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七,かび

 朝。目覚まし時計で夫を起こし、食欲がなさそうにするのを睨み付けて朝食を食べさせて、遅刻しないように早めに仕事に送り出す。マイカーは工場に置きっぱなしで、今朝はバス通勤しなくてはならないのだ。しきりに生あくびするのを、

「ほら!、しゃんとして!」

 と背中を叩いて玄関へ追い立てる。

「はいは〜い、旦那さんは今日も工場へ機械のご機嫌窺いに〜、だ」

 どうもふわふわ怪しい様子に、

「ほんとにしっかりしてよ? うっかり機械に巻き込まれて、腕を切り落とされたりしないでよ?」

 夫はギクリとした顔で振り返り、

「おいおい、恐ろしいことを言うなあ? そんな危険な機械じゃあ…………ないよ……」

 と、どうも心許ない。妻の不安げな顔に、

「大丈夫大丈夫、本当に危険はないように設計されてるんだから!」

 と、大げさなくらい明るく言って、妻の背後に娘がこっちを見ていないのを確認すると、んー、と行って来ますのキスをねだってきた。妻は顔を反対に背けて嫌がった。

「お酒臭いわよ」

 妻に拒否されてしょげた夫は、

「まだそんなに臭うか? コンビニでガムでも買ってくかなあ……」

 と、しょんぼり背中を丸めて靴を履き、ドアを開けた。

「行って来まーす」

 妻も突っかけを履いて後から出てきた。

「行ってらっしゃい、あなた」

 キスの代わりに両肩をポンと叩いて元気づけてやり、にやけた顔で振り返った夫は

「じゃな」

 と手を振って歩いていき、階段を下りる手前でふと横を向き、エレベーターのボタンを押した。上にいたらしいエレベーターはじきにドアが開き、夫は妻を見てもう一度手を振り、乗り込んでいった。妻は手を振り返し、そのまま見ていたが、ドアはなかなか閉まらず、何してるのかしらと見ていると、ようやく閉まり、下降していった。

 妻は手すりから下を見て、夫が出てくるのを待った。夫が出てきて、こちらには気づかず通りに出て、そこで誰かに会ったように立ち止まり、やがて女が歩いてきた。四元奈緒だ。今日はずいぶん早いお帰りだ。二人は向かい合って親しげに笑顔で何か話し、挨拶すると夫は歩いていった。四元奈緒はそのまま見送り、建物の陰で見えないがどうやら夫が振り返ったようで、手を振り、行ってしまったようでようやくこっちを向いた。見下ろしている妻を見つけ、笑顔で挨拶した。佐緒里は軽く挨拶し、顔を引っ込めた。


 部屋に戻ると、里香が廊下で、じっと壁を見つめて突っ立っていた。

「里香ちゃん、どうしたの?」

 上がっていって里香の見ている物を見た佐緒里は、

「まあ・・・」

 と息を飲み、思わず里香の両肩を強く引いた。

 かびがひどくなっていた。どうしてこんなになっているのに気づかなかったのだろう?と不思議に思うほど急激に。

「ママ、これなに?」

「かびよ。それにしてもひどいわね。里香ちゃん、触ってない?」

「ううん」

「そう。一応手を洗っておきましょうね」

 キッチンの流しへ連れていき、そこにも置いてある殺菌ソープでよおく手を洗わせた。

 里香は不安そうな顔で母を見上げ、

「おうち、けがしたの?」

 と訊いた。

「ううん。かびよ。キノコの仲間。でも毒キノコだから触ったり吸い込んだりしちゃ駄目よ?」

「血?」

「血じゃないわ。きっと壁の中の水道管が錆びているのね。錆の混じった水が漏れているのよ」

「ふうーん……」

 里香はこわごわ壁の方を見た。佐緒里も、なんだか黒くもやもやした陽炎が立ち上っているような気がした。

「大丈夫よ、里香ちゃんを幼稚園に送ったら管理人さんに言ってきれいにしてもらうからね?」

 佐緒里は出来るだけ娘をそちらに近づけないように幼稚園のカバンと帽子を持ってきて準備させると、まだ早いが、部屋を出て下へ行くことにした。

 エレベーターの前を通るとちょうど上の六階に止まっていて、佐緒里もエレベーターに乗っていくことにした。五階に下りてきてドアが開くと、佐緒里はなんとなく躊躇して、一拍置いて乗り込んだ。里香はエレベーターに乗るとぎゅっと母親の脚に体をくっつけてきた。佐緒里は「1」を押し、ドアの閉まるのを待ったが、ドアはなかなか閉まらず、「閉」に指を伸ばしたが、そこでまたなんとなく躊躇して、5秒ほど待って、押した。ドアは閉まり、下降を始めた。

