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雨後晴れのホラー短編集

灯りの見えるとこまで

作者: 雨後晴れ
掲載日:2026/10/14

 スマホが座卓の上でぶるっと震える。


 『三浦さん、休み中にごめん。来週の会議の資料、数字だけ差し替えといてもらえる?』


 有給とってひとり旅


……に来た私へ課長からチャットが届く。気がつけば私は箸を箸置きに戻し、親指で「はい」と打っている。送ってからここが東京から電車とバスで五時間の山あいの旅館であることを思い出すのだけれど、送った吹き出しはもう消えない。


 宿帳に三浦《みうら》 由佳《ゆか》、二十八歳と書いて泊まったこの宿は旧街道の上の宿にあって、門の脇に大杉が一本立っている。リュックを背負って玄関を出たついでにその杉をのけぞって見上げると、幹は朝の青空へまっすぐのびて、てっぺんは光にかすんで見えず、私は口を開けたまま、首の後ろが痛くなるまで見上げている。


 「夜の峠やったら、いまので連れていかれとるよ」


 箒(ほうき)を持った女将(おかみ)さんが門の内で笑っている。


 「峠の夜道にな、背ぇの高い旅の人が出はるんよ。高笠(たかがさ)さん、言うて。見上げて目ぇ合うたら、上へ連れていかれる。昔は朝になったら、杉のてっぺんに旅の人が引っかかっとったんやて」


 落ち葉を掃き寄せる手は止まらないから、天気の話と同じ調子で私もつられて笑う。


 「どうしたらいいんですか、出たら」


 「足もと照らして下だけ見て歩いとったらええの。明かりの中には足を入れはらへんから。せやけど一晩では済まへんよ、いっぺん憑(つ)いたら暗いとこ歩くたんびに来はる。せやから日ぃ暮れる前に下りてな」


 「はい」


 私はもう一度だけ大杉を見上げてから石畳の坂を上りはじめる。


   *


 昼に入ったそば屋の主人は、峠の茶屋に寄るなら源さんの甘酒を飲んでいけと勧めてくれた。


 街道が杉林に入る手前に笠掛け杉という木が立っている。幹に注連縄(しめなわ)が巻かれ、脇に色あせた説明板があって『夜に峠を越えた旅人が行方知れずになると、その笠がこの杉の高い枝に掛かっていたと伝えられる』とだけ書いてある。


 どの枝だろうと探すまでもなかった。私の背の三倍ほどの高さに横へ張りだした太い枝があって、そこに黒く朽ちた菅笠(すげがさ)が一つ引っかかっている。ほどけた顎紐の切れ端が枝の下でぶらりと垂れていて、あそこまで梯子(はしご)をかけた跡も足をかける枝も、幹のどこにも見あたらない。


 スマホで撮って指で広げる。笠の内側に白いものが何本か、髪の毛のように絡まっている。私は写真を閉じて杉林の石段へ入っていった。


   *


 まだ空が明るいのに、峠の茶屋の軒にはもう裸電球が灯っている。


 縁台の奥で太った背中を丸めたおじいさんがガラケーを耳に当てていた。


 「膝があかんのや。……堪忍な、じいちゃん行かれへん」


 電話の向こうから男の子の高い声が漏れてくる。


 『来週の土曜やで、宵宮(よいみや)やで。提灯(ちょうちん)持ってな、じいちゃんの前ぼく歩くねん』


 「お母ちゃんと行き。な、ええ子やさかい」


 電話を切ったあともおじいさんは折りたたんだガラケーをしばらく両手で包んでいて、それから私に気づくと目尻に皺(しわ)を寄せた。これが源さんで、ここで四十年茶屋をやっているという。


