狂気
あの日から、しばらく日々が過ぎていった。
恵と話すことは、あれ以来一度も無く、色んな友達に囲まれていても、心の奥は空洞のままだった。
最初の内は、先生や友達がわたしと恵が話そうともしないことに疑問を抱き、何度も質問してきたが、今ではその状況に慣れてしまい、誰も口出しすることは無かった。
そして……。
「いいね、その調子だよ」
わたしは今もなお、紅葉にいじめられていた。
でも、今では自分からそれを求めてしまっている。
いじめられるということは、彼女から愛されているということであり、親友を失ったわたしにとっては、それが数少ない繋がりの一つであり、痛みの中でしか、わたしはわたし自身をさらけ出すことが出来なかったから。
「じゃ、次はこれ……ほうれん草の根元。栄養があるから、ちゃんと食べなよ?」
「あははっ! ほんと、ペットみたい。人間がされる仕打ちじゃないよ!」
わたしは、四つん這いになって紅葉から食べ物――餌を貰っていた。
もちろん、ほうれん草に味などなく、ただ茹でただけで青臭さが残っているし、その屈辱的な姿は、紅葉の取り巻きたちのスマホによって映像として記録されていた。
「本当に、美羽は可愛いね。ペットとして飼ってあげたいくらい。……はい、次の餌だよ」
「ははっ、こんなことをされても笑顔をやめないなんて、本当に狂ってるよ」
たぶん、それは間違ってなどいないのだろう。
紅葉からいじめられる日々の中で、わたしは本当に狂い、彼女に向かって堕ちていった。それは、変えられようもない事実であり、客観的に見ても、主観的に見ても、わたしはもう紅葉のものだった。
「……うっ」
まだ土の匂いが抜けきらないほうれん草のせいで、胃の中が逆流しかけ、表情が歪みそうになる。
けれど、紅葉の前で笑顔を崩せば、どんな仕打ちを受けるのか――それは、この日々の中で痛いほど理解していた。
だから、わたしには笑顔を張り付ける以外に、自分を守る術は残されていない。
「ははっ、本当に美羽はいい子だね。ほら、ご褒美だよ」
紅葉はそう言って、わたしの顎を撫でてくる。
それは、わたしのことを完全に人間として見ていないという証であり、ただの玩具として扱われていることの証明でもあった。
けれど、わたしはそれに悦びを感じてしまっている。
親友を失ってしまったわたしにとって、紅葉のいじめはそれほどまでに甘かった。
「よし、餌やりはこれで終わり。次は、何をしようか?」
紅葉の声は、まるで遊びを続ける子供のように軽い。
けれど、その軽さが逆に恐ろしかった。
「……次?」
わたしは笑顔を崩さないまま、問い返す。
「うん、そうだね……あっ、こんなのもいいんじゃない?」
紅葉はそう言って、足元に手を伸ばす。
この日の地面は、昨日の雨のせいで、ちょっとだけぬかるんできて、靴底が沈むたびにぐじゅりと音を立てた。
紅葉は泥を指先ですくい上げると、わざとらしく笑みを浮かべる。
「ほら、美羽は可愛い女の子なんだから、ちゃんと化粧をしないと」
紅葉が、救い上げた泥をわたしの顔にこすりつける。
冷たい泥が頬を伝い、口元にまで広がっていき、ざらついた感触と土の匂いが、わたしの呼吸を塞ぎ込むようだった。
「あははっ! なんて醜い顔! ほんと、いい気味だよ!」
「それな! この顔をSNSにあげると、どんな反応が来るんだろうね!」
紅葉の取り巻きたちは、わたしの姿を見て、そんなことを口にしていた。
スマホのレンズがこちらを向き、シャッター音が連続して響く。 いじめは隠されるべきものだから、SNSに拡散されることはないだろう。
それでも、今のわたしの顔が記録に残ったことは、紛れもない事実だった。
「うーん、化粧ってどうやるかわからないな。あまりうまくできない……」
紅葉は、そんなことを呟きながら、わたしの顔に着いた泥を指先で広げていく。
まるで化粧を施すかのように、泥を塗り重ねるその仕草は、わたしを人間ではなく玩具として扱っている証だった。
「よし、これで終わり。美羽の良さを引き出しているんじゃない?」
その言葉と一緒に、わたしは紅葉の取り巻きたちの嘲笑に包まれた。
ここには鏡が無くて、今のわたしがどんな顔になっているのか分からないけど、きっと酷い顔になっているのだろう。その顔を笑いの種にしている取り巻きたちに怒りが湧かないのかと聞かれると、怒りがわかないとは決して言えないけど、紅葉がせっかくしてくれた化粧を、今すぐに落としたいとは思えなかった。
(ほんと、わたしは駄目なところまで来てしまったんだね……)
泥に塗られた顔を笑いの種にされながら、それでも紅葉の手を拒めない。その事実が、何よりも惨めだった。
ただ、その事実を認識していたとしても、まだ紅葉に抗うことが出来ない。それは、恵を傷つけてしまった罪悪感に、紅葉が上手く漬け込んだからという理由もあるし、それに加えて、何故か紅葉と話していると安心感を感じるからだ。
(この安心感は、何なのだろう?)