 エレベーターの独特の密閉感は佐緒里も苦手だった。狭い箱の中の音の響きが嫌だし、暗い電灯が嫌だし、こもって濁った空気が嫌だ。娘はぎゅうっと体を寄せ、佐緒里もなんとなく箱の隅に寄って肩を縮込めた。

 一階に着いた。ドアが開いたが、佐緒里も里香もしばらくそのまま開いたドアを眺め、ゆっくり下りた。

 すぐそこ、共用の物置を挟んで一〇一号室が管理人室だ。まだ早くリンコちゃんハルキくんたちは来ていないので先に話だけでもしておくことにした。

 呼び鈴を押すと、「はあーい」と返事をしてすぐにドアが開かれた。

 管理人は平山という五十七歳の男で、額がはげ上がっているが、背が高く、肩幅が広く、シルエットだけ見ると怖そうだが、顔つきは至って穏やかだ。この手の施設の管理人として独身というのが気になるが、平山は人当たりのよい笑顔で、

「やあ、菊池さんの奥さん。リカちゃん。おはようございます。何かありましたか?」

 如才なく挨拶しながら、なんのクレームだろうか?と早くも気弱な表情を覗かせる。佐緒里は部屋の壁の「ひどいかび」を説明し、なんとかしてくれないかと頼んだ。そんなことは自分でしてくれと嫌な顔をされるかと思ったら、平山はひたすら恐縮し、

「そうですか。それはお困りですね? 申し訳ございません、なにしろ古い建物なものでして。さっそく除去させていただきます」

 と頭を下げ、佐緒里の方が拍子抜けして驚いた。

「業者さんに頼むんですか?」

「いえいえ」

 平山は苦しい愛想笑いを浮かべて手を振った。

「わたしがやらせていただきます。実を言いますとかびの苦情は多いものですから……。準備をしておきますので……これから幼稚園ですね? お帰りなりましたらさっそく部屋にお邪魔してよろしいでしょうか?」

「ええ…、よろしくお願いします……」

 この人と部屋で二人きりにならなければならないのかしらと不安に思ったが、

 そこへリンコちゃんハルキくんママさんたちが下りてきた。

「あらリカちゃんと奥さん。どうかしました?」

「では幼稚園に送ってきますので、よろしくお願いします」

「はい。行ってらっしゃいませ」

 平山は里香に笑顔で手を振り、佐緒里は娘に挨拶させ、ママさん仲間に合流した。

 道すがらかびの除去の説明をすると、

「あっらあー。だからカビには気を付けなさいって忠告したでしょう?」

 二人に笑われてしまった。

「でも管理人さんが部屋のかびの除去までしてくれるなんて、ずいぶん親切なんですね?」

「そう? ふつうなんじゃない?」

 そうかしら?と佐緒里は思った。

「管理人の平山さんって、だいじょうぶ?」

「は?」

 二人とも佐緒里の質問の意味が分からず、質問した佐緒里の方が恥ずかしい思いをしてしまった。

「だいじょうぶ…よ? そういうの得意なはずよ? あの人、元々小学校の用務員さんしてたのよお。その頃からこのマンションに住んでいて。部屋は別だけど。前の管理人さんがお年でやめるって言うんで、平山さんもそろそろ小学生相手はきついということで、管理人を引き継いで、一〇一号室に越したのよ。だからちょっとした修繕なんか、得意なものよ?」

