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七日だけの島  作者: カトーSOS


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第1話 到着

挿絵(By みてみん)



平日の朝の駅というのは、どこも同じ顔をしている。


 改札の前には、人の流れがある。スーツ姿、制服姿、肩から鞄を下げた学生、片手にスマホを持ったまま早足で抜けていく会社員。誰も彼も、いまから向かう場所が決まっている顔をしていた。


 立ち止まっている人間は、ほとんどいない。改札を抜ける者も、階段を下りる者も、ホームへ急ぐ者も、それぞれの朝をもう始めている。


 湊直人は、その流れの端に立っていた。


 別に遅刻しそうなわけではない。急ぐ理由もない。目の前の電光掲示板を見上げ、スマホの乗換案内と見比べる。何番線に来るのか、どこで乗り換えるのか、次は何分後なのか。昔なら少しは迷ったのかもしれないが、いまは全部スマホが教えてくれる。


 道は分かる。


 乗り換えも分かる。


 現在地も分かる。


 けれど、自分が何をしに行くのかは、いまいちはっきりしていなかった。


 目的地はある。時間も分かっている。道順も、乗り換えも、到着時刻まで出ている。それなのに、その先で自分が何をするのかだけが妙に曖昧だった。


 いや、分かってはいる。友人のところに遊びに行くのだ。小豆島にいる友人のところへ、一週間ほど泊まりに行く。それだけの話だ。


 それだけの話なのだが、その「それだけ」が、妙に今の自分を表している気がして、直人は少しだけ口の端をゆがめた。


 大学生活は一年遅れていた。


 二年の終わりに必修を二単位だけ落として、専門課程に進むのがずれた。そのせいで、今もまだ学生をやっている。


 本来なら、もう社会人になっているはずだった。


 友人のところに行くので来週は休みます、とゼミの先生に言ったときも、先生は「ああ、そう」としか言わなかった。止められもしなかったし、特に心配もされなかった。直人自身も、それで困ることは何もなかった。


 ホームに電車が入ってくる。


 人の流れが一斉に前へ動いた。直人も遅れないように乗り込む。やることがない人間でも、電車に乗るくらいは普通にできる。


 窓の外を流れていく街を見ながら、直人は思う。


 自分は、何も選んでいない。


 何も選んでいないのに、時間だけは過ぎている。


 それでも別に困っても、病んでも、何かに絶望しているわけでもない。ただ、空いてしまった時間に、ぽっかりと自分だけが浮いているような気がするだけだった。


 ただ足がついていない感じだけがある。その曖昧さが、いまの自分を説明するにはいちばん近かった。


 その浮いた時間を埋めるようにして、直人は電車を乗り継いだ。


 在来線をいくつか乗り継ぎ、港へ向かう。駅を離れるにつれて車内の人も減っていく。途中までは同じようなスーツ姿の男たちがいたが、それもいつの間にか少なくなって、最後の方には旅行客らしき夫婦と、買い物帰りの老人がぽつぽつ座っているだけになっていた。


 港に着いたとき、空は白っぽかった。


 晴れてはいるが、真っ青ではない。光がどこか柔らかく、海面だけが妙に強く光って見えた。フェリー乗り場には、それなりに人がいた。観光客らしい一団もいれば、地元の人間らしい無愛想な顔もある。行き来の境目という感じだった。


 海沿いの光は、街の中で見る光と少し違う。輪郭がぼやけているのに、明るさだけは強い。人の顔より先に、地面や手すりや海面の反射が目に入るような、そんな光だった。


 直人は乗船口を抜け、フェリーの中へ入る。


 船の匂いと、海の匂いが混ざっていた。デッキに出ると、風が強い。湿り気のある風だった。潮の匂いがする。都会の風とは違う。湿っているのに、どこか乾いているような、不思議な手触りがあった。


 直人は手すりに寄りかかり、海を見た。


 遠くを見る理由はない。景色に強い感動を覚える性格でもない。けれど、ただぼんやりと海を見ていられるくらいには、時間があった。


 時間がある、というのは便利なようでいて、案外持て余す。何かをしようと思えばできるのに、何もしなくても困らない。その中途半端さごと海の向こうへ運ばれていくような気がして、直人は手すりから手を離した。


 小豆島。


 友人の井原恒一がそこに就職したと聞いたとき、直人は少し驚いた。大学時代、恒一は農学部でバイオテクノロジーだの発酵だのをやっていた。微生物だ、酵母だと、そんな話をしていたのを思い出す。理工学部の数学科にいた直人とは、授業の中身も、将来の話も、全部違っていた。