 甘酒の湯呑(ゆの)みが手のひらに熱い。飲み終えたころに源さんが急須で番茶を淹(い)れてくれて、私は朝の話をする。


 「高笠さんってほんとに出るんですか。上の宿の女将さんに脅かされちゃって」


 急須の口が私の湯呑みの上で止まる。湯気だけが細くのぼって番茶は一滴も落ちてこない。


 「泊まっていき」


 「奥に布団あるさかい。下の宿にはわしが電話したる」


 源さんは顎を胸につけるようにうつむいていて、急須を置くときも縁台を拭くときも、足もとと手もとしか見ていない。


 「でも下の宿に予約してて晩ごはんも頼んじゃってるし、いまからキャンセルしたら悪いですし」


 そう言いながら私は源さんの膝を見ている。電話で言っていた膝で、縁台から立つときに手で一度押さえていた。


 「それに源さん、膝が悪いんでしょう。大丈夫ですよまだ明るいし、言い伝えでしょう?」


 源さんは返事をしなかった。杉の向こうに目をやると峠の空が燃えるように赤くなっている。


 「源さん見て、杉の上が真っ赤」


 指さした私の横で源さんは顔を上げない。湯呑みを盆に重ねる手が、かちゃ、と一つ鳴る。


 「……わしはええ」


 それから長いこと源さんは盆の上の湯呑みを見ていて、やがて奥から懐中電灯を一本持って出てきた。


 「ほな送ったる。下の沢の橋まで」


 「えっ、いいですよ、膝」


 「下りは平気や。あんた前歩き。わしが後ろから足もと照らしたるさかい。下だけ見とき」


 「はい」


   *


 道しるべの石に二十と彫ってある。ここから数が減っていって、七の石が沢の橋だと源さんは歩きながら教えてくれる。


 軒の電球の明かりが背中から遠ざかると、杉林の中はもう夜だった。懐中電灯の丸い光が、私の足の少し先の苔(こけ)むした石段を一段ずつ白く浮かせていく。


 「この石段もな、わしが来たころはもっと角が立っとった。四十年でな、ずいぶん丸うなって……」


 源さんの声と、左の谷から聞こえていた沢の音が同時にふっと止んだ。


 スイッチを切ったような静けさの中で私の靴底が、じゃり、と石を踏む。


 ひた。


 濡れた素足で板の間を踏むような、やわらかくて重い音が後ろから一つ。


 私が石段を一つ、二つ、三つと下りるあいだにもう一つ、ひた。


 三歩に一歩、私の三段ぶんを一またぎで来る足だった。


 「源さん、いまの」


 「歩き」


 源さんの声はさっきよりずっと低い。


   *


 十八の石を過ぎたところで私は足を止める。後ろの、ひた、も止まる。


 私が一段下りると、ひた。


 また止まると何も来ない。耳の中で自分の脈が、とく、とく、と鳴るのを私は数えている。


 「……猿や」


 源さんがそう言ったとき、私の足もとを照らす光の輪が小刻みに揺れていた。光は一度も上を向かず、石段の苔と私の靴ばかりを照らしている。


   *


 十五の石のあたりで石段がまっすぐ長く下っていて、後ろからの光が私の影を前へ長くのばしている。


 その影の頭の先に、もっと細く長い影が一本のびていて、そのてっぺんに、まるい影がもう一つのっている。


 平べったくてふちの反ったまるい形で、笠だった。


 私が止まると笠の影も止まる。


 それは私の真後ろに立っている。


   *


 「止まり」


 十三の石の前で源さんが言った。


 かつん、と硬い音がして懐中電灯が石段の脇の平たい石に置かれる。光はもう私の先だけを細く照らすのをやめて、横倒しのまま地面に丸く広がった。


 その輪の縁に、脛(すね)が二本、立っている。


 私のすぐ右の半歩うしろ、光の届くぎりぎりの所で白い素足の指が濡れた苔をつかむように開いていて、くるぶしの上から細い脛がまっすぐのびている。骨の形が透けるほど白く、泥一つついていない。


 目だけを動かして脛をなぞっていくと、膝の皿が、ちょうど私の目の高さにある。


 膝の上は、暗い。


 白っぽい古い着物の裾が膝の上でぼんやり揺れていて、その先の暗がりの中に、私の三倍ほどの背丈のものが立っている。


 明かりの中に足は入れないと女将さんは言っていた。膝から上は、輪の外の暗がりを私の頭の上まで覆いかぶさるようにのびている。


 私は息を止めている。止めたまま、苔の上の自分の靴のつま先だけを見ている。源さんの息が後ろで、ひゅう、ひゅう、と細く鳴っている。


 白い膝が、こちらをのぞきこむように少し前へ傾いた。


 つむじに、ぽつり、と温いものが落ちた。


 雨ではなかった。温くて少しねばって、髪の分け目をつうっと伝って額のほうへ下りてくる。何かが、私の真上で垂らしている。


 ――何が?


 見上げようとした瞬間、後ろから太い手が私の頭をわしづかみにした。


 源さんの手はふるえていた。ふるえながら首の骨がきしむほど強く私の頭を下へ下へ押さえつける。額を伝ってきたしずくが鼻の頭からぽたりと苔に落ちる。


 「見たらあかん」


 源さんの声は泣きそうだった。


   *


 源さんが懐中電灯を拾いあげて、私たちはまた歩きだす。三歩に一つ、ひた、がついてくる。


 源さんの息がだんだん荒くなっていく。ぜい、ぜい、と喉が鳴る。膝が悪いのに、と思うと私は十の石の踊り場で足をゆるめて、源さんの横に並んで腕を貸そうとした。


 私の背中を源さんの手が、どん、と前へ押し戻す。


 「前や」


 「でも源さん」


 「前歩き。前や」


 押す手はさっき私の頭を押さえつけたのと同じ、ふるえる太い手だった。


 九、八、と石の数が減っていく。


   *


 杉林がふいに切れた。


 石段の下に沢の白い流れがあって、小さな石の橋が架かっている。橋のたもとに七と彫った石、そしてその向こうの暗い斜面に下の宿の玄関の灯りが、オレンジ色にぽつんと見えている。


