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いじめる貴方といじめられる私  作者: 月星 星那
溺痛美毒(表)

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拒絶と堕落

 ――今、いつも通りの笑顔を浮かべられているだろうか。わたしは何度も、自分自身にそう問いかけていた。


 あの昼休みの後、何事もなかったかのように教室へ戻り、机に腰を下ろそた。 周囲のざわめきはいつも通りで、笑い声や雑談が飛び交っている。

 誰も、わたしの震える指先にも、張りついた笑顔にも気づかない。でも、それでよかった。もし誰かに気づかれてしまえば、紅葉がどんなことをするのか想像もつかないから。


 ただ、唯一良かったことと言えば、わたしは案外演技が上手かったということだ。震える指先を机の下に隠し、歪んだ笑顔を「いつも通り」に見せかける。

 それだけで、誰も疑いの目を向けてこない。――椎名のような友達でも、恵のような親友でも。


 それは、少しだけ寂しかったけれど、ありがたかった。誰も気づかないことが、わたしにとっては救いだったから。

 たとえ、誰も見てくれていないことに絶望していたとしても。

 たとえ、この日常が終わらないことを理解してしまったとしても。

 それは変わらない。


「――ということで、気を付けて帰れよ」


 担任の先生の声が響き、終礼が終わる。椅子の軋む音、鞄を閉じる音、部活へ向かう足音。 教室はいつものようにざわめきながら、少しずつ空になっていった。


「美羽」


 けれど、一つだけ、いつもと違うことがあった。


「恵、どうしたの?」


 親友の恵が、わたしをじっと見つめていた。

 その瞳は、周囲のざわめきとは違う静けさを湛えていて、まるでわたしの仮面を見透かそうとしているようだった。


「……やっぱし、今日ちょっと変じゃない?」

 

 恵の声は小さく、けれど真剣だった。

 笑顔を貼りつけたまま、わたしは慌てて首を振る。


「そんなことないよ。いつも通り」

 

 言葉は自然に出てきたけれど、胸の奥では冷たい痛みが広がっていく。――演技は上手いはずなのに。どうして恵には、少しだけ伝わってしまうんだろう。


 ……気付いてほしいけど、気付いてほしくない。


「ううん、絶対に違う! わたしは美羽の親友なんだよ、美羽のことくらい分かる」


 恵の声は震えていた。怒っているわけじゃない。心配で、必死で、わたしを見失いたくないという気持ちが滲んでいた。

 でも、話すことが出来なくて、胸の奥が強く痛む。

 ごめん、本当にごめん。


「だから、隠さないで正直に話して」


 恵の真剣な眼差しが、わたしの肌に突き刺さり、つい恵から視線を逸らしてしまう。わたしは、ここまで優しくて、わたしのことを理解してくれる親友を持っているのに、その親友を頼ることが出来ない。


「……何にもないよ」

「美羽!」


 何にもない――そう言って離れようとした時、恵がわたしの手を掴んだ。


 『そうだよね。美羽は私のもの。誰にも触れさせない、誰にも渡さない』


 バシッ。

 紅葉の言葉が脳裏に閃き、無意識のうちにその手を弾いてしまった。


「あっ……そんな、つもりじゃ」


 恵の瞳が大きく揺れる。驚きと、ほんの少しの傷ついた色が浮かんでいた。

 胸の奥が痛くて、呼吸が浅くなる。わたしは今、恵に何をしてしまったのだろう?


「美羽……どうして」

 

 小さな声が、わたしの胸を突き刺す。


「もう、勝手にして!」

「け、恵!」


 必死に呼び止めようとするけれど、声は弱々しく、届かない。

 恵は振り返らず、足早に教室を出ていった。残されたわたしの手は、まだ震えていて、虚空を彷徨っている。


 胸の奥で自責が膨れ上がり、波のように押し寄せては、わたしを何度も沈めていく。呼吸は乱れ、喉が焼けるように痛い。心臓を握り潰される感覚が広がり、視界は滲んで揺れ続ける。


 ――どうして。どうして、恵の手を弾いてしまったんだろうか。恵はわたしの唯一無二の親友で、誰よりもわたしを理解してくれる存在なのに。

 

 ごめん。ごめん。ごめん。

 

 言葉にしようとしても、唇は震えるだけで、声にならない。謝罪は心の中で反響するだけで、誰にも届かない。


 わたしは、親友を傷つけた。

 わたしは、親友を裏切った。

 わたしは、親友を失った。


 その事実が、冷たい鎖のように全身に絡みつき、逃げ場を奪っていく。涙が滲んでも、視界が揺らいでも、救いはどこにもない。わたしはただ、自分の罪に押し潰されていくしかなかった。

 そして――

 

「美羽、私との約束をしっかり守るなんて、本当に良い子なんだね」


 恵との会話を聞いていた紅葉が近寄ってくる。その歩みは静かで、微笑みは柔らかいのに、背筋を冷たく撫でるような不気味さを帯びていた。


「神崎、さん……」

「ははっ、それにしても、まさか親友の手を振りほどくとは。美羽は、案外悪い子なのかもしれない」


 紅葉が、わたしの目の前で上体を倒し、下から見上げてくる。

 その瞳は笑っているのに、奥底では鋭い光が潜んでいて、逃げ場を与えない。


「それは……」

「言い訳をしたところで意味はないよ。だって、私は最初から最後まで見ていたんだから」


 ただ、そこには優しさが無かった。紅葉の言葉は、わたしが現実から目を逸らすことを許さず、親友の恵を傷つけたという事実を思い知らせて来る。

 いや、思い知らせる程度ではない。後悔と罪悪感を鋭い刃に変えて、胸の奥へ何度も突き立ててくる。


「ははっ、現実は受け入れないと。美羽は今、親友のことを拒絶し、傷つけたんだよ。向こうは善意で美羽のことを心配してたのにね。もう、親友に合わす顔は無いんじゃない?」