 それでも同じ合気道部にいて、気を使わない友人だった。


 毎日つるむわけではない。腹を割って何でも話す、というほどでもない。けれど、一緒にいて妙に疲れない。恒一はそういう種類の友人だった。


 その恒一が、小豆島の醤油蔵に就職した。


 最初に聞いたときは、ずいぶん渋いところに行ったな、と思ったくらいだった。だが今こうして船に乗っていると、それもなんとなく現実味を帯びてくる。


 船が着き、直人は再びバスに乗った。


 島のバスは、街のバスより静かだった。人が少ないからかもしれないし、乗っている人間の年齢が高いからかもしれない。運転手の声だけが小さく響いて、あとは窓の外の風景が流れていく。見えるのは低い建物と、駐車場と、軽自動車ばかりだった。


 軽自動車が多いな、と直人は思う。


 別にそれ自体に意味はない。だが、見慣れた街と違うものは、そういう細かいところから目に入る。


 店も少ない。閉まっているのか、最初から開いていないのか分からないような小さな建物が道路沿いに並んでいる。寂れているというより、ただそれが普通なのだろうという感じだった。人の流れがないのに、生活の気配はある。そんな土地だった。


 賑やかではない。便利でもなさそうだ。けれど、ちゃんと誰かがここで朝を迎えて、昼を食べて、夜になれば帰っていくのだろうという感じだけは、道路の端や建物の古さから伝わってきた。


 バスを降りたところで、直人はスマホを取り出し、恒一に電話をかけた。


 数回のコールのあと、すぐに繋がる。


「もしもし」


 後ろで何か機械の音がしていた。恒一の声も少し遠い。


「着いたけど」


「ああ、悪い。まだ仕事中」


「どこ行けばいい?」


「アパート分かる?」


「たぶん地図見れば」


「じゃあ、ガスメーターのとこに鍵入れてあるから、勝手に入っといて」


「不用心だな」


「この辺そんなもんだよ」


 そう言って、恒一は少しだけ笑ったようだった。それからすぐに続ける。


「あと、会社来れる?」


「今から?」


「うん。まかないあるから。よかったら一緒に食べようって社長が言ってた。この辺、食うとこ少ないし」


 社長、という言葉に、直人は少しだけ眉を上げた。


「俺、いきなり行っていいの?」


「いいって。俺、友達来るって言ってあるし。気ぃ使わなくていいから」


「気ぃ使うだろ、普通」


「使わなくていいって」


 向こうで誰かに呼ばれたらしく、恒一の声が少し離れる。


「悪い、じゃ、先入って荷物置いたら来て。場所分かるだろ」


「まあ、たぶん」


「じゃあ後で」


 電話はそこで切れた。


 直人はスマホを見下ろし、ため息でもなく、小さく息を吐いた。


 ガスメーターに鍵。まかない。社長の厚意。


 都会なら少し身構えるようなことが、ここでは当たり前みたいに出てくる。


 いちいち警戒していたら暮らしが回らないのかもしれない。そう思うと、ガスメーターの中の鍵ひとつにも、この土地の時間の流れ方が出ている気がした。


 言われた通り地図アプリを見ながら歩く。アパートは会社の近くらしい。少し歩くと、二階建ての古いアパートが見えた。外階段があって、駐車場には軽自動車が数台停まっている。なるほど、と思いながらガスメーターを開けると、本当に鍵が入っていた。


「あるんだ……」


 思わず口に出る。


 鍵を取り出して部屋を開ける。中は思っていたより整っていた。男の一人暮らしにしては、というべきかもしれない。物は少なく、床も散らかっていない。机の上には書類があり、端にペンが揃えて置かれている。壁際には作業着が掛けてあった。


 生活している部屋だ、と直人は思った。


 毎日ここで起きて、働きに出て、また帰ってくる人間の部屋だ。机の上の書類も、壁際の作業着も、そのことを黙って示していた。


 荷物を置き、靴を脱ぎ、しばらく立ったまま部屋を見回す。


 冷蔵庫。電気ケトル。安いテーブル。洗濯物。ベッド。全部が必要なものだけで出来ている感じだった。


 直人はとりあえず床に置いたバッグを開け、適当に荷物を出しかけてやめた。今やっても仕方がない気がした。部屋にいる理由がない。だからといって、特別やることがあるわけでもない。


 そういう感覚が、自分の一番よくないところなのかもしれない、とふと思う。


 部屋に着いても、落ち着くより先に「次はどうする」と考えてしまう。何かを始める前から、そこに長くいる理由を失ってしまう。そういうところが、自分でも少し面倒だった。


 だが考えたところで何か変わるわけではない。直人は再び鍵をかけ、恒一の勤め先へ向かった。


 歩くと、すぐに醤油の匂いがした。


 最初は気のせいかと思った。だが、少し進むごとにその匂いははっきりしてくる。海の匂いとは違う。塩気ではなく、発酵した深い匂い。木と液体が長く一緒にいたみたいな匂いだった。


 株式会社橘醤油醸造所。


 看板は思っていたより普通だった。古めかしい観光施設のような派手さはない。会社としてそこにある、という感じだ。建物の一部は古く、一部は後から増設したようにも見える。工場と蔵と事務所が、用途ごとに少しずつ姿を変えながら、ひとつの敷地の中にまとまっていた。