 あんなに近いと思ったら膝から力が抜けそうになる。


 「ここまでや」


 源さんが懐中電灯を私の手に握らせた。柄が源さんの手の汗で湿って温い。


 「灯りが見えとるさかい。もう大丈夫や」


 「源さん、帰りは?」


 「慣れとる。わしは四十年、この道や」


 源さんはそう言って私に背を向け、明かりも持たずに暗い石段を上りはじめた。ずん、ずん、と重い長靴の音が杉林の奥へ上っていく。


 あの道を、あの膝で、ひとりで。あれがいる道を、明かりなしで。


 私は懐中電灯を握りしめたまま源さんの方向を照らしている。


 ずん、ずん、と長靴の音は、だんだん遠く、小さくなっていく。


 ひた、は、ついていかない。


 沢の音が、また消えた。


 こつん。


 私の後ろ頭に、固くて薄いものが当たる。乾いた、編んだ草のふちの感じで、それが笠のふちだと私には分かる。


   *


 振り向いた。


 懐中電灯の光が石段を舐(な)めるように上っていって、十段ほど上で源さんの長靴を照らす。源さんは上ってはいなかった。こちらを向いて顔がぐしゃぐしゃに濡れていた。泣いているのに口もとがゆるんで肩から力が抜けて、長いこと背負っていた荷物を下ろした人のように、ほっとした顔をしている。


 その光の縁の上の暗がりから、何かが下りてくる。


 白くて細い首が、するする、するすると、縄を繰りだすようにのびて、その先に古い笠をかぶった顔がついている。顔は私の目の高さまで下りてきて止まった。


 白くて長い顔だった。笠の陰で額は見えず、頬から顎までが馬の顔のように長くのびて、肌は濡れた和紙のように白い。その口の両端が、きゅうっと、耳のほうまで持ちあがる。


 笑っていた。


 細い目が私を見て、それからすうっと上を見る。


 上を。上を。「見てごらん、きれいだから」と言うように、黒目だけが何度も、何度も、上の暗がりへ私を誘う。


 私は自分の靴を見る。顎がふるえて、歯がかちかちと鳴る。


 「高笠さんはな」


 源さんの声が上から降ってきた。


 「前を歩くもんに、憑かはるんや」


 私は顔を上げられない。光の中の源さんの長靴だけを見ている。


 「わしも四十年前、ここの爺さんに「前歩き」言われてな。それから夜はいっぺんも上、見てへん」


 長靴が一歩、石段を上る。


 「孫がな。宵宮で提灯持って、じいちゃんの前歩くって言うんや」


 声がそこで詰まった。


 「泊まってってくれたら、よかったんや。……堪忍な」


 光の端で源さんが顔を上げるのが見えた。石段のずっと上に小さく灯っている茶屋の軒の電球を、源さんは見上げていた。四十年ぶりに夜を見上げる人の顔で、それから源さんは明かりも持たずに暗い石段を、軽い足どりで上っていった。


 長靴の音が聞こえなくなる。


 私の目の前で、白い長い顔がまだ笑っている。


   *


 下の宿の玄関で若い番頭さんが「三浦様、暗かったでしょう」と迎えてくれたとき、私は下を向いたまま「はい」と言った。番頭さんは私の頭の上のあたりを見ないように目を伏せていた。玄関の灯りの中には、ひた、は入ってこなかった。戸の外で朝日までひとつも音を立てなかった。


   *


 東京の駅からアパートまでは歩いて十二分ある。


 街灯と街灯のあいだに暗がりがあって、そこに入るたびに車の音も、コンビニのチャイムも、どこかの家のテレビの笑い声もふっと止む。そして三歩に一つ、ひた、と濡れた音がついてくる。


 私はスマホのライトで足もとだけを照らして、アスファルトの白線と自分のパンプスのつま先だけを見て歩く。


 部屋は二階で、窓には遮光のカーテンを引いている。カーテンのすきまの上のほう、ちょうど私の背では手の届かないあたりに、夜になると笠のふちがかかっている。黒く編み目の粗い、反ったふちがガラスの向こうでじっとしている。


 私は夜空をもう見ない。しし座流星群が見えるらしいと課長がチャットに書いてきた晩も「はい」とだけ返して、部屋の床を見ていた。四十年、と源さんは言っていた。二十八に四十を足しかけて、私はそこでやめる。


   *


 「宮下さん、駅まで一緒に帰ろうか」


 残業の終わった十時すぎ、今年入った宮下《みやした》 莉子《りこ》さんはパソコンを閉じながら「はい」と言う。

 会社の裏の道は街灯がまばらで暗い。


 「前、歩いてくれる? 私、後ろから足もと照らすから」


 宮下さんが前に出て、私はスマホのライトを彼女のスニーカーの少し先に向ける。光が彼女の影をアスファルトの上に長くのばす。


 ひた


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