絶望的な正解と、希望を装った間違い
致命的に間違えた。
その確信は、嫌な静けさと共に腹の底に沈んだ。
理由は、放課後に理解させられる。
あの後、わたしは顔についた泥を洗い落とし、何事もなかったように教室へ戻った。
喉は焼けるように痛み、声を出すたびに鋭い刃で切られるようだったが、それを悟られぬよう笑みを貼り付け、友人たちの視線をやり過ごした。
けれど、それはただ隠しているだけだ。事態が好転することは無いし、むしろ後回しにしたという点では悪化しているだろう。
その証拠に。
『放課後、屋上で』
否を言わさない強制力のある言葉がわたしのスマホに届いた。
いつもの歪んだ愛情を注いでくる紅葉なのか、あの昼休みに見せた狂気に溺れて染まってしまった紅葉なのか。今の紅葉はどっちなんだろう? この通知だけでは判断出来ない。
そして、良くも悪くもわたしは正気に近づいていた。あの狂気を見てしまった以上、今までと同じように彼女の愛に溺れることは出来なくなってしまったからだ。
これが良いことなのか悪いことなのかは、今のわたしでは判断出来ない。正気に近づくという点では良いことではある。けど、正気ではなかったからこそ、耐えることができたと言う側面も存在する。
(これから、わたしはどうするべきなんだろう? たぶん、ここが最後だ。ここで間違えてしまったら、もう二度と引き返せない)
わたしは脅されている。それは、クラスメイトたちの秘密や、わたしの知られたくない姿の写真などのことだ。しかし、それは絶対に逃げられないと言うことでは無い。多大な対価を払うことになるが、逃げることは可能ではある。
だから、逃げるなら今しか無かった。
(どうしよう? どうするべきなんだろう? わたしは、もうしたいんだろう?)
わたしは、必死に考えた。もし、紅葉が常にあの狂気に染まっていたのなら、本当の意味でわたしは壊れてしまう。……それは、紅葉との依存関係に戻ると言うことではなく、正真正銘学校に来れなくなるような壊れ方を。
でも、わたしの頭の中には、あの時に見た手首の傷が浮かんでいた。あんなところに傷がある理由はたった一つしか予想できず、彼女が追い込まれていることを示している。
紅葉は、わたしをいじめている。それについては否定できないけど、たった一日の……高校で初めての友達だったから彼女を切り捨てることは、わたしには出来ながった。
(……よし、ちゃんと紅葉に向き合おう。何で、わたしをいじめているのか。何で、わたしの友達ではなくなったのか。……何に、紅葉が追い込まれているのだろうか)
そうして、わたしは決心して屋上へと歩みを進めた。
この選択がどうなるのかは分からないし、親友を傷つけてしまったわたしが、こんなことをしようとするのは間違っているかもしれない。
けれど、わたしは決めたんだ。理想を……紅葉と向き合って、恵に謝罪して、入学式の日のように、またみんなと笑える未来を追い求めるって。
「神崎さん……」
「あ、やっときてくれた。ずっと待ってたよ」
秋と冬の境目。風が冷たく肌を刺してくる屋上で、わたしと紅葉は向かい合う。
距離は三歩。多少離れているとは言え、一瞬で詰めることができる距離。その短い距離を挟んで、わたしたちは見つめ合った。
「今日の昼休みのことは、本当にごめんね。あんなこと、私はするつもりがなかったから、これからもどうか私に愛されてほしい」
紅葉が、わざわざそんなことを口にする。わたしを脅す材料はいくらでも持っているはずなのに、そんなことを口にすると言うことは、紅葉なりに、もうしわけないという気持ちを表しているのだろう。
でも、それは紅葉なりの誠意だ。他人から見たら、到底誠意と言えるようなものでは無い。
「……」
「あれ? やっぱり怒っているのかな? まぁ、優しい美羽でも、あんなことをされたら怒るよね……。うん、本当にごめんよ」
このまま、紅葉の謝罪を受け入れたらどうなるんだろう? ……うん、それはきっと、今までと同じだ。あの甘くて優しい毒の中で溺れてしまう。それはとても楽なことではあるんだけど、わたしはその悦楽を受け入れないと決めたんだ。
「ねぇ」
覚悟を決める。もう二度と、後悔しないために。
「神崎さん……いや、紅葉はなんで、わたしのことをいじめるの?」
そう言うと、紅葉を首を少しだけ傾けて答えた。
「前にも言ったと思うけど……あれ? なんて言ったんだっけ? 忘れちゃった。まぁいいや、美羽のことを愛したいからという理由でいいかな?」
ほら、紅葉はこんなことを言う。……言い方は悪いけど、彼女は何らかの原因があって狂ってしまっているんだろう。その原因が、彼女をこのように変えてしまった。だから、わたしはその原因を解決して、元の紅葉に戻したいんだ。
「……質問を変えるよ。紅葉の手首の傷は何?」
紅葉の笑みが消え、声が低く震えた。
「やめて。……また昼休みのようなことをさせたいの?」
「それなら、質問を変えるよ。初めて会った日に何かあったの?」
「もう、やめて。何でそんなことを聞くの?」
紅葉の肩がわずかに震え、笑みは完全に消えていた。
でも、やめない。
「だって、わたしたちは友達だったはずでしょ。だから、また元の関係に戻りたいんだ」