「そんなことは……」

「強がっても無駄だよ。だって、美羽自身がよく理解しているはずでしょ」


 紅葉の言葉は、全部正しい。

 わたしはもう、親友に合わす顔が無くて、本当にひとりぼっちになってしまった。

 いや……ひとりぼっちではない。


「でも、安心して。美羽には、私がいるんだよ。どれだけ絶望しても、どれだけ孤立しても、美羽の側には私がいる」


 言葉だけを見たら、それは本当に優しい約束のようだった。

 けれど、その声音には温もりがなく、冷たい鎖のようにわたしの心に絡みついてくる。

 ちょっとでも、冷静になっていたら、その言葉が慰めのような言葉では無く、わたしのことを支配するための言葉だと気付くことが出来ただろう。


 ただ、今は恵を傷つけてしまったことに動揺していて、その甘美な毒を受け入れてしまう。


「ほんとうに……?」

「そうだよ。美羽は、私の可愛い可愛いおもちゃで、所有物で――誰にも渡さないから」

「あり、がとう」


 本当はこの言葉を受け入れては駄目なことはわかっていた。

 でも、この甘い誘いは後悔や罪悪感から逃れるのには最適で、心を少しずつしびれさせていく。


 紅葉は、わたしの体を抱きしめた。その腕は柔らかく、後悔と罪悪感を一時的に忘れさせてくれる。

 ……甘くて、温かくて、けれど麻薬のように危うい。気づけば、その抱擁に依存してしまいそうになる。


「私の言うこと、聞いてくれるよね」

「……うん、何でもいいよ」


 そうして、わたしは紅葉に導かれるように、椅子に座らされた。

 紅葉は、わたしの体を撫でていく。太もも、腕、胴体、首筋……大切な宝物を撫でるかのように、丁寧で優しい手つき。そのおかげで、わたしの頭から罪悪感が抜け落ちていく。


 ――ごめん、恵。


 本当は、辛い現実を受け止め、恵に謝らなければならなかった。

 けれど、その勇気はもう残っていない。


 紅葉の手がわたしを撫でるたび、罪悪感は薄らぎ、代わりに甘美な安堵と悦楽が広がっていく。

 その安堵は慰めではなく、依存へと導く罠だと分かっているのに――抗えない。


「ははっ、美羽……その調子だよ。どんどん、どんどん私に溺れて壊れて、私のところまで堕ちてきて」


 唇に、何かが触れた感触がする。

 わたしが、生まれてから今の瞬間まで、誰にもあげなかったファーストキス。でも、それは奪われるようにして訪れた。

 胸の奥で抵抗の声がかすかに揺れたのに、唇に残る温もりがその声を押し潰す。不思議と嫌悪はなく、むしろ甘美な痺れが脳を麻痺させ、抗う力を奪っていく。

 

 ――もう駄目だ。ここまで来てしまった。


「これで、美羽は完全に私の物なんだね。そうでしょう?」


 罪悪感と背徳感が、胸の奥で絡み合い、重く沈んでいく。本当は拒まなければならなかったのに、わたしはこの甘美な罠に身を委ねてしまった。


「……ん、いいよ」


 今度は、紅葉の口がわたしの首に触れた。

 ざらざらとした触感が首をくすぐっていき、生暖かい液体の湿り気がじわりと広がっていく。その瞬間、背筋がぞくりと震え、心臓が痛いほど速く打ち始めた。


「か、神崎さんっ」


 けれど、紅葉はそれをやめず、むしろ、今度は歯を突き立ててきた。首筋に走る鋭い痛みと、生暖かい湿り気が混じり合い、ぞくりと背筋を震わせる。

 痛みが罪悪感のせいで、快楽へと変わっていく。鋭い刺激が首筋を走るたび、胸の奥で重く沈んでいた罪悪感がねじれ、背徳の甘美へと姿を変える。拒絶の声は喉までせり上がったのに、唇からは何も出てこない。


「美羽。これからも私は、美羽のことをいじめて傷つけていくけど、これが私の愛だから受け入れてくれるよね?」

「あり、がとう。……もっと、来て」


 もう、わたしは引き返せない。

 紅葉に愛され、傷つけれるたびに、わたしは自分自身がしてしまったことを忘れることが出来る。だから、理性ではこれがいけないことだと分かっていても、悦楽に染められた体と心が言うことを聞かず、紅葉の愛をもっと、もっと求めていく。

 

 これは、麻薬のような依存だった。

 罪悪感と背徳感は快楽に、快楽は忘却に、忘却は紅葉への渇望に変わっていく。その連鎖は、伽藍洞になってしまったわたしの心を埋めていき、痛覚と一緒に残留してしまう。


 理性と心。矛盾する二つの声が螺旋を描き、出口のない深みへと落ちていく。その螺旋はやがて形を失い、わたしを根源の渦へと呑み込んでいった。


 もう、ここから抜け出すだなんて考えられない。

 溺れるような、暗く甘美な日々が、静かに始まっていた。


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