まった基準がないことを知るのである。


世の人々は、それぞれ自分の正しいと思うものを正しいとし、自分の間違っていると思うものを間違っているとする。今、我々は正しいものを選んで実践し、間違っているものを遠ざけようと欲するが、しかし世の人が正しいとし間違っているとするものの、どれが正しくどれが間違っているかを知ることができない!


〔所見:国事に身を捧げることをもって家族を顧みないと見なせば、どうして君主を愛することができようか?例えば、衛の公子開方、呉起、楽羊の三人のような者である。しかし、もし家族のために利することをもってすれば、「君命を受ければ家族を忘れ、軍を統率すれば親を忘れ、戦鼓を鳴らせば己を忘れる」と言うであろう。例えば、要離が荘賈を殺したようなものである。ゆえに『春秋左氏伝』は言う「罪を加えようと思うなら、何も言葉に困ることはない!」と。正邪を考える者は、事の真相を理解すべきである。〕


このように、忠誠の士でありながら疑われる者がいる。故に、よくよく考えねばならない。

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