「……いじめてる側と、いじめられた側だよ」
紅葉の声は冷たかったけれど、わたしにはその奥に震えが見えた。
だからこそ、救いたいと思った。
「ほら、紅葉が言うには、わたしって優しいらしいからさ。その程度のこと気にしないよ」
…………………………でも。わたしは紅葉のことを何も知らなかった。
これまでの言葉が、紅葉にとって、どれほどの地雷だったのか。今まで互いの過去に触れてこなかったからこそ、気付くはずも無かったんだ。
「……どうして、美羽は……。なのに、私は……」
「紅葉?」
紅葉が何かを呟いているが、声が小さすぎて、何を話しているのかわからない。
けれど、紅葉の纏う雰囲気から、ただならぬ気配を感じ、今の言葉は紅葉にとって許容出来ないものだったことを理解させられる。
――その予感は、絶望的に正しかった。
「え?」
紅葉の動きは、とても速かった。
三歩しかなかった距離を一瞬で詰められ、口を片手で押さえつけられる。
顎に走る圧力で視界が揺れ、呼吸が詰まった。
「ねぇ、美羽」
いつもと同じような言葉。けれど、そこには優しさが無く、背筋が凍るような冷たさだけが存在していた。
「なんで、美羽のくせに、こんな生意気なことを言うのかな?」
じわじわと顎を掴む力が強くなっていく。
けれど、紅葉の目には楽しさなんてものは一つも無い。彼女の目の奥にある物は、狂気と殺意のような物であり、今までとは意図が全く異なる暴力だった。
「ああ、そうか。こんな美羽は、美羽じゃないんだ。一回、徹底的に壊して、直さないと」
無意識のうちに、身体が後ろに下がる。けれど、口を掴まれているせいで少ししか離れることが出来ず、紅葉の暴力から逃れることが出来ない。
また、何とか逃れようとして、紅葉の腕を掴んでいるけど、鉄のように動く気配がしない。紅葉の腕は、わたしの腕よりも細くて力が無いはずなのに、どこからこんな力が湧いてくるのだろうか。
次の瞬間、腹部に鋭い衝撃が走った。視線を落とすと、紅葉の膝が折り畳まれ、わたしの腹を抉っていた。
焼けるような痛みが胃を灼き、脳へ突き抜ける。呼吸は途切れ途切れに痙攣し、膝が折れ、足先から力が抜け落ちる。
最後に残った意志も潰え、わたしの身体は重力に引かれるように地面へ沈んだ。
「くれ、は……」
紅葉はわたしを見下ろし、冷たい声で囁いた。
「美羽、君はどうしたら効率よく壊れてくれる? 望みの壊れ方を、自分の口で言ってみて」
そんなの、あるはずがない。自分から進んで壊れようとする人なんて、滅多にいないはずだ。
「話しなよ、私が待っているんだからさ」
紅葉が、わたしの髪を握って無理やり顔を上げさせる。
そこには、わたしへの気遣いなんてものは無くて、ただ冷たい支配の光だけが宿っていた。
紅葉の指が髪を引き裂くように食い込み、首筋に痛みが走る。視線を逸らそうとしても、強引に絡め取られて逃げ場はない。
「ああ、そういうこと。やっぱり美羽は優しいね。私に選択権をくれるなんて。なら、こうしようかな」
そうして、紅葉は近くにあった自分の鞄から、ハサミを取り出した。
そのハサミは、夕日を反射して、オレンジ色に光り輝き、まるで儀式の刃のように神聖さと残酷さを同時に帯びていた。
紅葉の指先がゆっくりと刃を開閉するたび、金属音が乾いた空気を切り裂き、わたしの鼓動をさらに速める。
「美羽、危ないから動かないでよ」
紅葉は、そのハサミをピンと伸びたわたしの髪に当てていく。冷たい刃が髪に触れた瞬間、背筋を氷のような感覚が走り抜けた。
わずかな震えが髪を伝い、金属の冷たさが頭皮へと迫ってくる。
「や、やめてっ!」
「やめないよ。美羽が壊れて、元に戻るまでは」
シャキンっと、金属同士が擦れる音が、夕暮れの屋上に響いた。わたしの体から離れ、宿主を失った髪たちが上からパラパラと舞い降り、冷たい風に吹き飛ばされる。
肩のほんの少しまで伸びていた髪は、今では不揃いに短くなり、風に散らされた残骸だけが周囲に漂っていた。
指先で触れると、ざらついた切り口が痛々しく、まるで自分の一部を奪われたような感覚が広がる。
「ほら、似合うじゃない。美羽はこうやって少しずつ直していけばいいんだよ」
紅葉は、わたしの姿を見て、満足したように笑っている。それは決して嘲笑などでは無く、本当に似合うと思って笑っている。……それは、彼女が狂ってしまっている証だ。
「なん、で……こんな。ことを……?」
かすれた声で問いかけるわたしを、紅葉は嬉しそうに見下ろした。
「だから元に戻すためだって。昨日までのような、私の言うことだけを聞いてた美羽にさ」
そうして、紅葉は立ち上がり、自分の鞄を持って階段の方へ歩いていく。
「今日は、これまで。明日も続けていくから、さっさと壊れてね」
紅葉の姿が屋上から消える。わたしは、風に散らされた髪の欠片と共に、ただ取り残されていた。
夕日の赤は痛みの残る頭皮を照らし、切り口のざらつきが指先に触れるたび、胸の奥まで冷たさが広がる。
壊される。明日も、明後日も。その言葉が頭の中で反響し、逃げ場のない檻のように心を締め付ける。
どうしてこうなったのか。何を間違えたのか。わたしには、到底わからない。
わたしは膝を抱え、声にならない息を吐き出した。