 観光向けに整えた顔ではない。見せるためより、使うために建っている建物だ。それが逆に、ここが本当に恒一の働いている場所なのだと分からせた。


 中に入ると、人の気配と機械の気配が混ざっていた。


 誰かが声をかけてくるわけではない。だがよそ者が珍しいのか、視線だけがいくつか向く。直人が少し立ち止まっていると、奥から恒一が出てきた。


「お、来たか」


 作業着姿だった。腕まくりをしていて、大学時代より少し痩せたようにも見える。顔つきも、ほんの少しだけ変わっていた。ただ、時間の使い方が決まっている人間の顔になっている。


 大学で見ていたときより、声をかける隙が少ない。話せばたぶん同じなのに、立っている場所が違うだけで、相手の輪郭まで少し変わって見えた。


「すげえ匂いするな」


「慣れるよ」


「慣れたくはないかも」


 そう言うと、恒一は笑った。


「こっち」


 案内されていくと、作業場の脇のようなところに長机が並んでいた。すでに何人かが食事の準備をしている。大きな鍋、皿、湯気。いかにも“まかない”という感じの風景だった。


「こいつ、大学の友達です」


 恒一がそう言うと、年配の男が「ああ」とうなずいた。別の誰かが、「この辺、食べるとこ少ないからな」と言った。さらに奥から、五十代くらいの男が出てくる。背筋が伸びていて、柔らかく笑っていた。


「井原君の友達?」


「はい。急にすみません」


「いやいや。遠くから来たんだろう。前もって聞いてたから、よかったら食べてって」


 この人が社長だろう、と直人はすぐに分かった。


 押しつけがましくないのに、場の中心にいる感じがある。恒一が働いている理由の一部が、その短いやりとりだけで少し分かる気がした。


 人をその場に自然に入れてしまう感じがある。恒一がここでやっていけているのは、たぶんそういう空気も大きいのだろう。


「ありがとうございます」


「若い子が来ると場が明るくなるよ」


 社長はそう言って、先に席に戻っていった。


 直人は少しだけ面食らいながらも、出された椀を受け取った。白飯に味噌汁、簡単なおかず。派手ではないが、ちゃんとした昼飯だった。


 恒一の隣に座る。


「ほんとに用意されてたんだな」


「だから言ったろ」


「お前、ここでちゃんと働いてんだな」


「何だと思ってたんだよ」


「いや、何か、大学の延長みたいな感じかと」


「延長で醤油は作れねえよ」


 その言い方が少しおかしくて、直人は笑った。


 食事の最中、周りの話題は自然と仕事のことが多くなる。温度がどうだ、仕込みがどうだ、電話がどうだ。直人には分からない単語も混ざる。恒一はそれに普通に相槌を打ち、ときどき短く返していた。大学で見ていた恒一と同じ声なのに、いる場所が違うだけでこんなにも違って見えるのかと思う。


 こちらが勝手に、学生のままの恒一を想像していたのかもしれない。同じ年齢で、同じように卒業するつもりでいた相手が、もう自分とは別の場所の時間を生きている。そのことが、直人には少しだけ眩しかった。


 直人はただ食べるだけだった。


 別に居心地が悪いわけではない。だが、自分にはここでやることが何もないことだけは、はっきり分かった。


 そのときだった。


 少し離れたところに立っている若い女が、直人の視界に入った。


 高校を出たばかりくらいだろうか。作業着ではないが、場に浮いているわけでもない。不思議な立ち位置だった。誰かの手伝いをしているようにも見えるし、ただそこにいるだけにも見える。


 彼女は、こちらを見ていた。


 見たことのない人間がいる。


 そんな顔をしていた。


 直人の方は特に気にしなかった。視線が合うほど長くは見ていない。ただ、何となく人がいると分かる程度で、すぐに手元の味噌汁に意識が戻る。


 恒一も気づかない。


 その若い女だけが、先に直人を見つけていた。


「お嬢、こっち危ないです」


 どこかで声がした。


 若い女がわずかに振り返る。


 お嬢。


 その呼ばれ方だけが耳に残る。場の空気を少しだけ変える言葉だった。


 だが直人は、その言葉の意味を深く考えなかった。工場に若い女がいて、誰かがそう呼んだ。それだけだ。


 食事はそのまま続いた。


 恒一は忙しそうに箸を動かし、途中で立って呼ばれ、また戻ってくる。直人はその様子をぼんやり見ながら飯を食う。自分は一週間ここにいる予定だというのに、まだ何ひとつ始まっていない気がした。


 それでよかった。


 というより、今はまだ、それ以上何も起きない方が自然だった。


 昼の光が、蔵の壁に薄く差している。


 小豆島に来た。


 恒一は働いている。


 自分はまだ、ただ来ただけだ。


 その時点では、それで十分だった。


 そしてどこかで、さっきの若い女がもう一度こちらを見た気がしたが、直人は振り向かなかった。

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