第八章
カチャリ
セルヴィックが細い針金を鍵穴に突き刺して回すと、小さな金属音が立った。
静まり返った廊下に、嫌にその音が大きく聞こえて、ほんの少し肩を揺らすとセルヴィックが喉の奥で笑った。
「さ、時間がありません。とっとと用事をすませて下さい」
「わ、わかっているわ」
渋るセルヴィックを説き伏せて、敵陣に忍び込んだのだ。
見つかったらタダではすまないだろう。
こくりと唾を呑み込んだファンファーナは、意を決して取っ手を回した。
開いた扉の隙間にするりと小さな体を入り込ませると、扉は静かに閉じられた。
見張っていてくれるのだろう。
「だれだ?」
そう誰何する声は鋭かった。
「ファナよ」
「ファナ?」
訝しげながらも声音からは険がとれる。
すっと奥から顔を見せたのは、どこか憔悴した様子のハイラントであった。
いつも隙なく整えられていた服もよれよれで、美しい髪の毛もぼさぼさだった。目の下にうっすらとクマをつけ、青白い顔の彼は、ファンファーナに目を留めると、すっと細めた。
「なにをしている? 見つかったら……」
「わかっているわ」
ファンファーナは、彼の言葉を途中で遮った。
「でも、正義が悪に負けるなんて許せないの」
「ファナ……。これ以上は、どう足掻いてもどうにもならないさ」
ハイラントの顔から表情が消えた。
すべてを諦めてしまったような、絶望しているような色は、一瞬で無に塗り替えられてしまう。
人身売買の組織を一網打尽にし、一躍時の人となったハイラントであったが、上層部が黙っていなかった。
その組織と癒着して金儲けしていたのが、王立警備団の団長たちだったのだ。
金づるを失った彼らは怒り狂い、ハイラントを降格及びに一ヶ月の謹慎を言い渡した。
「なるわ。諦めなければ、なんだってやれるわ」
「各団長だけでなく、総団長も道理を忘れてしまったのに? 一介の団員にできることなんてもうなにもないさ」
ハイラントの顔が歪んだ。
「俺の身勝手さで部下を失いたくないんだっ」
片手で顔を覆ったハイラントは苦渋に満ちた声を上げた。
あの日、ハイラントの指揮の下に集まった団員は全員処罰の対象となった。中には、惨い仕打ちを受けた者もいるという。
家を離れたとはいえ、貴族であるハイラントに身体的な苦痛を与えることができないために、見せしめに部下を罰したのだ。
「あなたが動かなかったら、もっと多くの血が流れるわ。光を失ったら、人は生きていけない。あなたが希望なの。みんなの救いなの」
「やめてくれ……っ」
呻いたハイラントは、その場に崩れ落ちた。
でも、ファンファーナは手を緩めなかった。
ここで折れてはいけないのだ。未来のために。
「今度はわたしがあなたを助けるから」
「……」
「ハイラント、顔を上げなさい」
ファンファーナがそう命じると、のろのろとハイラントが頭を上に持ち上げた。
虚ろな目がファンファーナを捕らえると、つかつかと歩み寄った。
「弱き者を守るために王立警備団に入ったんでしょ? 忘れてしまったの、そのときの気持ち。家を出るほど強い志は、部下を失ったくらいで簡単に折れるものなの?」
「ファナ……」
「わたしはこの街の人たちが好き。父様が護ろうとした人たちだから、わたしも護りたいと思う。でも、わたしだけじゃ駄目なの。ハイラントがいてくれないと駄目なの」
「俺、が……?」
「一人でずっと戦ってきたあなただから、民はあなたを信じている。虐げられても、あなたが助けてくれると思っているから、我慢できるの」
「けれど……」
「あなたが光になってくれるのなら、わたしが力を与えるわ」
ファンファーナは、ハイラントの色を失った頬に両手を添えた。
ぼんやりと強く輝く蒼い双眸を見つめていたハイラントは、ふっと苦い吐息を漏らした。
「君になにができるというんだ」
「そうね、無理かもしれない。でも、無理でもやらないと。わたしはずっと自分にのしかかる責任から目を逸らしてきたから」
「君の責任を俺に押しつけるつもり?」
ハイラントの双眸が鈍く光る。
ファンファーナが見惚れた凛々しさも、輝きもないというのに、どうしてか今の彼が愛おしく感じられた。
彼の額に自分の額をこつんとつき合わせたファンファーナは、ゆっくりと目を閉じた。
「違うわ。……ううん、そうかもしれない」
「ほら、」
「でもね、あなたが相応しいと思ったのは本当」
ファンファーナは瞼を持ち上げると、間近でハイラントの目を見つめた。
近すぎる距離に、ハイラントが一瞬息を詰めたようだった。
「変えたいのなら、あなたが頂点に立つのよ」
「なにを馬鹿なことを」
「これは、夢物語じゃないわ。あなたがそう望むのなら、わたしはそうなるように動くわ」
「ファナ、そう軽々しく口にしていいことじゃ……」
「お願い。頷いて」
「っ」
そのとき、扉が叩かれた。
「ファナ様、見張りがこちらに来ます」
口早に告げられたファンファーナは、焦ったようにハイラントに答えを迫った。
「ハイラントっ」
「俺は、」
「痛みを知り、優しさを知るあなただから、わたしは任せたいの」
ハイラントが口を開くよりも先に扉が開いた。
「ファナ様、ここを出ますよ」
「でも、」
まだ返事が、と言い終わる前に、セルヴィックに抱え上げられた。
ファンファーナがハイラントに顔を向けると、なにが起こったのかわからずに呆然としていた彼は、ハッと我に返ったようだった。
セルヴィックは窓を開け放つと、窓枠に足をかけた。
「ファナ、俺は……っ」
ひらりと宙を舞ったセルヴィック。
五階から躊躇なく飛び降りた彼の首にしっかりと手を回したファンファーナの耳に、ハイラントの答えが届いた。
風にかき消されてしまうほど小さなものだったが、ファンファーナにはよく聞こえた。
「セラ……ううん、セルヴィック」
「なんです?」
ファンファーナを抱えているとは思えない身軽さで、突き出た鉄柵の縁に足を付けて跳躍したセルヴィックは、軽やかに屋根を駆けていく。
「わたし、しっかりと前を見るわ」
「なにをいきなり」
ファンファーナが舌を噛んではいけないと思ったのか、セルヴィックが足を止めた。
「お父様が万能だとはもう思わない」
「……」
「神ではないのだから、見えない部分を見通すことはできない。小さな箱庭の中では、報告された内容の真偽を知る術はないってことよね。わたし、これまでなにを見てきたのかしら。なにを聞いていたのかしら。ずっと長い間、ファナとして過ごしていたのに、何一つとして気づかなかったわ。……違う。見て見ぬふりをしていたのかもしれない」
「姫様……」
「目を閉じて、耳を塞いで……父様はお祖父様と違うって思いたかったのね。きっと。……どうしてセルヴィックが悲しそうな目をしているの?」
「なにも知らないお前が憎かった。けれど、どうしてでしょうね。こうなるのを望んでいたはずなのに、私の心は晴れないなんて」
「……それは、セルヴィックが優しいからよ。大丈夫よ。どんなに失望したって、わたしは父様も兄様たちも大好きだもの。それはずっと変わらないわ。でも、だからこそ、もっと大好きでいたいの」