「あ、そうなの、小学校の用務員さんだったの」

 そういう情報は最初に教えておいてもらいたかった。よけいな気を回して恥ずかしい思いをしちゃったじゃないの、と思いつつ佐緒里は素知らぬ顔で

「そう。それなら下手な業者さんより確かかしらね?」

 と話を合わせた。

 幼稚園に着くと担当の先生に腕のけがのことを報告し、あまり騒がないよう気を付けてくれるよう頼んだ。

 マンションに帰ってきて、階段で二人と別れた。リンコちゃんが三階で、ハルキくんが二階で、わざわざエレベーターに乗るほどではない。何故か幼稚園の送りから帰ってくるとエレベーターはいつも七階に上がっているのだった。

 エレベーターを呼び、一人で乗って五階に上がると、部屋の前に平山がかび除去の準備…除去剤、バケツ、雑巾、新聞紙、ゴム手袋にゴーグル、を用意して待っていた。

「お帰りなさい」

「ご苦労様です」

 素性がはっきりして安心した笑顔で佐緒里は挨拶した。

「お部屋はもうお邪魔してよろしいでしょうか?」

「えー……、ええ、よろしいですう」

 まあ独身女性の一人暮らしでもないので今さら恥ずかしがるような物もなかったはずだと苦笑いし、

「少々お待ちくださあい」

 と、鍵を開けてドアを開けると、念のため一人でさっと室内を確かめた。特に問題もなし。それより……、思わず立ち止まって見てしまう、どうしてこんなに…………………

 ドアを開け、

「どうぞ」

 と平山を招いた。

「失礼します。ではまず状態を見させてください」

 平山は道具はそのまま、サンダルを脱ぎ、靴下を履いた足で廊下に上がった。

「これなんです」

「ああ、これですね。なるほど・・・・」

 じっと観察する平山を佐緒里はどんな反応をするかと窺った。

 かびは、ひどい。

 黒い染みが水がにじんだように広がり、その中に黒い濃いまだらが浮かび、その中の三つ四つひどい物の中心から、赤い液体が流れ出ている。壁の内部がどうなっているのか知らないが、構造的にここに水のパイプが通っているとは考えづらい。何故こんな所にこんなかびが、まったく気づかない内に、生えてしまったのか、理解に苦しむ。

「赤いのは錆び……ですよねえ?」

「いや、これはかびのひどい奴ですね。コロニーが成長して盛り上がってるでしょう? 植物の出す粘液といっしょですよ」

「はあ……、そうなんですか? あの、壁の中に何かあるんじゃありません?」

 佐緒里はコツコツと壁を叩く真似をした。

「そうーですねえーー…。うーーん、なんとも言えませんが、とにかく古いので」

 同じ言い訳を繰り返して苦笑いした。

「とりあえず除去するということで。しばらく空き部屋になっていて、人が入って生活するようになったので、急激に活性化したのかも知れません。今取ってもしまた出るようでしたら、オーナーに相談して、本格的に中を乾燥させる工事をしなければならないかも知れませんが……」

 それでご勘弁願えませんでしょうか?と平山は佐緒里の顔色を窺った。こっちとしてもそんなに本格的な工事になってまた別の住居を探さなければならないのはごめんだ。

「ええ。それでもう出ないならそれに越したことはありませんわね。それじゃあ、お願いしてよろしいですか?」

「はい。作業は一時間ほどで終わりますが、薬品の臭いがしますので、つごう二時間くらい、部屋を出ていていただきたいのですが……」

「ええ。そのくらいかまいません」

「そうですか。よろしくお願いします。ではさっそく」

 平山は玄関のドアを開け放ち、新聞紙を敷き、作業の準備を始めた。佐緒里は外から見学していたが、平山が挨拶してゴーグルを掛けたので離れることにした。

 二時間……。

 さてどうやってつぶそうかしら?と考えて、お買い物も、衣類のお店はまだ開いてないし、スーパーはまだ品物が出揃ってないし。リンコちゃんかハルキくんのお部屋にお邪魔しようかしら?と考えた。まだどちらの部屋も訪ねたことはない。さてどっちにしようかしらと考えて……、ふと、上に視線が向いた。

 上……、六階……、六〇五号室………………

 かび除去剤の強烈な臭いが漂ってきて、行ってみようかしら、と、佐緒里は歩き出した。

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