最初は、紅葉のいじめに慣れてしまったからだと思っていた。けれど、思い返してみれば、最初にいじめられた時から、心の片隅に安心感のようなものがあったのだ。
そのころは、緊張や恐怖に押しつぶされて気づけなかったけれど、今思い返してみれば、最初から確かに安心感のようなものがあったのだ。
その理由に心当たりはなく、それが少しだけ不気味に思えた。
「まだまだ次の授業まで時間があるね。次は、何をしようか?」
紅葉が、わたしの頬を優しく撫でながら、そんなことを呟いていた。優しい仕草、でも……それは、純粋な優しさとかじゃなくて、支配した物に対する、愛玩のようなものなのだろう。
ただ、この時……わたしは、致命的なミスをした。このミスが無ければ、わたしたちは互いに依存し合い、堕ちるところまで堕ちてしまったのだろう。
でも、そんな未来が来ることは無かった。
「傷……?」
わたしは、見てしまったんだ。紅葉の手首についている、何かで切ったような傷の跡を。
そして、わたしの小さな呟きを紅葉が聞いた瞬間、彼女は目の色を変えて、わたしの首を握り絞めた。
「神崎! やりすぎだ!」
「そうだよ! それはヤバすぎるって!」
それを見て、紅葉の取り巻きたちは必死に紅葉を止める。
しかし、その間も紅葉の指が首に食い込み、呼吸が奪われていく。取り巻きたちの声が遠くに聞こえ、視界が霞み揺らいでいった。
そして、その中で唯一見ることが出来たのは、紅葉の目の奥にある、どす黒い狂気だけ。
紅葉の目の奥に潜むどす黒い狂気だけが、霞む視界の中で鮮明に焼き付く。その狂気に見下ろされながら、わたしは自分の命が彼女の指先ひとつに委ねられていることを痛感した。
「あっ……」
「ごほっ、ごほっ……!」
そうして、ようやく紅葉がわたしの首から手を離す。焼けるように痛む喉に、新鮮な空気が染み込んで、冷たい刃のように切り裂いていく。
でも、そんなことは気にならなかった。傷を指摘した瞬間に見せた、紅葉の中に潜む狂気。それだけが脳裏に焼き付いて、痛みなど気にする余裕が無かった。
「美羽、ごめんね。そんなことをするつもりはなかったんだ。信じてくれる?」
ただ、今の紅葉はその狂気が鳴りを潜めていた。いつも通り、わたしに対して歪んだ愛情を注ぎ、縛るように締め付けてくる。
けれど、今のわたしには、それが本当に怖かった。歪んだ愛情に、ではない。先ほどに見せた狂気が、これ以上ないほどに怖くて、今にも逃げ出したかった。
(でも、動かないっ)
しかし、わたしは少しも動かなかった。否、動くことが出来なかった。
先ほどの狂気を見てしまったせいで、天敵に睨まれた小動物のように、筋肉が弛緩して、立ち上がるどころか指を動かすことすら出来ない。
それは、わたしだけでは無かった。紅葉の取り巻きたちも、あの狂気と今の姿の差異を目にして、声を出せないでいる。きっと、彼女たちも紅葉に協力してしまったことを後悔しているのだろう。
「ねぇ、みんな、どうしたの?」
誰も声を出すことが出来ず、暗い暗い洞窟の中のように静まり返った校舎裏で、紅葉の声が静かに、そして有無を言わさない圧を持って、響いていった。
今の彼女はどちらなのだろうか? わたしには、それを判断す津ことが出来ず、何も言うことが出来ない。
本当にわたしは間違えてしまった。
良くも悪くも、わたしたちの関係は変わってしまった。もう、わたしは紅葉の歪んだ愛情に縛られることは無い。
その代わりに、ただならぬ恐怖に縛られるのだから。




